第一話
田中幸子、享年五十八歳。
羽田空港第二ターミナルの清掃員として十五年間勤め上げた彼女の人生は、端的に言えば、あまり幸運とは縁がなかった。
三十代で結婚した夫は温厚な男だったが、幸子が子を授からないとわかると、五年の結婚生活ののち静かに離婚届を差し出した。
怒鳴りも泣きもせず、「君のことは好きだったよ」と言い残して去ったのが、かえって胸に刺さった。
恨む相手もいない別れというのは、悲しみの落としどころがなくて困る。
それからは仕事一筋。
清掃の仕事を馬鹿にする人間もいたが、幸子は気にしなかった。
磨けば光る。汚れが落ちる。その単純で確かな達成感が好きだった。
ガラス一枚を完璧に拭き上げたとき、床を鏡のように仕上げたとき、幸子の胸にはささやかだが本物の満足感があった。
そんな彼女が逝ったのは、十月の晴れた朝だった。
出勤前に横断歩道を渡っていたところ、信号無視のトラックに跳ねられた。
あっという間だった。痛みすら感じる間もなく、幸子の意識は白い光の中に溶けていった。
そして気がついたら、見知らぬ天井が見えた。
エルシア・フォン・ヴラディ子爵令嬢は、十八歳の誕生日の朝に前世の記憶を取り戻した。
目覚めた瞬間、五十八年分の田中幸子の人生がどっと頭に流れ込んできて、しばらくベッドの天蓋をぼうっと見上げていた。
「……私、前、田中幸子だったんだ」
口に出してみると妙に落ち着いた。
幸子は基本的に動じない女だった。
十五年間、どんな修羅場の汚れも、酔っ払いの粗相も、嵐の後の混乱も、淡々と片付けてきた。
異世界転生くらいで慌てるものか。
ただ。
「この世界、やっぱり乙女ゲームっぽいな」
エルシアとして生きてきた十八年の記憶と、幸子の記憶が混ざり合い、ぼんやりとした輪郭が見えてくる。
これはどこかで読んだ、あるいは見た話の構造だ。
没落しかけた子爵家の長女。美貌と才気を持つ妹。
そして婚約者である伯爵家の嫡男、アルベルト。
幸子はため息をついた。
「嫌な予感しかしない」
予感は的中するのが世の常である。
その日の夕方、アルベルトが屋敷にやってきた。
整った顔立ちに、どこか人を見下したような目をした青年だ。
幸子の目には「苦労を知らないお坊ちゃん」と一発で見抜けた。
十五年間、空港でいろんな人間を見てきた目は正直だ。
アルベルトの隣には、エルシアの妹であるジュリーが寄り添っていた。
亜麻色の巻き毛に大きな瞳、誰もが思わず守ってあげたくなるような愛らしさを持つ少女だ。
「エルシア姉さん、ごめんなさい。でも私たち、愛し合ってしまったの」
ジュリーが潤んだ瞳でそう言う。
アルベルトが一歩前に出た。
「エルシア嬢、婚約を解消させていただきたい。ジュリー嬢こそが私の真実の愛です。あなたは美しいが冷たく高慢で、妻にするには不向きだ。これは双方にとって不幸を避けるための、賢明な判断です」
幸子は心の中で「あー」と思った。
前世でもこういう男を空港で見たことがある。
自分の都合のいい理由を並べ立てて、さも相手のためを思っているような顔をするタイプ。
清掃員を透明人間扱いして通り過ぎていく類いの人間と同じ目をしている。
「そうですか」
エルシアの口からは、ただそれだけが出た。
「……怒らないのか」
「怒っても婚約が戻るわけでもないでしょう」
「し、しかし普通は」
「アルベルト様は私の感情の発露をご覧になりたいんですか。それはご趣味が悪い」
幸子式の、遠慮のない物言いだった。
アルベルトは顔を赤くした。
ジュリーは「姉さん、ひどい」と涙をこぼした。
だが話はそれで終わらなかった。
婚約破棄の報告を受けた父・子爵は、顔色を変えてエルシアを書斎に呼んだ。
「エルシア。お前がアルベルト君の心を射止められなかったのは残念だが……実はここ数年、我が家の財政が逼迫しておってな」
つまりは、持参金のあてが消えた今、長女一人を養う余裕がない、と。
父は口には出さなかったが、幸子には長年の人間観察でわかった。
「出て行けということですね」
「そ、そんな言い方はないだろう。お前の幸せを思えばこそ……」
「父上」
エルシアは、静かに微笑んだ。前世の幸子が会得した、どんな理不尽にも動じない、穏やかで揺るぎない笑顔だ。
「わかりました。心配なさらないでください。私は自分でやっていけます」
縁故もなく、財産もなく、元婚約者もなく屋敷を出たエルシアが選んだのは、王宮の使用人募集に応募することだった。
当時、王宮ではまとまった人員を急募していた。
理由は単純明快、前任の清掃班が集団で辞表を出したからである。
なんでも、清掃総括責任者のドラン老人が細かすぎて誰もついていけなかったらしい。
面接でエルシアは聞かれた。
「令嬢が清掃ですか?」
「清掃が嫌いな方に綺麗な場所は作れません。私は好きです」
採用担当者はしばらく沈黙してから「……採用です」と言った。
初日、エルシアは王宮の東棟に配属された。
清掃道具を手に通路を歩いたとき、幸子の魂がすうっと前に出てくる気がした。
「ああ、これだ」
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