急.約束の夏
冬が明け、春が来た。そして約束の夏が徐々に近づいていた。
計画変更に伴って人員が増減し、彫物師も聖画絵師も泣き言を喚いて仕事をした。石工たちはやることが変わっただけで流す汗の量に変わりはなかった。たくさんの食料が街の主婦たちを動員して消費された。たくさんの異臭を放つ衣類が、洗濯女たちの手によって石鹸の泡に包まれた。
ときおり教導会から視察団が来た。円卓会議を構成する偉い導師さまだという。地域の教区を統べる何人かの司教と揃ってやってきたので、その間だけ作業は止めなければならなかった。老人は接待のさなかに、司教であり同時に修道士であるナルシルのすがたを認めた。かれは視察団の末席にひっそりと立って老人の活躍を見極めんとしているように思えたものだった。だが結局、言葉を交わすことなくその場は終了してしまった。
アタゴオルが率いる〈森の民〉の作業員も仕事自体は順調だった。だが、老人が各仕切り役に事情を伝えたためにいささかの確執が生まれてしまったのは確かだった。末端に知らされていたわけではないが、こうしたことは場の雰囲気におのずと出てしまう。
仕切り役間でなんとなく忌避する姿勢が、そのまま作業員同士にもつながり、いつしかパンとスープを食べるときにも見えない壁が出来上がってしまっていた。老人はその空気感の移り変わりを知りつつも、何もできないことに歯がゆく思った。
そんななかだった。
石材泥棒が発生したのは。
「尖塔の石が足らない?」
「そうなんだ」
老人と息子はその件について話し合っていた。なんでも夜な夜な石材が減っているのではないかと言う話が現場から上がってきたのである。息子はそのまま言葉を続けた。
「石材は砦の材料にもなる。だから、戦さのためにだれかが盗んでることにならないか」
「だが、〈森の民〉は石の砦を持たない。かれらが用いるのは柵になるはずだ」
「しかし不穏な動きがあるのは〈森の民〉じゃないのか」
疑念は拭われぬまま、さらに事故が起きた。石が高いところから落ちてきて、〈森の民〉のひとりが死んだのである。
アタゴオルはその男を抱きかかえ、大声で泣き喚いた。ふだん見せない悲しみの深さに領民の作業員ですら、憐れみの心を抱いたくらいだった。老人は事故の原因を調べ、足場の組み方が悪いこと。さらに、急いで石を積み上げようと無理をしたことを指摘した。作業員を叱責し、悲しみに暮れるアタゴオルら〈森の民〉に対して一連の追悼の言葉を送ったのだった。
これが仕切り役の間では大層不評だった。
「あんたは〈叙事詩圏〉の臣民と、〈森の民〉、どっちのための仕事をしてるんだ」
日々行う進捗確認のついでで、仕切り役から面と向かって言われた嫌味がこれだ。老人はむきになって答えた。
「祈りを捧げるすべての人間のためだ」
「祈りはわれわれ〈叙事詩圏〉のものしか行わないぞ。つまり、そういうことでいいのか」
「ちがう。わたしが言いたいのは──」
しかし、どう言えば伝わるのだろう?
「いや、そうだ。そういうことだ。しかしだ。やり遂げなければならないことのために、見せるべき姿勢というものがあるだろう。いまかれらの不平を買うわけにはいかないはずだ。そうだね?」
「……なるほど」
仕切り役はそれを言われては、引き下がるよりほかになかった。
老人は次第に孤独を感じるようになった。自分が熱意を注いできたこの仕事。過去から引き継いでいま完成に向かって全ての力を注ぎ込んでいるこの仕事──その重要性を感じているのは世界でただ一人だけなのではないかと言う心地になった。
どうしてだれもこの重要性に気付かないのだろう。老人はそう思う。これは使命というべきものなのだ。たとえそれが全くの空疎なでたらめから始まったとしても、だ。その虚言の裏にもし善意の欠片があるならば、掬い取って次の世代に繋いでいかねばならない。特にそれが、だれの目にも捉えられないほど遠くかすかな、些細なものであればこそ。
老人が〈記憶堂〉の壁に手を触れ、その石材の冷たさに我に返ったとき、騎獣のひづめの音が現場を駆け抜けた。
なにごとかと振り返ると、赤い外套を翻した騎士たちが到来していた。剣と槍を振りかざし、〈森の民〉たちを指差している。
「騎士様、騎士様!」
老人は杖を投げ出して、その前に立ちはだかった。足腰が立たず、自然とひれ伏すかたちとなる。
「どうかおやめください」
「ふざけるな。貴様、教導会の使命を振りかざして謀反人をかくまっているではないか」
「謀反人……?」
「知らぬ存ぜぬは通じぬよ。そこのアタゴオルこそは、われらが探し求めた〈森の民〉の謀反人だ」
老人は仰天して振り返った。アタゴオルはそのまなざしを一身に受けて、たたずむ。
「アタゴオル……」
〈森の民〉の男は、表情ひとつ変えることなく、見つめ返した。
「なぜだ」と、かすれた声で言う。
「理由は知っているはずだ」
過去に仲間が死んだ。
同胞のために流した涙。無数の涙。
そうだ。そうなのだ。
