第97話 人の域を越えて
リリナたちが帰った後のことだった。
騎士団本部の控室で、レンセリオンは椅子に腰掛けたまま、右手をじっと見つめていた。
開いては、閉じる。
指を動かすたび、わずかな違和感が走る。
「……問題はないな」
そう呟いたが、完全に無視できる感覚でもなかった。
痛みというほどではない。けれど、骨の奥に残るような――妙な重さ。
(エリオンとの打ち合いか……?)
一瞬、あの怪力男の顔が浮かぶ。
いや……違う。
(もっと前だ)
脳裏に浮かんだのは、塀の縁に手をかけた瞬間の感触だった。
――あの時か。
考え込むレンセリオンに、向かいに立っていたルークが静かに口を開く。
「殿下。医務官を呼びましょうか」
レンセリオンは顔を上げ、軽く首を振った。
「大丈夫だ。大したことじゃない」
そう言って視線を落とし、再び思考の奥へ沈んでいく。
その背をしばらく見つめていたルークが、少しだけ間を置いて、再び口を開いた。
「……殿下。塀の上に上がられた時のことなのですが」
レンセリオンの指が、ぴたりと止まる。
カイルも顔を上げ、ルークを見た。
「殿下がカイル殿を踏み台にされた後、私が下から持ち上げようとしました」
淡々とした報告口調。だが、その目は真剣だった。
「……ですが、私の手は空を切りました」
「どういうことだ?」
レンセリオンが眉を寄せる。
ルークは、言葉を選ぶように一度だけ息を吸った。
「殿下の跳躍が――あの一瞬だけ、“人の域”を超えていたのです」
控室に、沈黙が落ちた。
「……超人、ってやつですか?」
間を破ったのは、カイルだった。
冗談めかした口調で肩をすくめる。
「必死だったからですよ、殿下。底力ってやつです」
そして苦笑しながら付け加える。
「まさかあんな場所に、セレフィアの姫様が顔を出してるなんて、誰も思いませんからね」
レンセリオンは、それを聞きながらも反応を示さなかった。
ただ静かに、もう一度だけ右手を見つめる。
(……必死だった、か)
そうだったのかもしれない。けれど――
その瞬間のことを、彼自身はほとんど覚えていなかった。
ただ一つ確かなのは。
あの時、王子としてではなく、騎士としてでもなく、何かを守ろうとした“衝動”だけが、体を動かしていたという感覚だけだった。
レンセリオンは、ゆっくりと手を握りしめた。
(……まだ、分からない)
だが胸の奥で、確かに何かが目を覚まし始めている――
そんな予感だけが、静かに残っていた。




