第268話 巡りを刻む夜、ふたつの魂が触れる時
神殿へ向かう頃には、月が顔を出していた。
「少し、ゆっくりし過ぎたでしょうか?」
エリオンが、どこか照れたように笑う。
服はとうに乾いていたのに――
ふたりは、なかなか離れられなかった。
リリナは彼の背に腕を回し、そっと抱きしめる。
――離れたくない。
そんな想いが、胸の奥で静かに膨らんでいた。
⸻
アクエリシア王国の中心、セレナス湖。
揺れる馬上から夜空を見上げると、
今夜も満月が浮かんでいる。
(……満月って、こんなに続くものなの?)
月の真下には、相変わらず黒い影があった。
⸻
神殿に到着すると、
満月の光が湖面に落ち、氷環の祭壇を蒼白に照らしていた。
氷で組まれた回廊は月を映し、
湖は鏡のように静まり返っている。
風ひとつない夜。
水音と、遠くの水鳥の声だけが、
静かに時を刻んでいた。
湖畔には、小舟が一艘。
「この先です。足元、気をつけてください」
差し出された手に触れた瞬間、
胸のざわめきが、ゆっくりとほどけていく。
櫂を使わずとも、湖の流れが
ふたりを祭壇へと導いていた。
月光に照らされた湖面は、
まるで“道”のように伸びている。
(……なんて、神秘的なんだろう)
近づくほどに、空気は澄み、
心の奥の層が一枚ずつ剥がれていくようだった。
やがて小舟が、白氷の床へと触れる。
無数の氷晶が、星のように瞬いていた。
「リリナ、こちらへ」
エリオンは湖水の上に膝をつき、手を差し伸べる。
――それは、“共鳴”の始まりを告げる仕草だった。
⸻
祭壇の中央。
湖の源流と繋がる、清めの泉。
エリオンは上衣を脱いだ。
月光を受けた肌が、青白く静かに輝く。
(……っ)
視線の置き場に困るリリナに、
エリオンはくすりと笑った。
「どうぞ。見ていてください」
「ふ、ふざけないでくださいっ!」
頬を染めるリリナを見て、
エリオンはやわらかく微笑み、そのまま水へと身を沈める。
「リリナ」
名を呼ばれ、
リリナも裾をたくし上げ、そっと泉へ足を入れた。
冷たい水が肌を撫で、息が跳ねる。
けれど――
隣で静かに目を閉じる彼の姿に、不思議と恐れはなかった。
⸻
「――我が魂は、“慈愛”を継ぐもの」
湖面に、祈りのような声が響く。
「この水は、ただ癒しのためにあらず。
悲しみに寄り添い、痛みに触れるために在る」
ゆっくりと、エリオンが瞳を開く。
その光は――
もはや、彼ひとりのものではなかった。
――扉が、開く。
リリナの胸の奥が震える。
水面が揺れ、
青白い光輪が静かに広がっていく。
「黎光の鳥よ」
その声は、
魂が記憶する、古き呼び名。
「慈しみの湖よ」
リリナの胸の奥から、アウルの声が応じる。
エリオンが、そっと抱き寄せる。
「あなたの光に触れた時……
この湖は、凍てつく運命から解かれた」
祈りのような声音。
「いま、その胸に“巡り”を刻む」
左胸の印が、熱を帯びる。
待ち続けていたかのように。
エリオンがそっと上衣をずらす。
月光が、印を照らす。
「あなたを抱く水でありたい」
――その瞬間。
印へと、口づけが落ちた。
⸻
エリオンの印が広がる。
左胸から、肩へ。
そして、二の腕へ。
水の紋が、氷の花弁のように開いていく。
リリナの印も応じるように光り、
レンセリオンの正義の紋の隣に――
新たな水の紋が、静かに刻まれた。
熱い。
けれど、どこまでも優しい。
湖面に光の睡蓮が咲くように、
澄んだ光が広がっていく。
リリナが瞳を上げる。
そこにいたのは――
同じ光を宿したエリオン。
視線が重なる。
世界が、静止する。
鼓動が響き合い、
満ちていく。
⸻
そのとき――
泉の底から、
水音が、そっと揺れた。
「エリオン……」
その名を最後に。
リリナの意識は、
静かに沈んでいった。