理由なんてとうの昔に知っていた。ただ思い出そうとしなかっただけなのだ。それがなんなのかを知りもせず、考えもせず、ただ熱意だけを積み上げて、自分の堅牢な建物を打ち立てた。そこにはだれも住まない。だれの夜もしのいでくれないし、だれの寂しさをも温めることができなかった。
どうせなら、もっとましな仕事があったはずなのだ。無数の麦を育てる仕事。無数の空腹を癒す仕事。生まれた子供を育む家を建てる仕事。衣類を洗う仕事もあれば、水を汲む仕事もある。よりによって老人はその人生の大多数を、祈りの殿堂をつくることだけに注ぎ込んだ。その祈りは決してだれの腹も満たさないし、喉の渇きを癒さない。だれの怒りも慰めてくれないし、だれかが受けている現実の不条理を、決して改善してはくれない。
それでも、かれはこの仕事に価値があると信じたかった。
あの祈りの殿堂に、いるはずの何かに向かって、老人は。
「そうだったな」と、微笑む。
アタゴオルは笑わない。だが老人は誠意を込めて、〈叙事詩圏〉における祈りのしぐさを行なった。そのほんの一瞬の隙を突いて、アタゴオルは身を翻した。
騎士たちがあわてて追いかける。激しい土煙りが舞い、飛び散るさなか、老人はよろよろと立ち上がった。息子があわてて駆け寄って、立つのを助ける。
「ほら見ろ、言わんこっちゃない。おやじは人を見る目がなさすぎる。もうこれっきりで引退して、菜園でもやることだね」
「ああ、そうかもしれないな」と老人は疲れ切った様子でつぶやいた。
作業は再開された。もちろん、そこに〈森の民〉のすがたは一切なかった。
後日、司教のひとりがお忍びで視察に来た。だれかと思って恐る恐る応対したところ、修道士ナルシルだった。
「いまは修道院長ですけどね」とナルシルは不敵に笑った。「いろいろありまして」
「俗世を離れたものにも出世というものがおありなのですね」老人は皮肉を言った。
「あいにくわたしの仕事は、俗世のものと向き合うことだからね」
ナルシルの肝の太さには、恐れ入るばかりだった。
「してご用件は?」と老人は切り出す。
「夏の約束だが、その件はなしになった」
「どういうことでしょう」
「簡単なことだ。この辺境から危機が消え失せたのだ」
老人は首をかしげた。
「わからぬか。例のアタゴオルが、首魁だったのだ。かれの目論見が事前に暴かれ、現場から逃走させられたいま、わたしの立場からきみたちの〈記憶堂〉の計画を阻止する理由はなくなったと言っていい。もちろん、完全に問題がなくなったわけではないが、それはまた別の話だ」
「そうですか。しかしもうじき完成します。もっとも、完全なものではありませんから、あとからまた新しい注文が起きるかもしれませんがね」
「かまわぬさ。それはきみのなかで出来上がっている。物理的な完成は息子さんに引き継いでもらえばいい」
「はあ」
老人は、あまりの事態の移り変わりに、すっかり年齢以上に歳を取ってしまったような錯覚を覚える。いままでの苦労はなんだったのか。いままでの努力はなんのためにあったのか。このことを現場に伝える。その仕事だけでもうくたくたになりそうだった。
「ところで」とナルシルが言う。「ひとつだけ詫びを入れなければならない」
「はて。なんのことで」
「きみの現場から石材が盗まれた件、あれを手配したのはわたしだ」
老人はナルシルを見た。怒りすらも湧かなかった。
「わたしはね、〈叙事詩圏〉の安全を守らなければならない義務があるんだ。したがってきみの仕事が達成しようがしなかろうが、砦を完成させる必要があったのだよ。当然のことだ。ちがうだろうか」
「いいえ。わたしの仕事など、しょせんは──」
「そう卑下するな。無意味だとは思わぬ」
見ろ、とかれは〈記憶堂〉に群がって働くひとびとをあごで示した。
「あそこで働いている人間は、決して空疎で無意味なことをしているだろうか? 働くこと自体に意味がなくても、なすべきことを与えられ、不平不満を言い、雇い銭をもらい、それからたまに家族と美味い食事をする。たったそれだけのことが、あの場所には存在する。それでいいんじゃないのか」
老人は言われて、だんだんその気になっていた。
「盗んだ石材については、もう返すことができない。砦の礎石になってしまったからな。だから尖塔を造る石材は、新しく石切を雇って見繕うといいだろう、ちょうど──」
言いかけたとき、老人は現場の仕切り役に呼び出された。会話を遮られたナルシルはむっとするが、ただならぬ事態を察して黙る。
「ちょっと来てください」
ふたりは誘われるままに足を運んだ。そこには、尖塔を造るにふさわしい石材がうずたかく積まれていた。
「これなんですけど、手紙もあるんです。おれ字が読めないから読んでもらいたくて」
老人は、その獣皮紙を手に取った。封印はない。無造作な商用文字だ。しかしそれを読み取ったとたん、老人はなぜか胸の奥に熱く感じるものがあった。
「なんて書いてあるんだ?」とナルシル。
老人は読み上げた。「つかのまの友へ。つかのまの同胞より」
名誉市民ヘラルドのなかに、〈記憶堂〉は燦然と扉を開いていた。