王国歴1669年10月22日①:夫婦の予行演習
御手洗いから戻ると、ヒイロはベッドに腰掛けて私を待っていた。心配そうなヒイロの視線が痛かったが、私は「お騒がせしました」と素直に頭を下げる。
それから2人で少しだけ話し、御手洗いなどの緊急事態は素直に伝える事を約束した。乙女が”御手洗い”と口にするのはどうかと思えたが、率直にオナラと言うよりはマシなのだ。
私がベッドに入ると、ヒイロから私の指を繋いでくれた。御手洗いで冷えた身体にヒイロの温もりが染み込んできて、号泣の疲労も相まってか私はすぐに眠りにつく事が出来た。
王国歴1669年10月22日
柔らかい光に目覚めると、窓からは抜けるような秋空が見えた。昨夜は窓のカーテンもベッドの天蓋も締めていなかったので、朝日が差し込んでいたのだ。二日酔いの症状もなく、久しぶりに気持ちの良い目覚めだ。
部屋の空気は少し寒々としているが、そのお陰でベッドの温もりを有難く感じた。この温もりの元が自分の体温以外だというのが嬉しく、朝から頬が緩んでしまう。
私が何度も寝返りした為か、ヒイロとは手を繋いではいない。その代わりなのかヒイロはこちら向きに寝ており、無防備な寝顔を私に晒していた。手を伸ばせば届きそうな距離に男性の顔があるのが不思議で、何だか夫婦の予行演習をしている気分になる。
私はヒイロを起こさないようにベッドを降りると静かに天蓋を降ろし、その陰で手早く着替えを済ませる。2年間で身に付いたメイドの習慣なのか、どうにもベッドで惰眠を貪る事ができなかった。それに妻が先に起きて旦那様を起こすなんてのも夢の一つであり、夫婦の予行演習ならばそれも味わってみたくなったのだ。
さて……身支度も整えたし、鏡で髪も整えた。
さっそくヒイロさんを起こすとしますか!
……と言っても、何をしたらいいんだろう…
メイドだったら洗顔の平桶とタオルを準備するけど、それじゃ御主人様だし…
うちの母ちゃんは…炊事場から大声で起こすんだよな…参考にならない…
こういうのって恋愛戯曲とかにも書かれてないんだよなぁ…
えっと…呼び方は夫婦だから…旦那様?
『旦那様、おはようございます』
……いや、それじゃ御主人様と変わらないな…
や、やっぱり…『アナタ』かな?
『アナタ、おはよう』
キャーーーーーーーー!!!まるで本当の夫婦じゃない!!!
そうしたらヒイロさんも『おまえ』と私を呼ぶのかな?
……いや、そこは『コマイ』って呼び捨ての方が良いよね!
『おはよう、コマイ…今日も綺麗だね』
もうヤダァ~!ヒイロさんってば素直なんだからぁ!
あ…その前に起こさないと、朝の挨拶も出来ないな……
う~ん、どうやって起こそう……
先輩とかだったら揺すって起こすけど、夫婦でそれじゃ面白くないわよね……
頭を撫でる?それじゃ弟の起こし方だ。
手を握る?…う~ん、それはそれで良いかもしれない……
や、やっぱり……目覚めのキス……かな?
キャーーーーーーー!!朝から大胆だわ!
ほ、ホッペにチューかな?
いや、ここは……く、くちびる?
『アナタ、起・き・て……』
『ふふふ、コマイは朝から大胆だね?』
『アナタの魅力的な唇に、つい引き寄せられてしまったの…』
『そんな素敵なお姫様には、俺からお返しをしようかな…』
『あ、いや、だめ、そんな…アナタ~~~!!!』
「…おはよぅ、コマイさん……」
「ウワァ!?」
私はあらぬ方向へ暴走し始めた妄想を掻き消しつつ、振り返ってみるとヒイロがベッドに腰を掛けていた。まだ眠いのか大欠伸をしながら目を擦っている。
「お、お、おはようございます!ヒイロさん!!」
「うん、コマイさんは朝から元気だね…俺も見習わなくちゃ…」
私の焦りを元気と間違えたヒイロは、微笑みながらベッドから降りた。開けたローブから鍛えられた胸板が見え隠れし、先程の妄想と相まって私の鼓動を跳ね上げる。
そんな事を思いもしないのか、ヒイロは小さく手を叩いて納得した。
「そうか、今日はカリーナさんを説得するんだったよね。2人の事が心配だから早起きしたのか…コマイさんはしっかり者だなぁ」
「は、ははは…まぁ、そんなところです……」
純粋な笑顔を浮かべるヒイロの顔を、私は直視する事が出来なかった。
着替えたヒイロと一緒に食堂へ行くと、すでにグララブが席に着いて牛乳を飲んでいた。こうしてみると本当に12歳ぐらいにしか見えないのだが、中身は40歳以上らしいのだ。
「おはよう、お2人さん。昨晩は楽しんだか?」
「はい。途中は激しく泣かれましたけど、最後は仲良く寝れました」
「な、ちょ、ヒイロさん!言葉が全然足りませんってば!!」
グララブはヒイロの言葉に驚いていたが、私を見ると納得したように笑う。
「嬢ちゃんの歩き方を見れば、何も無かったと分かるわい。それでもヒイロがこんな笑顔を見せたのは初めてじゃ…嬢ちゃん、ありがとうな」
「ほ、ホントに何も……何も…してません…から…」
頭を下げたグララブに、私は何も言えずに言葉を濁した。オナラの事は忘れたいのだ。
「しかし、女が苦手だったヒイロが紛いなりにも同衾するとは…こりゃ今回の任務は何があっても、ヒイロだけは生かして返さねばならんのぅ…」
「え?何か動きがあったんですか?」
「ん?あ、ほれ、儂が頼んでおいた朝食が届いたようじゃぞ?冷めない内に食べようではないか!」
厨房の方を見ると、配膳車を押すコックの姿が見えた。その背後にビビィの姿はない。グララブに聞くと「まだシーナルの部屋に居るのではないか?」と答えてくれた。
あとキースも部屋に帰ってないらしい。戻っていれば話し合いが出来たのだが仕方ない。
「お熱くなっております。十分にお気を付けください」
コックがミトンで配膳した朝食は、一見質素であったが美味しかった。
薄焼きした小麦の生地が4層に重なり、それぞれチーズ・ベーコン・トマトが挟まっている。一番上には半熟の目玉焼きが乗っており、それをナイフで切ると美しい断面が現れた。量があるように見えるが生地が薄いので口当たりが軽く、濃厚なチーズと新鮮なトマト、半熟の黄身とベーコンの塩気が絶妙に混ざり合い、淡白な白身が全体を引き締めている。脂気が気になれば添え付けの塩茹で野菜を食べ、口の中をサッパリと戻す事ができた。厚手の皿が持てない程に温められており、料理が冷めるのを遅らせているのも良い点だ。味だけでなく食べる状況にまで気が利いており、これなら1G取られても納得できるだろう。
…私は払わないけど。
朝食を終えた私達は、馬車を使わずにゲッスーナ邸を目指した。




