第八錠 出会い
東大へ行くと宣言してから早いもので四年の月日が流れた。
学校の方はというと、友人関係はあまり変わらなかった。
途中クラス替えもあって新顔とは少し話すこともあったが、話題が合わないとその機会も減っていき、徐々に疎遠になって…の繰り返しだった。
勉強の面では愛としての知識をフル動員して励んだ。一応、怪しまれないよう塾の課題をこなしつつ、三年〜六年のテキストを早々に終わらせて小学校在学中に中学のテキストに着手した。新傾向問題などには一瞬戸惑うものの、少し時間をかければ順応できた。
こうして飛び級するかの如く学習を進め、中学一年の時には存命時と同じ高校一年生の内容を終えることができていた。
さすがにここまで来ると習い事を辞めることは許可され、空手と水泳はそれぞれ小学4年生の時に辞めることができた。
ただ、スイミングを辞めたとはいえホルモン剤を増やしたり変えることはしなかった。
ホルモン剤と一言で言っても様々な種類がある。体つきを女性らしくする女性ホルモンは摂取しておらず、男としての成長を遅くする…つまり、男性ホルモンを抑える薬を服用していた。男の子供とはいえ、女性ホルモンに曝露されれば本来の二次性徴時期を逸脱して胸を含めて体が女性らしく変化する恐れがあった。
週に一度のスイミングでその体を見られたら、病気ではないかとあらぬ誤解を受けてしまい、収拾がつかなくなってしまう。
そのため、中学までは男性化を抑えるホルモンを。高校で親元を離れてから女性ホルモンを始めようと決めていた。1日でも早く、女性化したい気持ちを抑えて。
学習塾は継続して続けている。統一テストを受けるためと、大学入試に向けた参考書や赤本を借りるため、弱点科目克服のためだった。
葵の通う塾は特に年齢制限がないため、小学生から高校生までが同じ教室で学ぶ。さすがに時間帯を分けることはあるが、自習コーナーには小中高の参考書や問題集も備えており、そこから必要なものを借りて学習していた。
前世の記憶があることを知らない周りからすれば異常とも言える学習力に、親も必要な教材を用意してはくれたが、負担をかけたくないという思いが実情だった。
共に暮らす葵の親も、友達も、教職員も…語られる言葉の全てが葵の心には響いてはいなかったが。
彼もとい彼女の心にあるのは、家を出たい、女の子の体になりたい、実の両親に会いたい…ただ、それだけだった。
だから、全ての雑念を振り払うかの如く、使える時間は全て勉強することに回した。そうすることでしか、学力以外で自分を保つことができなくなっていた。
勉強に明け暮れる日々を過ごし、中学二年になってから二日目。唐突に転機は訪れた。
葵の学校では小学校と同じ学区の子が多く、クラスには小学校の頃から見知った顔や聞いたことのある名前の子が多くいた。一年の時から同じクラスだった生徒も複数いる。ただ、目の前の空席を除いては。
石井由香。机の右端に貼られたシールにはそう書かれている。
このクラスの出席番号では石井が一番、葵が二番となっている。名前からして女の子であることはわかっていたし、聞いたことのない名前だが、さして興味を抱いてはいなかった。一人、転校してくる子がいる。昨日、そんなことを言っていた気がしていた。
チャイムが鳴り、少し遅れて担任が教室に入ってくる。その後に一人の女の子がついて入って来る。他の女子生徒と違わぬ制服。ショートボブのサラサラとした髪が印象的だった。
見慣れぬ女子生徒にクラス内が少しざわつく。
「はい、おはようございます」
三十代前半と思われる男性教諭はそう声をかけると、おはようございます、と生徒たちも応える。
「昨日、ちょっと話したが、このクラスの仲間をもう一人紹介する。それじゃ、石井さん。自己紹介を」
「石井由香です。親の仕事の都合で東京から引っ越してきました。初めての場所でわからないことだらけですが、よろしくお願いします」
「おー、かわいいー」
「さすが、都会っ子!訛ってない」
確かに澄んだ声で見た目も伴って可愛らしい。よく、アイドルがしているような額に作られた三角の分け目が印象的だ。
