第276話 黎火の印
“勇気”の火を継ぐ国、ソレイダ王国。
その炎は――生きるために燃えると、伝えられている。
火山〈ヴァルカノ〉のふもとに広がる大地は、
地の底から静かな熱を湛え、夜でも微かに息づいている。
民はその温もりを“神の呼吸”と呼び、
火を恐れず、命を守る熱として崇めてきた。
沈黙する火山こそが、王と民の誇りである。
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夜明け前の聖炎都市ソル=アルテ。
霧の奥で、ヴァルカノの赤光が、
まだ眠る空を淡く染めていた。
神殿の奥――
静まり返る石の回廊の先に、ひとりの神官が立っていた。
白の法衣は、幾度もの祈りでわずかに灰色を帯び、
袖口には燃え移ったような焦げ跡が残っていた。
四十を過ぎた顔には、年月の誇りが刻まれている。
背筋はまっすぐで、その眼差しは炎よりも澄んでいた。
彼の前には、灯台皿にともされた一本の火。
それは夜を越えて燃え続ける“黎の灯”。
神に捧げる最初の炎。
新しい一日を迎えるための――息吹。
「勇気とは、進むことにあらず。
疑いが胸を覆うとき、太陽はまだ昇らぬ。
霧の中にある間は、風の声を聴け。
光が差すその時、ためらいなく歩みを始めよ。
それこそが、真の勇気である。」
炎の明滅が、神官の頬の皺をやわらかく照らす。
長き祈りを身に刻んだ者だけが持つ静けさが、
そこにはあった。
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黎火が揺れるたびに、神殿の壁が微かに赤く染まる。
その光の中で――
ひとりの少年が、静かに立っていた。
少年は、自分の影が長く伸びるのを見つめている。
まるで――
その影までもが“選ばれし者”であるかのように。
掌を見下ろす。
左手の甲。
小さな炎の紋が、光を拾い――ほのかに揺らめいた。
――この印を持って生まれたのは、自分だけ。
その事実が、胸の奥で誇らしく燃える。
(父様も、姉さんも……きっとわかってる)
(俺は、この国の火に選ばれたんだ)
黎火の赤が、瞳に宿る。
少年は、ゆっくりと息を吐いた。
その吐息に呼応するように、
炎がわずかに揺れた――気がした。
少年は、小さく笑った。
それはまだ、形を持たぬ火。
けれど確かに――
そこに在る。




