出られない喫茶店 前編
昨日みつけた建物が消えていた。
それは滑らかな白い壁がオシャレな六階建てアパートだった。路地裏に面した非常階段は艶消しの黒で、暖色の誘導灯に照らされた踊り場にはしかし、誰の姿もない。
そんな魅力あふれる建物が消えていたのだ。
探偵みすずは非常階段が好きだ。
身近にあってなお、どこか隔絶した非日常の気配がある。路地裏に密集していれば複雑な構造に見ごたえがあるし、実際に登ってみれば空に吹く風だって楽しめるだろう。
しかし、あの夜みつけたアパートが、今日はどこにも無かったのだ。
陽射しが穏やかな午後。喫茶店の開拓ついでにあの非常階段をもう一度鑑賞しようとやって来たみすずは、アパートどころか近くの道にすら辿り着けなかった。
とはいえ原因は分かっている。昨日と同じ道を通らなかったのがまずかったのだろう。
道に迷ったわけではない。
違うのは道ではなく、世界の方だった。
不可視の迷路を潜り抜けた先に、異界が現れたのだ。
みすずは車が行き交う大通りの対岸を眺める。
そこは記憶にある景色とまるで違っていた。以前は薬局やコンビニがあった場所に、見たことのない様式の高層建築物が並んでいる。
木造ではない。煉瓦やコンクリート、金属とも違う。どちらかといえば漆喰に近い質感の表面はなぜか暗い橙色で、植物が絡みついていた。
つまり新築ではないのだ。
まるでずっと昔からそこにあったかのように、街の一部が書き換えられている。
その境界線に沿って、いくつもの標識が立っていた。
『立入禁止』
『とまれ』
『引き返せ』
いくつもの言葉で危険を知らせてくる標識とは裏腹に、奇妙な街はまるでみすずがやって来るのを待っているかのように悠然と佇んでいる。
都会の喧騒を飲み込む奇妙な街並み。道路を挟んだ向こう側は静寂で満ちていた。
それは非常階段にも似た、隔絶した非日常の気配だった。
目当ての建物が見つからなかったにも関わらず、みすずは上機嫌で歩き続ける。
二つの世界の境界線を進むこと数分。みすずは唐突に足を止めた。
異界の中に妙なものを見つけてしまったのだ。
「喫茶店……?」
みすずは呟いた。
異界ならではの奇妙な街並みの中、そこだけぽっかり穴が空いたように普通の喫茶店が建っている。
通りに面した壁には大きなガラス窓がはめ込まれ、花壇に植えられた花が彩りを加えている。
こじんまりとした佇まいの店は、喫茶店開拓が趣味のみすずにとっては見慣れたものであった。しかし、場所がおかしい。
みすずは顎に手を当てて考える。
あの店だけが異界化を免れたのだろうか。いや、いくらなんでも都合が良すぎる。そんな考えをみすずは認めない。
であるならば、やはりあの場所は異界化しており、誰かがわざわざその中に喫茶店を建てたのだと考えるのが自然だ。とはいえこの説も疑問が残る。
現れたり消えたりする喫茶店なんて危なくて入っていられないだろう。
境界に沿って立ち入り禁止の標識がいくつも立っているのは、不用意に入って戻れなくなった人が続出したからだ。そんな場所で落ち着いてコーヒーを飲めるだろうか。
「いや飲めるか」
少なくともみすずは飲む。
いつどんなときも焦らず冷静に、最大限目の前のモノを楽しむ。それがみすずという探偵の生き様なのだ。
好奇心には抗えない。
みすずはちらりと周りの様子を伺った。
まばらな通行人は誰も彼女に注意を向けていない。
ときどき人や自動車が異界側に進むものの、その姿は半透明に消えて見えなくなる。彼らにはきっと異界は見えていないのだろう。
現実は曖昧で、踏み込めるのはその先が見える者だけ。
みすずは今、彼らを追うことはできず、彼らもまた、みすずを追うことはできないのだ。
不思議な感慨に囚われながら、みすずは喫茶店めざして道路を横断していった。
カランコロンと陽気な音を奏でるドアベルに迎えられて、みすずは喫茶店に踏み込んだ。