「ほら、静かにしろ!石井さんの席はそこね、遠藤の前。遠藤、お前、色々教えてやれよ」
「はーい」
気の抜けた返事をする。なんで、石井の隣の女子に頼まないんだよ、と一人心の中で呟く。担任が葵を指名するのにも理由もある。この担任は一年の時と同じだから、葵のことを熟知していた。言うまでもなく、葵は理想の生徒像だからである。愛の頃の記憶とすでに高校レベルに達した学力では中学の授業は簡単で、学習指導要領が変わっていてもさして問題ではなかった。小中の学業では常にトップ。たまに、頭の体操的な問題が出されると戸惑うことはあったが、それを落としたとしても成績上位は揺るがなかった。併せて持ち前の、前世が十七歳だからということもあって他の生徒よりも落ち着きがあり、言動、素行共に他生徒の模範と称されるようになっていた。素行に関しては葵の父が厳しかったせいもある。
ただ、その代わり学校生活は退屈でもあった。男として過ごしているから近寄るのは一応男子生徒が多い。テスト前には女子生徒も勉強を教えてと来る。その際には邪険にせず理解できるまで付き合ってはいた。心のどこかに、癒えない虚しさを抱えながら。
自分はこの子たちとは違う。過去に生きている感覚がつきまとい、目の前の生活に現実味を感じられないでいた。小学生の頃よりは多少大人びてきたものの、中学生の子たちの感覚にはまだついていけなかった。自分の心が、葵の両親と本心を出せない生活で荒んでしまったのではないか。そう感じることすらあった。
周りもなんとなくその空気を感じているのだろう。嫌っているわけではないがちょっと距離を置いて接して来る。葵くんは勉強とか忙しそう。お父さん、あの会社の社長だからさ、後継ぎになるために大変なんだよ。そんな印象も与えていた。
みんなと距離をとって、自身の目的のために日々を消化して行く。同じ日々の繰り返しで飽き飽きしていた。
ホルモン剤を飲めば全てが変わると思っていたがそうでもなかった。
男にならない。そう思うだけで気持ちの面は救われたが、副作用は飲み始めてから間も無く発現した。
最初はボーッとする、日中でも眠いという程度だったが、次第に感情の波が激しくなったり時折強い不安感に襲われることもあった。
それこそ、自身の置かれている現状を嘆き、愛自身の家族に会いたい、全てを投げ出してしまいたいと思うことさえあった。涙脆く、溢れる涙を止めることができなかった。
加えて数学の公式や、ちょっとした日常のことでも忘れやすくなる時があり、頭の中がフワフワとしている感覚も覚えた。
さすがに愛自身も「これはおかしい」と調べた所、通称「ホルぼけ」と言われる症状であることを突き止めた。
ホルモン剤の過剰摂取により引き起こされる負の諸症状。事前にある程度調べて服用しているつもりだったが、やはり大人が書くレビューや大人向けの服用指導では、子供である葵の体には強すぎたようだ。
幸いにもホルモン剤は錠剤なので、ピルカッターで割って分量を調節した。
そうして適量と思われる所を見つけると、男性化を抑えながら前述の諸症状は改善されていった。
何も変わらない日々、二度目の中学二年が始まる。そう思っていた。
だが、そんな日常をぶち壊す出来事がこれから起ころうとしているは思ってもいなかった。
「よろしくね。えーっと…アオイくん?」
席へと近づいてきた石井は机に貼られた葵の名前シールを見てそう声をかけてきた。
「いや、マモルって読むんだ、これ」
「あ、そうなの。ごめんなさい、名前間違えちゃって」
「いや、いいよ。よく間違われるし」
「そうなんだ。アオイくんでも素敵だと思うけどな」
「ほら、静かに。続きは休み時間にしろ」
会話を静止するように担任が声をかける。石井は着席し前へと向き直る。
「じゃあ、ホームルーム始めるぞー」
いつもの、聞きなれた調子で担任はホームルームを進めて行く。
担任の話は葵の耳には入らず、ただ一つのことを思い返していた。
「アオイくんでも素敵だと思うけどな」
こんな一言を聞いたことは、今までなかった。
この出会いが、全てを変えていくとは思ってもいなかった。それこそ、人生を左右する程の話になるとは。