おまけ③ 骨折ゲインズ
「よさそうな宿だな。部屋が空いてるか訊いてくるから、ランドゥは荷物を見ててくれ」
レナルドはそう言うと、レンガ塀の前にランドゥと旅の荷物を残して、宿屋のドアのむこうへ消えた。
ランドゥは落ちつかない気持ちで、ペンキ塗りの簡素なドアを見つめた。
精霊使いの姿が見えなくなるのは不安だった。
レナルドは昔、衛兵に連れられてドアのむこうへ消えてから、何年も戻ってこなかったことがある。
レナルドのいない日々は、時の流れが止まったような、色彩のない日々だった。
人の体を持ち人の意識を持つのがつらくなるような、味気ない毎日。季節だけがただ巡る年月。
自分はこのまま人の体の輪郭をなくし、大気に還るのだと思った。
そう思ったら胸の奥が苦しくなって、立っているのすらしんどくなって、ランドゥは暗がりにしゃがみ込んだ。
しゃがみ込んだまま、長い時間を過ごした気がする。
無為の時を過ごすくらいなら、はやく大気に還ってしまいたい。
そう思って過ごしていたのに――。
子供のころからレナルドのそばをうろちょろしていた若者が、ふらりと宿舎へやってきては、「レナルドは絶対帰ってくる」「君は私が守る」「レナルドが帰ってくるまで、私と一緒に鍛錬しないか?」などとごちゃごちゃ言ってくるのだ。ついには彼の屋敷へ連れていかれる始末だった。
――おかげで大気に還りそびれ、ランドゥは今、こうしてレナルドと旅をしている。
ランドゥは空を見上げた。秋の終わりの、澄んだ青空。
王都と呼ばれていた街とは違い、『精霊気』の気配が濃い。
自分はまだ大気に還らなくてもいいだろう。親愛なる精霊使いが老いて死にゆくそのときまで、人の姿でいていいだろう。
「ちょいと兄さん。後ろ気ぃつけてぇな」
宿屋は塀を普請中で、レンガ職人がせっせと働いている。ランドゥの背後では、真新しいレンガが着々と積まれていくところだった。
人の姿の戦士精霊は、人とおなじに見えるらしい。兄さん呼ばわりだ。
レナルドはなかなか戻ってこない。宿代の交渉をしているのだろうか。
「親方、ちょっとすんません」
見習いが職人を呼び、ランドゥの背後には作りかけのレンガ塀が残された。
ランドゥの目の高さほどに、レンガがひとつ、漆喰で固定されていない状態で乗っている。見習いに呼ばれた職人が、手にしたレンガをとりあえず置いたままにして行ってしまったのだろう。
落ちたらあぶないのではないか。ランドゥはレンガに近寄り、下ろしておこうと手を伸ばした。
そのとき二人連れの男たちが、レンガ塀のむこう側に立ち止った。宿屋の前は、乗合馬車の停車場になっているらしかった。
「デスカリドの権勢はもう終わりだな。長官を降ろされたらしい」
男のひとりがそう言うのが聞こえ、ランドゥは伸ばしかけた手を止めた。
デスカリドの名は知っていた。レナルドの敵だ。
「我々はトンズラして正解だったわけだ」
「おまえはいつも逃げ足がはやいよ、ゲインズ」
ゲインズの名も聞いたことがある。桃色の服を着た戦士精霊が、憤っていた相手ではないだろうか。「あのゲインズとかいう下っ端! ほんと腹立つわー。また鼻の骨、折ればいいのに!」とかなんとか。
レナルドの娘が「せめて足の小指くらい折ればいいわよね」と、めずらしく物騒なことを言っていたから覚えている。
足の小指。
ランドゥは、固定されずぐらぐらするレンガに目をやった。
怪しまれないようにやや離れ、伸びあがってレンガ塀のむこうの男たちの、足元を見る。
あのレンガを落としたら……ゲインズと呼ばれた男の足に直撃しそうだった。
指先でほんの少し押せばいいだけ――。
でも、やらない。
レナルドが「戦士精霊は魔物を屠るためにいるんだ。人や精霊を傷つけてはいけない」と、いつも言っているから。
だから、自分はやらない。
絶対に。
「ランドゥ! 待たせたな。部屋はあるそうだ」
ペンキ塗りのドアが開き、レナルドが笑顔で出てくる。
ランドゥは彼の笑った顔が好きだった。自分は笑顔を作れないが、笑顔を返したいという気持ちは、いつもしっかりレナルドに届いていると感じている。
レナルドはレンガ塀の前に置いた、自分のトランクを持った。持ちあげた拍子に、トランクの角がレンガ塀にぶつかった。
固定されていないレンガが、ぐらりと揺れて、落下した。
塀のむこう側へ――。
レンガが地面にぶつかって砕ける音はしなかった。
その代わり、「ひぎぃ」とくぐもった悲鳴が聞こえた。
ランドゥはもう一度首を伸ばしてゲインズを見た。地面にうずくまって悶えている。
右足の小指あたりを押さえて――。
「どうしたランドゥ? 行くぞ」
レナルドはなにも気付いていないようだ。
ランドゥはなんでもないと言うように小さく首を振って、精霊使いのあとに続いた。
小悪党に天誅が下ったところで、連載は終了です。
おまけ編書くのとても楽しかったです♪
ご愛読どうもありがとうございました~!




