第87話 まだ見ぬ姫
宿舎の前に、レンセリオンは静かに立っていた。
ここは本来、各国の来賓を迎えるための施設。
だが今は、王立学院の受講者たちが滞在する“学びの宿”として使われている。
(……遅いな)
どれほど待っただろうか。
胸の奥にある、かすかな予感が揺れ始めた頃――
角を曲がり、一台の馬車がゆっくりと姿を現した。
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扉が開く。
そこから降りてきたのは――
アクエリシア第二王子、エリオン・シルエル・アクエリシア。
十年来の友とも呼べる存在だった。
妹を亡くして以来、長く外交の場から離れていた彼が、
再びこの場に立っている。
「お待ちしておりました」
そう声をかけると、
エリオンは昔と変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべた。
「ご無沙汰しておりました、レンセリオン殿下。
……お変わりなさそうで、安心しました」
その顔色が健康的であることに、レンセリオンは内心ほっとした。
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「道中、何かありましたか?
……少し、遅れていたので」
問いかけると、エリオンは少し苦笑した。
「出発してまもなく、馬車が傾きまして。
予定より遅れてしまいました」
「それは……災難でしたね。
知らせてくだされば、迎えに出ましたのに」
エリオンは軽く首を振る。
「後方から来ていたセレフィアの姫君に、助けていただきました」
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その一言で、
レンセリオンの胸がわずかに揺れた。
(姫……?
――セレフィアの、姫?)
“助けられた”とは、どういうことなのか。
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背後に控えていた案内係が、
手続きの方へと静かに視線で促す。
レンセリオンは小さく頷き、
エリオンへ一歩近づいた。
そして――耳元で、低く告げる。
「……後ほど、部屋に伺ってもよろしいですか」
エリオンは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ、
すぐにやわらかく微笑んだ。
「もちろんです。お待ちしております」
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その微笑みに応えながら――
レンセリオンの胸の奥には、
まだ見ぬ“姫”の名が、静かに灯り始めていた。




