第315話 舞酒場《アグニア》
街の中心に建つ、舞酒場。
その二重扉をくぐった瞬間、レンセリオンは足を止めた。
天井は高く、中央には円形の舞台。
客席はそれを囲むように配置され、壁には鮮やかな織物。
天井からは色硝子の灯籠が吊るされている。
金や緋の衣をまとった客たちの顔に、艶やかな陰影が落ちる。
香と煙、囁きと笑い声が、空気を満たしていた。
――まるで、劇場だ。
いや、それ以上に。
ここは“火の都”ソレイダが持つ、美と熱を凝縮した空間だった。
甘く、熱を帯びた匂い。
香と酒と焔の残り香が、意識の奥へまとわりついてくる。
「……」
レンセリオンは、わずかに腕で鼻を覆う。
この匂い――
ルクヴェルで嗅いだものと同じだ。
ナイトクロウ商会の店内に漂っていた、あの甘ったるい香り。
好きになれない。
「お兄さん、どうかされました?」
不意に、間近で声がした。
喉の奥に、違和感が残る。
「……この香りは、苦手だ」
「えっ!?」
女は目を丸くする。
「窓際の席はないのか」
「あ、あります! こちらへどうぞ!」
案内された窓際の席に腰を下ろすと、
ようやく空気が軽くなった。
女はメニューを差し出しながら、にこやかに言う。
「お飲み物はいかがです?」
視線を落とす。
……白光酒。
値段を見て、眉がわずかに動いた。
冗談じゃない。
これを何杯も飲める連中が、平民なはずがない。
こんな酒を覚えたら――
戻る場所が壊れる人間も、少なくないだろう。
……火の社交場、か。
ずいぶん物騒な名前だ。
「……白光酒を」
女は一瞬だけ目を瞬かせ、すぐに意味ありげに笑った。
「お兄さん、お若そうなのに……ふふ。お目が高いですね」
少し身を寄せ、囁く。
「舞が始まったら、一番右端を見てください」
そう言い残し、女は人混みの奥へ消えていった。
ほどなく、白光酒が運ばれてくる。
グラスに鼻を近づける。
――本物だ。
香り、透明度、揺らしたときの光。
一口含む。
「……っ」
思わず咽せる。
アルコールは、得意ではない。
そのとき、太鼓の音が鳴り響いた。
舞台に、華やかな衣装を纏った踊り子たちが現れる。
身体を大きく使い、炎のように舞う。
火の都特有の、情熱と祈りが溶け合った舞。
レンセリオンは、ふと視線を右端へ向けた。
――黒髪の女。
先ほどの、呼び込みの女だった。
彫りの深い顔立ち。
鮮やかな唇。
艶やかな影を宿したまなざし。
踊りながら、ふいに――
こちらを見る。
ほんの一瞬。
だが、その視線は
舞台の灯よりも、はっきりと彼を捉えていた。
――異様なほど、目を引く。
その瞬間、胸の奥がざわめく。
視線を逸らせない。
舞が終わる。
喝采が広がり、舞台が暗転しても――
彼女のまなざしだけが、意識に焼きついて離れなかった。
香と煙の残る空気の中で、
レンセリオンはゆっくりと息を吐く。
(……なんだったんだ、あの女)
胸の奥に、説明のつかない熱が残る。
香のせいか。
酒のせいか。
それとも――
あの目か。
まぶたの裏に浮かぶ。
揺れる黒髪。
熱を帯びた、逃がさない眼差し。
頭を振る。
……酔ったのか。
俺は、何をしにここへ来た?
情報収集が目的だったはずだ。
誰かに目を奪われるためじゃない。
レンセリオンは、立ち上がろうとした。




