日本語量子論(前編)
「ねえ博士。日本語って、時々バグみたいに感じません?」
ある日、研究所の書類整理をしている最中、僕はふと思いついて話しかけた。
「たとえば、“行けるなら行って”とか、“してもいいけどしなくてもいい”とか。
結局、何をしてほしいのかわからないのに、ちゃんと通じるのって不思議じゃないですか?」
博士は少し首をかしげながら、紅茶に口をつけた。
「それは、“バグ”ではなく“余地”と呼ぶんだよ。
日本語は、意味を決めきらないことで、相手の解釈の幅を許していんだ。
論理よりも関係性を優先する、ちょっと変わった言語だね」
「でも、そういう曖昧さって、科学とは相性悪くないですか?」
「ふむ、一般的にはね。でも……それ、量子の性質と似てると思わないかい?」
博士はふと窓の外を見ながら、言った。
「重ね合わせ。決まらない状態を、決めずに保つ。
量子ビットは“0でも1でもある”という未定義の状態を並列に扱える。
日本語の“意味の重ね合わせ”と似てるとは思わないかい?」
僕は、博士の言葉に思わず黙り込んだ。
確かに日本語には、意図をぼかしたまま伝える言い方がたくさんある。
「どうする?」「よければ」「気が向いたら」──そのどれもが、“まだ決めない”という選択肢を含んでいる。
「つまり、“曖昧さを残したまま動ける”のが量子で……“曖昧なまま伝える”のが日本語……ってことですか?」
博士は微笑みで答えた。
博士はいつものように、明確な“正解”は示さない。
でも、その分、僕の中に問いが残る。
この問いが、何かのヒントになる気がした。
その夜、僕は奇妙な夢を見た。