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その日、私の隣を歩くのは ~代筆屋と片腕の帰還兵~  作者: Mel


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09 告白

「イリナ!」


 その声を聞いた瞬間、凍りついていた心臓が大きく脈打った。

 弾け飛んだ扉の向こうに立っていたのは、片腕の大男。左手に斧を握りしめたまま、私の名を呼んでいる。


「ルークさん……!」


 涙でぐしゃぐしゃのまま、私も応えるように叫んでいた。

 彼が来てくれた。それだけで、私の世界は色を取り戻した気がした。


「ダイナー。悪ふざけにしては度が過ぎている。……今すぐ、イリナから離れろ」

「負け犬の分際で何様のつもりだ……! 俺に指図すんじゃねえ! それに、こいつとお前はなんの関係もねえだろ! だったら俺がどうしようが勝手だ!」

「……親子揃って救いようがないとは思っていたが、お前は父親以上に醜く育ったようだな」


 その声は静かだったけれど、底冷えするほど冷え切っていた。

 目前で見下ろされたダイナーが、思わず息を呑む。


「三度は言わん。……今すぐ、離れなさい」

「……チッ、マジになりやがって。萎えるぜ」


 ダイナーは私の身体から手を放すと、忌々しげに舌打ちし、私の肩を乱暴に突き飛ばした。

 床に倒れ込む――はずだった私の身体を、ふわりと受け止めてくれた腕があった。

 ルークさんの、残された一本の左腕だった。

 

「ハッ! 腕がもう一本ありゃ、武器を手放さずに済んだのにな! もう昔とは違うんだよ、力だって俺の方が――」

「――吠えるな、小僧。お前如き、腕一本で事足りる」


 私をそっと床に下ろしたルークさんは、拳を振りかざしたダイナーの首元へ、目にも留まらぬ速さで手を伸ばし鷲掴みにした。

 ぎちぎち、と骨が軋むような音がして、ダイナーが苦悶の声を漏らす。


「ぐっ、が……っ! は、なせ……!」

「二度と、イリナに近づかないと誓え」

「ふざけんな……! こんなことして、ただで済むと……!」

「愚か者が。……私にはもう失うものなどないと、お前自身がわざわざ教えてくれたではないか」


 私より遥かに大きなダイナーが、まるで赤子のように片手で吊るされている。

 ルークさんの目は鋭く、深く、静かに怒っていた。このままでは――本当に、この人を殺してしまうかもしれない。

 考えるより先に私はその太い腕にしがみついていた。


「ルークさん、駄目です! 殺してしまったら、あなたが村を追い出されちゃう!」

「……この愚か者を、許すのか」

「許すことなんてできません! でも、こんな男のために、ルークさんが手を汚す価値なんてありません……!」


 私の必死の叫びに、彼の腕からふっと力が抜けた。

 解放されたダイナーは床に崩れ落ち、何度も激しく咳き込みながら、鼻水とよだれを垂れ流してのたうち回る。


「クソッ……! このことは親父に言いつけてやるからな!」

「好きにしろ。もっとも、その親父とも先ほど集会所で話をつけてきた。……良くも悪くも、昔馴染みでな。少しばかり『立場』というものを思い出させてやったら、すぐに顔を青くして頭を下げてきたよ」

「立場だと……? 親父が、あんたより下だとでも言うのか!」

「狭い世界に閉じこもっているくせに分からんのか。こんな小さな村の権力など、暴力の前では何の意味もなさないということを。……お前の親父は、そのあたりをよく理解していたんだがな」


 そう言って、ルークさんは床に転がる斧を拾い上げ、蹲るダイナーと目線を合わせるようにゆっくりとしゃがみ込んだ。

 ドンッ、と斧の柄で床を叩く。その乾いた音に、私も思わず息を止めた。


「片腕だからと侮るなよ。薪が割れるなら、人の頭も同じように割れる。――試してみるか?」


 その声には、一切の感情がこもっていなかった。だからこそ、本気なのだと分かってしまったのだろう。ダイナーは涙目で何度も首を横に振り、這うようにして開け放たれた扉の向こうへと逃げ去っていく。

 遠ざかる足音を聞きながら、ルークさんは小さく、「……まったく」と息をついた。


 やがて、彼は私の方へと振り返る。さっきまでの鋭さは影を潜め、困ったような、けれど安心させてくれるような優しい笑みを浮かべていた。


「遅くなってすまなかったな。昨日の……君の話を耳にしたものだから、村長と話をしていたんだ。『子どもを甘やかすのも大概にしろ』とな」

「い、いえ……本当に、ありがとうございました。ルークさんが来てくださらなかったら、私、きっと……」


 きっと私は恐怖に負けて、またダイナーの言いなりになっていた。そして、また誰かを傷つけていたかもしれない。

 もっと強く、きっぱりと拒絶できていれば。そうすれば、ルークさんにこんな役回りをさせずに済んだのに。


 押し寄せる後悔にうつむいていると――大きな手が、そっと私の頭に触れた。

 ごつごつとして、傷だらけの武骨な手。

 その手が、ぎこちない動きで私の髪をくしゃりと撫でてくれる。

 ……初めての感触だった。それがルークさんの手だと気づくまでに、少しだけ時間がかかった。


「……君はまだ子どもだ。ひとりで生きていかざるを得なかったとはいえ、まだ子どもなんだ。大人に頼っていい。甘えても、いいんだ」

「でも……! 早く自立しないと、早くしっかりしないと、『これだから親無し子は』って、また馬鹿にされてしまいます。……私だけなら、まだいいんです。でも、お母さんのことまで悪く言われるのは……どうしても嫌なんです……」

