真実 #1
茉菜と別れて家に帰りついてから、私は一度も涙を流していない。
家族を心配させぬために、無理をして堪えているわけではない。
私は悲しいんだ。苦しいんだ。声を出して思いっきり泣きたいんだ。
でも、涙が出ない。体の中から涙がすべて干上がったかのように。
泣く気力さえ失われたのか。それとも、本当は悲しくなどないのだろうか。
そうじゃない。私の心が、現実を受け入れることを拒絶しているんだ。
由美と私は、元々友達なんかじゃなかった。由美との間に友情なんか無かった。
だから、由美が誰とどうなったって私には関係ない。悲しむ事なんて何もない。
私は茉菜なんて子は知らない。パラレルワールドなんてありはしない。
だから、その子が私の気持ちを理解できなくとも、失望する事なんて何もない。
夜が明けようとしている。
夜の空の漆黒が、群青に、やがて青に染まり。日の光で朝の空に塗り替わる。
私はその移り変わりを、心をどこかに置き忘れた人形のように見続けている。
一晩中起きていたのか、それとも眠っていたのか、自分自身にもわからない。
天井の無意味な模様で、空想の星座をつくる。
そこに、由美の面影が現れると、慌てて目を閉じる。
そのまま眠ろうと試みても、由美や茉菜の顔が脳裏に映し出されると、再び目を
開けて天井の星座探しを空しく繰り返す。
一晩の間に、幾度このルーチンを繰り返したろう。
十回、百回、あるいは億万回だろうか?
昨日の出来事が、遥か昔のことのように感じられる。
それとも、既に幾千億もの夜が行き過ぎていったのだろうか。
夢なのか現実なのか、覚めているのか眠っているのか。
混沌とした、意識の中で時間だけが私の傍らを通り過ぎていく。
今日は夏休み初めの補習授業の日。私は、この日の補習を休むことにした。
病気でもないのに学校を休むのは、生まれて初めてだった。
お母さんには、具合が悪いからと言っておいた。だけど、感の良い人だから別の
理由がある事は、見透かされているかもしれない。
学校を休むことにしたので、気が緩んだのか濃い睡魔が襲ってきた。
ウトウトと瞼も居眠りを始めたころ、階段を登ってくる足音が聞こえた。
お母さんが部屋の前まで来て、由美の来訪を告げる。
一遍に目が覚める。
慌ててベッドから飛び起き、ドアを開ける。
「由美が? …来てるの? 下に?」
「ええ。何だか、凄く深刻そうな顔してたけど…」
なんのつもりだろう。
私が着拒してるから、直談判のつもり。
でも、とても顔を合わせる気にはなれない。
お母さんに頼んで、由美には帰って貰った。
「どうしたの? 由美ちゃん、芽菜の一番の友達だったじゃないの」
当然ながら、その事でお母さんと、ひと悶着あった。由美との間で起きた問題を
上手く説明する事は出来なかった。けれど、私の尋常でない様子が伝わったのか。
「今は、あなたの判断を尊重するわ。でも、はやまった真似はしないでね」
と言って引き下がってくれた。
由美が訪ねて来たことで、私の眠気はまた引っ込んだ。
由美を追い返したことを後悔しつつ、天井の模様に関心を移す。
遠くで救急車のサイレンが響く。そんな街の喧騒を私は違う時間の出来事として
聞く。
なぜ、時間は過ぎ行くのだろう。なぜ、時間は巻き戻せないのだろう。
私の大好きだった由美のいる時間に、私は帰りたい。
いつの間に寝入ったのだろう。気がつくと、午後になっていた。
エアコンをつけていなかったので汗だくだ。体の節々が痛い。
ベッドから起き出して、勉強机の椅子に腰掛けて、頬杖をつく。
大きな溜め息がでる。
私は何をしているんだろう。何をすれば良いのだろう。
ふと、机の上の写真立てが目に入った。由美と私が笑顔で一緒に収まっている。
こんな時間もあったんだ。この時の私達は、今のこの瞬間を想像もしていなかった
だろう。
私はその写真立てを引き寄せ、背中の板を外して写真を取り出す。
もう、この写真は要らない。この時代の私達はもう居ないのだから。
私は、写真の上の縁を両手で掴み、引き裂こうと力をいれる。
その刹那。熱いものが頬を伝って落ちた。
「出来ない。出来ないよ。私は、まだ由美のことが好きだ…」
心の奥に隠していた言葉が、私の殻を突き破って飛び出してきた。その言葉で、
歯止めが外れたように、私は机に突っ伏して声を上げて泣き始める。
