第325話 火が選ぶ
太鼓が、低く鳴った。
一打。
ざわめきが、すっと引く。
杯を持つ手が止まり、視線がひとつの場所へ集まる。
二打。
舞台中央の空白に、ひとりの男が現れた。
焔の舞手――
レイヴ・アレスタ。
黒に近い赤褐色の髪が、炎壺の光を受けて赤銅にきらめく。
装飾を削ぎ落とした装束が、身体の線と動きを、そのまま浮かび上がらせていた。
三打。
音が、止まる。
その瞬間――
彼が、動いた。
最初の一歩は、踏み出すというより、呼吸だった。
吸い、吐く。
それに合わせるように、舞台の縁で揺れていた火が、わずかに傾ぐ。
(……火が)
命じられているようには見えない。
操られているわけでもない。
ただ――
彼の動きに、火が混じっている。
腕が描く円に、炎が遅れて追いつく。
足が地を叩けば、火花が散るが、燃え広がらない。
まるで、火そのものが舞に加わっているみたいだった。
音が戻る。
笛の音。
太鼓の刻み。
レイヴの身体は、次第に速度を増していく。
跳躍。
旋回。
静止。
その一つ一つの隙間に、火が残る。
派手ではない。
けれど――目を離せない。
(……きれい)
気づけば、身体が前へ傾いていた。
――その背後で。
リリナの視界の外で、
気配が、ほんのわずかに動く。
ヴィオラが、静かに手を伸ばしていた。
指先に、小さな小瓶。
透明な液体が、灯りを反射する。
誰にも気づかれぬ所作で、
数滴が、リリナのグラスへ落ちた。
音は、ない。
何事もなかったかのように、
ヴィオラは微笑を保つ。
リリナは、視線を舞台に縫い留められたまま、
無意識にグラスを取る。
一口、飲む。
舞台の上で、レイヴが大きく腕を広げた。
その瞬間――
胸が、ひくりと鳴った。
(……左手)
布が、ない。
必ず覆われていたはずの左手。
その甲が、はっきりと見える。
――炎紋。
抑えられた赤金の紋が、
脈打つようにそこにあった。
(……っ)
胸が、強く鳴る。
次の瞬間、彼が踏み込む。
――火が、応えた。
舞台中央の炎が、色を変える。
白でもない。
整えられた光でもない。
――生きている火。
その揺らぎを見つめたまま、
リリナは瞬きすることすら忘れていた。
⸻
そのとき、レイヴの耳に――
火の奥から、声が落ちてきた。
「黎光の翼が、お前を視ている」
意味を持つ前に、音だけが届く。
……黎光の翼?
名を反芻した、その瞬間。
レイヴの視線が上がった。
――合う。
来賓席。
ひとりの少女。
(……エル・ソレイス?)
思考より先に、名が浮かぶ。
なぜ、そこに――。
どこかで、見た。
光の中で、こちらを見返していた誰か。
……君は、誰だ?
問いは、形になる前に消える。
レイヴの動きが、ほんのわずかに揺れた。
だが、舞は止まらない。
揺らぎは、誰にも気づかれないほど小さい。
それでも確かに――彼の中に残った。
⸻
離れた来賓席の影で、エリオンは灰青の瞳を細めた。
火が、生きている。
操られているのではない。
従っているのでもない。
まるで――呼吸に合わせて揺れている。
……分かる。この感覚。
僕と、同じだ。
エリオンは、舞手の視線の先を追う。
その先に。
ひとりの少女。
(……リリナ?)
喉が、無意識に鳴る。
間違えようがない。
あの佇まい。
あの光の気配。
その刹那――
視線が、重なった気がした。
⸻
エリオン……?
どうして、ここに?
視界が、ぐらりと傾く。
(……あ)
足元が遠い。
胸は熱いのに、身体は冷える。
立ち上がろうとして――力が抜けた。
その身体を、支えた腕。
「大丈夫よ」
ヴィオラの声。
「少し、空気を変えましょう」
有無を言わせぬやさしさで、
リリナを席から離す。
舞台では、まだ火が踊っている。
だが――
その火は、すでに誰かを選び始めていた。