「……イリナ」


 その優しい声と頭を撫でる温もりにもう少しで心の壁が溶けてしまいそうになった、そのとき――私は思い出してしまった。

 私自身が、もうひとつ、取り返しのつかない嘘をルークさんについていたことを。


「そうだ……! ルークさん、ごめんなさい! 私、あなたを騙していたんです……!」

「……騙していた、とは?」

「娘さんからの、手紙のことです。……あれは、私が……私が、代わりに書いていたんです。あなたの気持ちを弄ぶつもりはなかったんです。嘘をついたままじゃいけないって分かっていたのに……! 本当に、ごめんなさい……!」


 私はぐっと目を瞑り、深く、深く頭を下げた。

 きっと、怒られる。呆れられるかもしれない。……ううん。もう二度と、顔も見たくないと思われてしまうかもしれない。

 それでも、謝らなくちゃいけなかった。だから、もう一度、絞り出すように「ごめんなさい」と繰り返した。


 すると――頭の上にあった手が、そのまま私の背中へと回り、不意に強く引き寄せられた。

 バランスを崩した私は、ルークさんの硬い胸板に鼻をぶつけてしまう。


「……ルークさん……?」

「……謝る必要など、どこにもない。むしろ、謝らねばならないのは私の方なんだ」


 静かに語られるその声に、私は顔を上げられない。


「――知っていたんだ。娘が死んでいたことは。この村に戻って、すぐに」

「……え……?」

「まったく、親子というものは行動まで似るものなんだな……。……誰もいない家に呆然と座り込んでいたら、村長がわざわざ教えに来たんだ。……家を出て行ったのは仕方ないと思っていた。だが、まさか……娘がもうこの世にいないなどと……信じられなかった」


 彼の声は低く、自分自身を責めるように痛々しく震えていた。

 それは、私なんかじゃ推し量れない、深い未練と悔いの滲んだ音だった。


「どうしても受け入れられなくて……手紙を出すことにしたんだ。妻から罵りの返事があるか、返事そのものがなければ、それが真実なのだと自分に言い聞かせられる気がしたから。……だが……」


 ――来るはずのない返事が、来てしまった。

 私が、返してしまったから。私が、偽りの希望を届けてしまったから。


「ごめんなさい……! 私が、余計なことをしたばかりに……」

「いや……そんなことは、気にしなくていい。最初こそ混乱したが……君が代わりに書いてくれたのだと、すぐに分かったよ。金も律儀に返してくれたしな。……私を騙してどうこうしようという気がないことくらい、ちゃんと分かっていた」


 その言葉に、私は驚いて顔を上げる。

 ――気づいていた? 気づいていたのなら、どうして手紙のやり取りを続けてくれたんだろう?

 私の疑問が顔に出ていたのだろう。ルークさんは困ったように、そして少しだけ気恥ずかしそうに、目を伏せながら教えてくれた。


「……娘に言えなかった言葉を君に伝え、してやれなかったことを君にしてあげられた。娘が生きていたらこんなふうに交流できたのかと思うと……どうしようもなく、嬉しくなってしまったんだ。マーティンの言う通りだ。私は君という存在に甘え、君を娘の代わりに仕立て上げてしまった……」


 その震える声が、私の胸を締め付ける。

 だって、それは――私も、同じだったから。


 テレサさんには、一緒に怒ってくれるお父さんがいた。それが、羨ましかった。

 あのダイナーにすら、どんな形であれ庇ってくれる父親がいる。それが、妬ましかった。

 だから私もルークさんという温もりに縋りついて――自分だけのお父さんに仕立て上げようと、した。


「ルークさん……それでも、私は嬉しかったんです。一緒に買い物ができたことも、あなたのためにご飯を作れたことも、こうして守ってくれたことも……どれも、本当に嬉しかったんです」

「だが、それは君の優しさに付け込んだ結果だ。罪滅ぼしにもならん」

「いいえ、いいんです……! だって、私も同じだったから! ……私も……お父さんが、欲しかったから……」

「……イリナ」


 それ以上、私たちはもう何も語らなかった。

 おずおずと、震える手でルークさんの背中に腕を回す。

 少しためらった後、彼の大きな左腕が、迷子の子どもを抱きしめるように、ぎゅっと私を抱きしめ返してくれた。


 その確かなぬくもりが、ずっと空っぽだった胸の奥にじんわりと静かに沁み込んでいく。

 

 ――ああ、私はきっと、ずっとこの温もりが欲しかったんだ。

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