第88話 友への頼み
ルクヴェルに滞在する際、
エリオンがいつも好んで使う部屋がある。
中庭に面した静かな一室で、
窓を開けると、細い水路の音がかすかに届く。
今回も、レンセリオンは迷わずそこを手配していた。
扉を叩くと、
すぐにエリオンが中へ通してくれた。
「お気遣い、感謝いたします」
その声音は、まるで――
心の内まで見透かしているかのように穏やかだった。
エリオンは、手元の小さな氷瓶をそっと差し出した。
「アクエリシアのセレナス氷茶です。
よろしければ、あとでお召し上がりください」
レンセリオンは静かに受け取った。
「……ありがたくいただく」
それから、ふっと息を落とす。
「相変わらずだな」
「何がです?」
「何でもないように、こういうものを渡すところだ」
エリオンは、少しだけ不思議そうに瞬きをした。
「……大げさなものではありませんよ」
レンセリオンは小さく息を吐いた。
そこで、ふと沈黙が落ちる。
エリオンは何も急かさず、
ただ静かにこちらを見つめていた。
レンセリオンは、その視線から逃げるように、
軽く咳払いをした。
「先ほどの……その、馬車の話だが。
セレフィアの姫君に助けられた、と……」
エリオンはふっと表情を和らげ、
当時を思い返すように微笑んだ。
「ああ……ええ。
馬車の車輪がぬかるみに沈んでしまって、動かなくて。
セレフィアの姫君が、一緒に押してくださったんです」
レンセリオンの脳裏に、まだ見ぬ姫の姿が淡く浮かんだ。
王女でありながら、
困った者に自ら手を貸す姿。
そして、短く息をついた。
「そうか……大変だったな」
同時に――
ひとつの思いが、胸に浮かぶ。
(……優しい方なのだな)
やがて、レンセリオンは顔を上げ、
エリオンをまっすぐに見据えた。
「……十年来の友として。
ひとつ、相談がある」
エリオンは少しだけ表情をやわらげた。
「なんでしょう?」
一瞬だけ、言葉が詰まる。
それでも、レンセリオンは口を開いた。
「セレフィアの姫君を……
噴水広場に連れてきてほしい」
エリオンは、驚いたように瞬きをした。
「……分かりました。
ですが、差し支えなければ理由を?」
ほんのわずかに、沈黙。
レンセリオンの耳が、かすかに赤く染まった。
「同じ印持ちとして……
興味があるだけだ」
そのあまりに誠実な言葉に、
エリオンはほっとしたように微笑む。
「そうですか。……ええ、分かりますよ。
あの方には、自然と目を向けてしまう光がありますからね」
レンセリオンは一瞬、言葉に詰まった。
エリオンは穏やかに微笑んだまま、
それ以上は何も言わなかった。
言葉にすれば崩れてしまうものが、
その沈黙の中にあった。