由美と友達でいたい。前のままの私たちでいたい。
でも、それは決して叶わぬ願い。
由美の心はもう私の方を向いていないのだから。
―あなたの見えない所に真実があるのかもしれない―
茉菜の言葉が頭に浮かんだ。見えない真実。そんな物が本当にあるのだろうか。
私は思い立って、机の引き出しを開ける。
そこには剛ちゃんからの絵葉書がしまってある。
それを机の上に取り出し、消印を頼りに送られてきた順番に並べ直す。
そして、通信面に書かれた文の先頭文字を拾い読みする。
『芽・な・が・す・き・だ・と・お・く・は・な・れ・て・い・て・も』
私は、そこに見えていなかったものを見つけ出した。
見えない真実は……あった。
―由美のことも、剛ちゃんと同じ―
茉菜のもう一つの言葉が耳の奥に聞こえ、私に希望を告げる。
由美にも、私に見えていない真実があるのかも知れない。
それが分かれば、もう一度、由美の手を握れる瞬間が来るかもしれない。
…でも。どう考えても、由美の見えない真実は見えてこない。
由美の心が私から離れたのは、岳くんとの付き合い始めたのが発端だ。見えない
何かが入り込む余地はない。
再び、私の中で重い失望が首をもたげる。
友情などというものは、やはり幻想なのだ。
辞書の隙間を埋めるためだけの、偽りの言葉に過ぎない。
親友なんて、漫画やアニメの中だけの、二次元以下の存在でしかないんだ。
親友…。
その言葉を最近、どこかで聞いた気がする。
漫画? 小説? いや違う。たしかに『聞いた』のだ。
アニマかドラマか? 違う。私が誰かと交わした会話の中で、確かに聞いた。
どこだっけ、いつだっけ。
そこに光明があるかもしれない。その思いで、懸命に記憶を掘り起こす。
|あなた、…さんの友達なの?|
|はい。親友だと思っています|
そうだ、思い出した。茉菜と入れ替わって、ソフトの試合に出た日。
怪我が治っている事を皆に隠していた加賀谷一年生の秘密を、浜野一年生が私に
告げた時の会話だ。
あの時、浜野一年生はその友のために、私に立ち向かって来たんだ。
親友という言葉は、まだ生きている。その事が、涙がでる程に嬉しかった。
頭の中で、私と浜野一年生が対峙するシーンが、中学時代の私がマドカ二年生と
対峙するシーンと重なる。
練習には参加しないくせに、試合は特別扱いで起用される。
浜野一年生にとって、私とマドカ二年生は同じ類の存在だったのだろう。
ここで、私はふと思う。
中学時代にマドカ二年生と衝突したあの日、もし、私がマドカ二年生にボールを
投げつけたりせず、浜野一年生のように言葉を尽くして思いを伝えたら…。
バスケ部を二分する騒動にも成らなかったかもしれない。私がバスケ部を辞める
ことも……、無かったかもしれない。
後悔の雲が湧き上がる。でも、それは今更考えても意味の無いこと。
私は、浜野一年生の言葉に耳を傾けたけれど、マドカ二年生が私の言葉を真摯に
聞いてくれたかどうか分からない。私がいくら誠意を尽くして手を差し伸べても、
相手が受け入れてくれなければ、思いは届かない。
そこまで考えて、私はハッと息をのんだ。
今、由美が私に向かって懸命に手を差し伸べている。それなのに、私はその手を
無下に払いのけている。その掌中に、真実が待っているかもしれないのに。
私は、大急ぎでスマホを手に取る。
震える指先で通話履歴を開き、由美の電話番号を選択する。
でも、そこで手が止まる。由美に何を話せばいいんだろう。
私は、由美を嘘つきと詰った。電話も着拒している。今朝は、由美を門前払いに
した。今更、由美にどう接すればいいんだろう。
ヴヴヴヴヴ ヴヴヴヴヴ。
スマホが震えた。思わず肩に力が入る。
誰から? 知らない番号が表示されている。恐る恐る通話を受ける。
「もしもし。佐藤芽菜さんの電話?」
「岳くん!」
「由美の電話が着拒されてるんで俺のスマホからかけてる。いま話していいか?」
「うん」
「単刀直入に話す。俺と由美は、付き合ってる。そして、さっき由美から、別れて
欲しいと言われた。理由はナッチの心を傷つけたから。その事で、由美がナッチと
話したがっている。来てくれないか?」
「どこに行けばいい?」
「城址公園」
「わかった。直ぐ行く」
私は大急ぎで着替えると、お母さんの制止の声も聞き流し、矢のように家を飛び
出した。




