第三章 忘れたい過去
そんな事件が起きていたことなど知る由もないアヒムは、いつもと同様作業の区切りが良いところで昼食をとり、休憩と腹ごなしがてら周囲をぶらついていた。
今日の担当現場も、先日厄介な連中と遭遇しそうになったあたりと、そう離れてはいない。それでも大通りを避けて人気のほとんどない裏道を歩いていれば、距離があるうちに相手を見つけることができるはずだ。もしそうなったら全力で逃げ出せば良い。
むしろ仕事中にいきなり鉢合わせて、大事な道具を壊されたり現場を荒らされでもしては、そっちの方がおおごとだ。
そんなふうにつらつら考えていたアヒムの耳へと、なにかが遠くから近づいてくる音が捉えられる。
視界に入る前から乱暴な運転だと察せられる、激しいエンジンの唸りと連続した急ブレーキが立てる、甲高い響き。
まさか、と。
そう思った瞬間には、目の前の角から猛スピードでワゴン車が飛び出してきた。とっさに身をすくめた彼を掠めるようにした車体は、そのまま十数メートルほどを進み、後輪を大きく横滑りさせながら停止する。
「ッんだ、てめえ! 危ねえだろうが!!」
開け放った窓から顔を突き出して怒鳴りつける男の顔に、アヒムは見覚えがあった。
硬直する彼に、男は一瞬眉を寄せる。が、その表情は急に笑みへと変わった。
「なんだよ、アヒムじゃねえか! 久しぶりだなぁっ」
そんな言葉に続いて、他の窓からも次々と顔が出てくる。
いくつかは見覚えがあり、いくつかは知らなかった。しかし誰一人として、関わり合いになりたいとはこれっぽっちも思わない、暴力的な気配をぷんぷんさせている。
「最近ぜんぜん見ねえから、てっきりくたばったと思ってたぜ!」
「ってか、なにそのだっさいカッコ! まさかマジメに働いてるとか!? って、そんな訳ないよね~!」
口々に言いながら、車のドアを開け、こちらへ近づいてこようとする。
アヒムはとっさに腰を低くした。いつでも走り出せるよう準備しながら、両手を前に突き出し、気弱な笑い声を上げる。
「い、いや、そのー、ちょっといま、急いで……て、さ……っ!?」
なんとか誤魔化して場を離れよう。そう思って口を開いたその時、数人が降りて見えるようになった車内に、見覚えがあるどころではない人物がいることに気がついた。
思わず言葉を切り、目をこすって見直す。
間違いではない。両手首を前で縛られた状態のその人物は、紛れもなくアヒムが住む集合住宅の家主であり、かつ友人であるリュウの同居人。人間女性のシルバーであった。
なんだって彼女が、そんな誘拐のような扱いを受けているのか。
そう考えたところで、こいつらなら人間種が視界に入ったその瞬間には、無条件でやらかすなと、ごく自然に納得する。
「…………」
隣の女にナイフを突きつけられている彼女は、無言のままこちらの方を見つめていた。猿轡のようなものはされていないが、アヒムに対して助けを求めようとするでもなく、表情ひとつ動かしていない。ただじっと視線を向けてくるだけだ。
薄暗い車中にあってその眼差しは、どこまでも深く。黒く。離れた場所からは、何を考えているのかまったく読み取ることができない。
アヒムは喉の奥が干上がってゆくのを感じた。
この連中とは、金輪際一切関わり合いたくなどない。
叶うものならば、今すぐにでも回れ右をして、全力でこの場から遁走したいのだ。そうすれば振り切れる程度の距離は、まだ残っている。
靴底が、じりじりと路面を擦る感触がする。無意識に足が後ろへ動いているのを自覚した。
「そーだ、どーせならアンタもつきあいなよぉ」
記憶よりもずいぶんとケバケバしくなった虎猫種の女が、その瞳孔を楽しげに細める。
「これからこの女であそぶんだ。きっとスカッとするよ!」
そう言ってナイフを手にケタケタと笑う。尖った先端が揺れて、今にもシルバーの頬へと触れてしまいそうだ。
同調するように笑った男が、大股に近づいてきた。そうしてアヒムの腕を、力強く引っ張る。
「ほら、お前も乗れよっ。この近くにおれらのヤサがあんだよ。ちょっとぐらいの悲鳴は外に聞こえねえから、好きなだけヤれるぜ!」
力ずくでワゴン車へ乗せようとする男に、アヒムは反射的に足を踏ん張って抵抗していた。
「い、いや、オレは……」
「ぁあ!?」
凄むように顔を近づけられて、思わずひっと息を飲み込む。
それでも、懸命に言葉を続けた。
「オレは……オレはっ、いまっ、仕事中で! ……もう、足は洗ったんだ!!」
最後は半ば自棄糞のように叫んだ。
一瞬、白けたような空気があたりに漂う。
その空白を埋めるように、アヒムはなおも声を張り上げた。
「そっ、それから! その人は……オレがいま住んでるとこの、大家さんなんだっ! だから、離してあげてくれよ!!」
これだけのことを口にするのに、アヒムはすべての勇気を使い果たしていた。
気がつけば息が大きく切れ、膝も笑い始めている。それでもなんとか最後まで言い切ったと顔を上げた瞬間 ―― みぞおちを蹴り上げられていた。
「うっぜ」
蹴られた腹を抱えるようにして膝をついたその背中に、けたたましい声が降り注いでくる。
