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コギトの雨  作者: 海老
第二章 地底の都フィロソフィアとシュレーディンガーの猫
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十四、シラード来訪

 アマンダさんのお父さんから手紙が届いた日から、幾日が過ぎた頃だったでしょうか。一向に進まない調査と僕達の平穏な日々は、一人の男性の来訪により、大きく大きくギシギシと動き出したのです。

 それはお昼を回ろうという時の事、僕達は一通りの整備を終えたフィロソフィアの正門を見に、発掘現場まで揃って来ておりました。

 発掘現場はカダカさんの指揮の元、物資の運搬や研究機器の搬入を前提に、大規模な整備がそれはぴしりとされておりましたので、大型の昇降機も設置され、僕達も梯子(はしご)を使わず正門へ行けるようになっておりました。

 アマンダさんと僕達は、その昇降機の横で正門を見下ろしながらカダカさんから現場の説明をあれこれきっちり受けておりました。

 するとそこに、聞き慣れない大きな音が遥か遠くから近づいて来たのです。

 ブロォロロロドッドッドッ、ブロロォロロドッドッドッ。

 その音を聞いたアマンダさんや一部の研究員、カダカさんは、俄かにぎりりと顔色を変えていっぺんに音の方へ走って行きました。

 僕とソヨはなんだか分からないというふうに顔を見合わせて、慌ててそれを追いかけて揃って駆け出しました。

 そうして息を弾ませて行きますと、アマンダさん達は発掘現場を少し出た所でぞろりと立ち止まっており、そこへ僕とソヨがせかせか追い付くと、そこからはこちらに向かって走ってくる一台の大きなバギーが蜃気楼でゆらゆら揺れて見えておりました。

 どうやらそのバギーが音の主のようなのです。

「間違いないな。化石燃料だ。」

 カダカさんはアマンダさんにボソリと言いました。

「ええ、そのようですわ。」

 アマンダさんも低い声で答えます。

 気が付くとここにいる大人の人達全員が、それはたいへんに険しい表情をしていたのでした。

 暫くしてバギーはぐんぐんとこちらに近づき、僕達の前までやって来て停まりました。けれどもその車体は、ブロロロと先程より小さく低い音程で鳴り続けております。

 いつしか音がぴたりと止むと、運転席からするりと一人の男性が降りてきました。

 男性は色白で短髪、身なりもきちんとしておりましたが、殊更にどこがということはなく、陰りのような重々しさのようなものをぞわぞわ(まと)っておりました。

「はじめまして、シラードと申します。突然に申し訳ありません。」

 男性はゆっくり丁寧に挨拶をしました。柔らかい物腰です。するとアマンダさんが皆の列からずいと前に出て言いました。

「はじめまして、シラードさん。私は現在このラボラトリを任されています、アマンダと申します。シラードさん、あなたのそのバギー、よもや化石燃料で動いているのではありませんか。」

 アマンダさんはまるで(もり)でも突くような勢いで問いただしましたが、男性は眉一つ動かすことなくすっかり静かに答えました。

「ええ、ガソリンエンジンで駆動しています。しかしさすがです。あのベネット氏のご子息であるあなただけでなく、こんなに多くの方が音だけで化石燃料エンジンと気付かれた。本当に良いラボなのですね。」

 その口ぶりは本当に穏やかです。

「化石燃料の使用は倫理に反します。即刻使用を中止してください。ご存知ない訳ではないでしょう。」

 アマンダさんは男性に話にすっかり全く取り合わず堂々と言いました。

「ああ、なるほど確かに、噂に違わぬ気丈さだ。どうやらベネットラボの名声は海の向こう側まで正確に届いているようです。恥ずかしながら私も研究者の端くれでして、ラボも幾つか抱えております。海の向こうの研究者の間でも、ベネット、アマンダ、カダカの名前は有名なのですよ。けれどもアマンダさん。私はここへ化石燃料について議論するために伺った訳ではないのです。こちらにマクスウェルの魔物は来ておりませんか。」

 マクスウェルの魔物という言葉に、場の空気はガラリと一変しました。皆は暫くの間どうしたものかと口を閉じておりましたが、カダカさんがどっしり構えていつものガラガラ声で言いました。

「確かに一度はここへ来やがったが、もう何処かへ行っちまったよ。ああ、行っちまったのさ。悪いがわしらに行き先は分からん。すまんかったな。なあ、しかしおめえさん。わしは全くもって腑に落ちねえ。口ぶりも物腰もとても悪人には見えねえが、何故化石燃料なんてけったいなモノを使ってやがる。それにどうしてマクスウェルの奴なんてのを探すんだ。」

