第317話 交熱の名を持たぬ夜
メイラは、カウンター横の細い通路を抜け、奥へと進んだ。
やがて、ひとつの木扉を押し開ける。
ゆるやかな橙色の灯りが、室内を照らしていた。
小さな個室。
壁には織物が掛けられ、天井からは香の煙が細く垂れている。
湿度を帯びた空気が滞り、息を吸うだけで、肺の奥にじんわりと熱が残った。
メイラは先に部屋へ入り、振り返りながら首元のスカーフをほどく。
「この部屋、気に入ってるの。
灯りも柔らかくて……熱が、よく伝わるから」
レンセリオンは、わずかに眉を寄せ、息を浅くする。
その仕草を見て、メイラは小さく笑った。
「ふふ……やっぱり、苦手?」
そのまま彼女はランプへ指を伸ばし――
ふっと、息を吹きかける。
灯りが消えた。
香の煙だけが、闇の中でゆっくりと揺れる。
室内は、かすかな月光と香の残り香だけに包まれた。
「……なぜ、暗くした」
思わず強まる声。
「明るいと……余計なものが見えるでしょ?」
ほんの一瞬、沈黙。
戯れるような囁き。
だが、その言葉はどこか、胸の奥を刺した。
レンセリオンは扉を背に立ち、無言のままドアノブに手をかける。
いつでも退ける距離。
やがて目が闇に慣れ、メイラの輪郭を捉えた。
彼女はベッドの端に腰を下ろしていた。
赤いドレスの裾が崩れ、片足だけが床についたまま、ゆらりと揺れている。
「こっちにおいで、お兄さん」
喉の奥が、かすかに強張る。
それでも、レンセリオンは動かない。
その様子に、メイラは小さく息をつき、立ち上がる。
数歩で距離を詰め、彼の前へ。
レンセリオンがわずかに身体を引く。
だがメイラはさらに踏み込み、胸元が触れるほど近づいた。
「……お兄さんの、知りたいことって何?」
指先が喉元に触れ、鎖骨をなぞる。
温度を確かめるように、ゆっくりと。
呼吸が乱れかけるのを、レンセリオンは奥歯で押さえ込む。
香。
熱を使う誘い方。
相手の隙を探るような距離。
――ヴィオラと、同じだ。
そして――
「ナイトクロウ商会の……クロウは、誰だ」
その瞬間、メイラの動きが止まった。
息を呑む気配。
次の瞬間、彼女は素早く手を伸ばし、レンセリオンの口元を覆う。
「……危険ですよ、お兄さん」
声を潜める。
「その名を軽々しく口にしてはいけない。
消されます……本当に」
レンセリオンは、その手首を掴んだ。
「……その反応で十分だ」
メイラは視線を逸らし、手を振りほどいて後退する。
そのままベッドへ腰を落とした。
レンセリオンは、迷いなくランプに火を灯す。
ぱっと、部屋が明るくなる。
香の煙。
乱れた衣。
逃げ場を失ったようなメイラの姿。
彼女は大きく息を吐き、目を伏せた。
「……お兄さん。
私、魅力……ありませんか?」
媚びではない。
強がりでもない。
拒まれ続けた末に、こぼれた本音だった。
レンセリオンは無言で歩み寄り、ベッドの端に腰を下ろす。
「……自分を、そんなふうに差し出すな」
そう言って、崩れたドレスの上から、静かにシーツをかけた。
まるで守るように。
メイラは驚いたように目を見開き、思わずそれを引き寄せる。
灯りの下、二人の間に落ちた沈黙は――
どんな交熱よりも、重く、熱を孕んでいた。




