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水底の蜘蛛、不屈の関宿城  作者: 水川仁


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第5章:静寂の毒、寂寥の夜

公方の御所では、夜ごと静かな宴が開かれていた。


表向きは若き公方の慰みのための酒宴。


だが、その実態は高助が仕組んだ「罠」の舞台であった。


芳春院――まだ若いその娘は、公方の前に出るたび、慎ましく、しかし確かな存在感を放っていた。


彼女は父・高助から多くのことを教え込まれていた。


男を喜ばせるための振る舞いではない。


公方の心の奥へ入り込み、二度と簗田の手から逃れられぬようにするための術である。


――『公方様は格式を重んじる』


高助はかつて娘に語った。


――『だが、その格式の奥には深い寂しさがある』


――『お前はその寂しさに寄り添え。だが媚びるな。媚びる女はすぐ飽きられる』


芳春院は、その言葉を一つ残らず胸に刻んでいた。


彼女は晴氏の前で多くを語らない。


だが、その沈黙の合間に、ときおり胸を突く言葉を差し挟んだ。


「公方様は、本当にこの関東を治めたいとお思いですか」


ある夜、芳春院は静かにそう問うた。


晴氏は酒杯を持ったまま固まった。


「そ、それはもちろんだ」


「では、なぜ家臣たちの言うままに――」


そこで芳春院は言葉を止めた。


しかし、その続きを語る必要はなかった。


晴氏の胸には鋭い棘が刺さっていた。


家臣の意向に流され、誇りを削られている己の不甲斐なさ。


それを見透かされたような気がしたのである。


「……お前は簗田の娘だな」


晴氏はようやく口を開いた。


「はい」


「お前の父は、いつも余に……いや、わしに、多くのことを申す」


「父は公方様のためを思って動いております」


芳春院は静かに答えた。


その声に媚びはない。


恐れもない。


ただ揺るがぬ確信だけがあった。


「公方様が望まれるのであれば、父はその望みを叶えるために力を尽くしましょう」


晴氏はその言葉を聞きながら、自らの望みとは何かを初めて真剣に考えていた。


彼は生まれながらにして公方だった。


だが、公方である意味を本当には理解していなかった。


「……わしは、関東をまとめたい」


ようやく絞り出した言葉に、芳春院の瞳がわずかに光る。


「ならば、公方様はもっと強くならねばなりませぬ」


「強く……」


「はい。ただ家臣に従うのではなく、家臣を動かすお方にならねばなりませぬ」


その言葉は、高助が娘に授けた教えそのものであった。


しかし晴氏は、それが高助の意図を帯びた言葉だとは露ほども気づかない。


彼にはただ、目の前の女が示す忠義の言葉として響いていた。


暗闇の中で見つけた唯一の理解者。


そう思った。


そして晴氏は、自ら進んで簗田の張った網の奥深くへと足を踏み入れていく。


「……お前を、わしの側に置こう」


芳春院はそれ以上を求めなかった。


ただ静かに頭を下げる。


その胸中には、父・高助の計画が一歩ずつ成就へ向かっているという確信だけがあった。


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