男はほんの少しうつむいて、なんだか寂しそうに答えました。

「そうですか。悪人には見えませんか。誉れ高い大発掘屋のあなたにそう言われると、不思議と悪い気はしないものです。けれども、悪とはいったい何なのか。その定義は人によって異なります。私は私の定義では、残念ながら大悪人ですよ。」

 アマンダさんは、不可解な男の様子に興味を持ったのか、男の言いように少しつっかかるように言いました。

「では、あなたの悪の定義とは。」

 男はなんだか意外という表情をして、アマンダさんの目を見て答えます。

「暴力。いいえ、正確にはそれを振るう心です。そして私は、マクスウェルの魔物の、絶対的な暴力が欲しいのです。彼にはその、それを振るう心がありませんから。」

 男の仄暗(ほのぐら)い声は、何処か不気味に聞こえます。

「そんな力、あなた、いったい何に使おうというのです。」

 アマンダさんが少し声に嫌悪感を含ませて問い詰めるように言うと、男はすっと氷のような目になり、殊更低い鉛色の声で答えました。

「この世は、理不尽な暴力に満ちている。平和そうに見える街並みの片隅で、(つつ)ましく誠実に生きる人々が、日常的にあらゆるものを奪われている。思いやりのあるものが、思いやりのないものに(しいた)げられ、それでも優しくあろうと足掻(あが)いている。必死に人を信じようと、憎しみを飲み込んでいる。そんな人々がいくら力を合わせ身を守ろうとしたところで、守るもののある人々には、狡猾(こうかつ)な悪意に(あらが)う術はない。いくら人道的な正当性を理路整然と主張したところで、理性の手を離れた感情の前では、そんなものは僅かな力も持たない。正しさなどという曖昧なものを持ち出す気は毛頭ないが、誠実に真面目に思いやりを持って生きようとする人々を虐げている者共を、私はどうしようもなく憎む。だから私は、この誠実な者の報われない渇き切った世界で、全ての誠実を(おびや)かす理不尽な暴力を、さらに理不尽で圧倒的な暴力で根絶やしにする。他のどんな悪よりも大きく、無情で、衝動的に悪を虐げる、ただそれだけのために生きる本当の魔物に、私はなる。そしてマクスウェルの魔物の力は、それを可能にすることが出来る。あのオッペンハイマーの火さえあれば、私は、我が物顔でのさばる己の事のみで頭を満たしたうじ虫共を、ただの一匹も残さず根絶やしに出来る。」

 男性の言葉は、計らずも僕の心の中にじっとりと入り込み、その呼吸を滞らせるように胸の中をぎとぎととさせました。それはまだ子供の僕にも、このシラードという男性の背負っている憎しみのような悲しみのような、ずっしりと背中にもたげた灰色の何かを、怖いと思う程にぎしぎし感じていたからなのでした。

「あなたにいったい何があったというのです。」

 アマンダさんは小さく悲しいような声で言いました。すると男は首を小さく左右に振って、ふぅっと息を吐き、先程までの穏やかな目に戻ったように見えました。

「すみません。ああ、こんな問答をするつもりはなかったのですが。とにかく魔物がいないことは嘘ではなさそうです。皆さん真っ直ぐな目をしてらっしゃる。では出直す事に致しましょう。」

 男性がバギーに乗り込もうとすると、僕はトテテと少し駆け寄って、男性の目をしっかり見て言いました。

「魔物じゃありません。コギトは人間です。魔物じゃありません。」

 男性も僕の目を真っ直ぐに見て少し微笑むと、バギーのドアをバカリと閉めました。

「もしも魔物が再び現れたなら、カルテシウスの使者が来たとお伝え下さい。それとフィロソフィアの門ですが、こちらからでは開かないそうです。皆さんなら、既にご承知とは思いますが。では。」

 言い去ろうとする男性に、アマンダさんは慌てて聞きます。

「あなたカルテシウスを知っているの。待ちなさい、まだ話は終わっていなくてよ。」

 アマンダさんの声に反応するように、黙って聞いていた男衆が誰に指示される訳でもなく、皆一斉にどわわっとバギーに取り付こうとしました。

 すると男性はバギーから手をするりと出しこちらを見たかと思うと、ぶわぁっと異様な熱気が立ち昇り、男衆は堪らず足を止めてしまいました。その間にバギーは大きなエンジン音と共に方向をぐるりと変えて、あっという間に元来た方へと走り去ってしまったのでした。

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