第83話 別れの朝、残された温度*挿絵
晩餐会の翌朝。
白い霧が薄く漂い、学舎の中庭はひんやりと静けさに包まれていた。
その中で、リリナはレヴィアンとユリウスの出立を見送っていた。
⸻
最初に口を開いたのはユリウスだった。
「……リリナ姫。少し、心配です」
「心配……ですか?」
リリナは瞬きをした。
ユリウスが何を案じているのか、すぐには掴めなかった。
ユリウスの深い蒼の瞳が、わずかに揺れた。
「昨日の王のご様子を見て……あなたが、政治の渦に巻き込まれるのではと」
(……政治の、渦……)
「困ったことがあれば、遠慮なく頼ってください。
僕にできることがあるなら、必ず力になります」
真っ直ぐで、嘘のない声。
けれどそれ以上は言わず、彼は礼儀正しく微笑むだけだった。
「……ありがとうございます。ユリウス様も、お元気で」
⸻
次に、レヴィアンが穏やかに一歩近づいた。
「リリナ姫。お会いできて、本当に良かったです」
その声には、あたたかさがあった。
「セレフィアからテルメナまでは遠いですが……
いつか、ぜひ我が国にもお越しください。
私が心を込めてお迎えいたします」
リリナの表情が、ぱっと明るくなった。
「ありがとうございます。
テルメナ王国……いつか、訪れてみたいです。
レヴィアン様も、どうかお元気で」
ふたりは、柔らかい微笑みを交わした。
レヴィアンはエリオンの肩を軽く叩き、「頼んだぞ」と言いたげに目で合図を送ると、馬車へ向かっていった。
ユリウスは最後まで振り返らなかった。
何かを胸に沈めたまま、静かに馬車へ向かっていった。
⸻
リリナとエリオンだけが、中庭に残った。
白い朝靄がまだ残る時間。
吐息さえ白く溶ける静けさの中で、エリオンが優しく口を開いた。
「……少し、散歩しませんか?」
リリナは胸の奥がぎゅっと縮むのを感じながらも、小さく、こくりと頷いた。
歩き出したふたり。
言葉は少なかったが、沈黙は不思議と苦ではなかった。
でも――
別れが近いと考えると、胸の奥がずっと痛む。
だから、リリナはぽつりと声を出した。
「静水祭って……いつ頃なんですか?」
次に会える約束がないと、涙をこらえられそうになかったから。
エリオンは少し驚いたように目を瞬かせ、それから柔らかく微笑んだ。
「夏です。……もうすぐですね」
「夏までもう少し……ですね」
そう言ったリリナの笑顔は、どこか照れていて、その無邪気さにエリオンの瞳が優しく和らいだ。
「ええ。あといくつ夜を越えれば夏でしょうか……三十夜ほどでしょうか?」
真剣な顔で数えようとするエリオンに、リリナはたまらず小さく笑った。
ふたりの笑い声が、中庭にやわらかく溶けていった。
⸻
笑いが自然と収まる頃、ふたりは噴水広場に辿り着いた。
「ルクヴェルの皆さん、まだ家族と過ごされている時間なのでしょうか……
誰もいませんね。あ、小鳥はいますけど」
リリナがそう言ってくすりと笑うと、エリオンは小さな硬貨を一枚取り出し、噴水に背を向けた。
「新しい願いごと、ですか?」
エリオンは静かに頷いた。
放られた硬貨は――
ほんのわずかに縁を外れて、小さな音を立てて水に落ちた。
エリオンの表情が、ほんの一瞬だけ曇る。
リリナは迷わず噴水に駆け寄り、落ちたあたりから一枚の硬貨を拾い上げた。
そっと上段の縁に置き直しながら言った。
「……自分の手で叶える願いも、素敵だと思いますよ」
エリオンは驚き、そして――とても優しく笑った。
「……リリナ姫様の手が濡れてしまいましたよ」
彼は歩み寄ると、自分の袖でリリナの濡れた手をそっと拭った。
「あっ……エリオン様の袖が……」
「大丈夫です。すぐ乾きます。……僕の体温で」
掴まれた手は温かくて――
優しい瞳に見つめられた瞬間、リリナの頬に熱が差した。
胸が熱くなる。
言葉が喉まで出てきて――
「……わたし……」
伝えたい。
でも、伝えてしまったら戻れなくなる気がして。
リリナは、恥ずかしさをごまかすようにそっと手を離した。
そして、小さく笑う。
「いつも優しくしてくださって……ありがとうございました。
わたし、またすぐにでも……エリオン様にお会いしたくなるかもしれません」
エリオンは少しだけ驚き、それから胸の奥に浮かんだものを隠すように、そっと微笑んだ。
「……では。三十夜に一度、会う約束をしましょうか?」
「三十夜に一度……本当に?
そんなわがまま、言っているみたいじゃないですか……?」
リリナの不安げな瞳を見つめながら、エリオンは静かに頭を振る。
「リリナ姫様の願いなら……何でも叶えてさしあげたい。
それが――僕自身の願いでもあります」
リリナは、その言葉に戸惑いながらも、そっとエリオンと視線を重ねた。
胸の奥は温かくて、少しだけ苦しい。
エリオンはただ、優しく微笑んでいた――。
⸻
白い霧の向こうへ、エリオンを乗せた馬車が静かに遠ざかっていった。
リリナは胸に残る温度をそっと抱きしめた。
――この光が、いつか誰かを照らせる日を願いながら。
(第一章・完)
⸻
『遠ざかる馬車と、残された想い』




