第二話 助手が二名加わった
モップを握った瞬間、体に染み込んだ十五年の記憶がよみがえる。
正しい力の入れ方、正しい動かし方。汚れの種類を見分ける目、洗剤の配合の勘。
令嬢の細い腕でも、幸子の技術があれば別次元の働きができた。
三日後には東棟の廊下が別物になっていた。一週間後には他の清掃員たちが「エルシアさんのやり方を教えてください」と集まってきた。
二週間後には清掃総括のドラン老人が目を丸くして「三十年で初めて合格点の床を見た」と唸った。
「エルシア嬢、あなたはどこで掃除を学んだのですか」
「……前世で」
「は?」
「独学です」
ドランは首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
エルシアの評判はじわじわと広まった。
ただし最初は「清掃員に転職した元令嬢」という物珍しさでしかなかった。
しかし彼女が仕上げた部屋に入った者は一様に言った。
「なんだか、空気が違う」
それは清潔さだけの話ではなかった。
床の光り方、窓から差し込む光の角度を計算した拭き方、空気の流れを邪魔しない家具の埃の払い方。
幸子が羽田空港で磨き上げた美意識が、異世界の王宮に静かに宿り始めていた。
事件は、エルシアが着任して一ヶ月後に起きた。
北棟の清掃を終えて道具を片付けていると、廊下の奥の暗がりで、何かが動いた。
小さい。
二つ。
エルシアが目を凝らすと、柱の影に子供が二人、体を寄せ合って座り込んでいた。
年のころ五つか六つ。金色の髪に青い瞳、そっくりな顔立ちの男の子と女の子だ。
女の子が静かに泣いていて、男の子がその肩を一生懸命撫でていた。
「どうしましたか」
エルシアは屈んで、二人に目線を合わせた。
令嬢的なかしこまった言い方ではなく、幸子が空港で迷子の子供に使うときのような、自然な声で。
男の子が顔を上げた。目が赤い。こちらも泣いていたのだ。
「……お母様が、死んだ」
一言だけ、そう言った。
エルシアの胸がぎゅっとした。
後で知ったことだが、この二人はリオン王子とリア王女。
国王陛下の末の双子で、三週間前に母后が病で崩御したばかりだったのだ。
「そうでしたか」
エルシアはすぐに慰めの言葉を並べなかった。幸子は知っていた。
本当に悲しいときに、上辺だけの慰めは何の意味もないことを。
「泣いても、いいですよ」
ただそれだけ言って、エルシアは二人の隣に座り込んだ。
清掃員の格好のまま、王宮の廊下に堂々と腰を下ろして。
リア王女が目をぱちくりとした。
「……おねえちゃんは、誰?」
「お掃除の人です」
「なんで一緒にいるの」
「泣いてる人を一人にしてたら、床が涙で汚れちゃいますから」
リア王女がぽかんとして、それから小さく笑った。涙がこぼれたまま、でも少し笑った。
「おかしな人」
「よく言われます」
三人は、しばらくそこにいた。エルシアは余計なことを言わなかった。
ただ隣にいた。空港でターミナルの片隅に座り込んで泣いている乗客の傍らに、気づかれないようにいた、あのころの幸子みたいに。
やがてリオン王子が顔を上げた。
「……名前は?」
「エルシアです」
「エルシアは、お母さんいる?」
幸子の記憶の中の母と、エルシアの記憶の中の母が、両方浮かんだ。
「昔はいましたよ。でも今はいません」
「さみしい?」
「たまにね。でも、ちゃんとご飯食べて、仕事して、そういうことをしていると、だんだん大丈夫になってきます」
リオンはしばらく考えてから「そうか」と言った。
五歳には難しい話だったかもしれないが、なぜかちゃんと届いたようだった。
その日以来、双子はことあるごとにエルシアを探すようになった。
「エルシア!今日も来た!」
「いらっしゃい。でも走らないでください、廊下で転びますよ」
「だいじょうぶ!」
転んだ。
エルシアはため息をつきながら手当てをした。
五十八年生きた幸子には、子供の怪我くらい慌てることではない。
双子はエルシアの清掃についてくるのを楽しみにするようになった。
最初は見ているだけだったが、そのうち「やりたい」と言い始めた。
「いいですよ。でもちゃんとやってもらいますよ」
「やる!」
こうして王宮清掃に、金色の髪の小さい助手が二名加わった。
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