「やっだー、アヒムも人間のしもべとかいうのになっちゃったの? カッコわる~」
「ったく、せっかく誘ってやったってのに台無しだぜ。ほら、もう行くぞ」
ワゴン車へ戻ろうとする男の足へと、アヒムは反射的にしがみついていた。
「……お、オーナーを、返せ……っ」
苦痛をこらえながら、なんとか言葉を絞り出す。
しかし再度膝蹴りを受けて、腕から力が抜ける。それでも必死に手を伸ばし、届いた男のベルトを思い切り握りしめた。
「なんだよコイツ、うっとおしいな」
「ああもう、めんどくせえ。そいつも連れてこうぜ」
ずり落ちそうになるズボンを押さえる男に、もう一人がやってきて手を貸した。
足の立たないアヒムを二人がかりで引きずり、ワゴン車の後部座席へと強引に押し込む。
重い金属音とともに、無情にもドアが閉められた。アヒムは狭い車内でリアガラスに顔を押し付けるような、無理な姿勢を取らされた。
そうして再び走り始めた車の中で、アヒムは恐怖と情けなさにただただ震えていた。こみ上げてくる吐き気と痛みに涙が出てきて、ぼやけた視界でひたすら窓の外を見ていることしかできない。
数人挟んだ位置にいるだろうシルバーの反応を、確かめる勇気など欠片も湧いてこなかった。
そんな彼の背中へと、ただただ下品な嘲笑が浴びせられて ――
§ § §
どれぐらい走り続けただろうか。
二人が連れ込まれたのは、人気のない倉庫街の中でもかなり奥まった位置にあると思しき、古びた建物であった。もう本来の使われ方はしていないらしく、コンクリートが打ちっぱなしになった内部はがらんとしている。電気も通ってはいないようで、薄暗い床に太陽光で充電するタイプの灯りが、いくつか放置されていた。
あとは古びたマットレスや毛布、そして酒瓶や食べ散らかしたテイクアウトのゴミが散らばって、すえた異臭を放っている。
倉庫として使用されていた頃の名残は、せいぜい壁近くへ寄せるように、数段ほど積み上げられた大きめの木箱ぐらいだった。
「うーっす、戻ったぜー!」
リーダー格の男が先頭になって、開け放された鉄扉の間をくぐる。その後にアヒムとシルバーを引きずった男達が続き、女二人は手ぶらのまま足取りも軽く最後に入ってきた。
「あー、そっちはどうだったッスか~?」
倉庫内にはさらに数名の男達がたむろしていた。
床の上に大きなカバンを広げ、その中身を物色していたようだ。ひと抱えもある箱型のそれは、太いベルトで閉じられていたようで、外された数本が近くの床に放り出されている。
「ああ、借金男は邪魔が入って置いてきたが、代わりに面白いもん見つけてきたぜ」
そっちはどうだ、と男が言おうとするのを遮って、女二人が黄色い声を上げる。
「やっだ、なにそれ!」
「アクセサリーじゃんっ。それもいっぱい!」
床のトランクへと遠慮もなく走り寄って、両手を突っ込む。
そうして歓声と共に、指輪やネックレスと言ったものを鷲掴みにし、目の前へと持ち上げた。
「これカッコよくない!? アタシに似合うよね!」
「こっちも良いよ! おっきな宝石がついてるしっ」
きゃあきゃあと姦しく品定めを始めた女達をうるさげに見てから、リーダー格の男は再度、塒にいた男達へと目を向ける。
と、彼らはへこへこと頭を何度か下げながら、少し離れた位置を指差した。
「ほら、最近なんか噂になってた、ヨソもんッス」
そこにいたのは、やはり両手首を胸の前で縛られた、獣人種の青年だった。身体つきはアヒムよりもさらに細く、暴力的な男達の間にあっては、いっそう頼りなく見える。目隠しまでされているため、顔形はよく判らない。しかし目隠しの上、浅黒い額の中央に光る小さな赤い装飾や、これでもかと言うほど重ねて着けているいくつものアクセサリー、そして服の上から派手な柄の布を、何枚も巻いたり結んだりしている特徴的すぎる格好に、アヒムは見覚えがあった。
以前にルイーザが【Katze】へ連れてきた、露天商のクムティである。確かトカゲ種の獣人で、最近になって別の都市から流れてきたとかいう話だった。
シルバーの依頼でとても格好いい金属製の栞を作り上げ、その前にはリュウが購入したヘアピンの石を、彼の目の色に合わせて交換するという、粋な計らいもしたアクセサリー職人である。
その後も幾度か店で姿を見かけ、場の流れで相席したり、それなりに話が弾んだことなどもあった。アヒムにとっては、常連一歩手前の予備軍といった認識の相手だ。
「道ばたで断りもなく店広げてやがるから、ショバ代よこせっつってやったんすよ」
「したらなんか、ぐだぐだ言いやがりましてね」
剣呑な視線が向いたのを、目隠し越しにも感じ取ったのか。
積み上がった木箱を背に、尻をついて座っていたクムティは、細い手足を引き寄せるようにして身を小さくした。
どうやら大きな怪我はしていないようだが、ここまで連れてこられた挙げ句に縛られているのだ。手荒な扱いは相応に受けたのだろう。
「あー、そりゃめんどくせえな」
「っしょ? なんでまとめて全部、かっさらって来たッス」
「いいんじゃね? 見せしめにもなんだろ」
リーダー格の男はしゃがみ込むと、トランクの中からひときわ目立つ、ごつい金属製の指輪をつまみ上げた。
頭蓋骨を象った、立体的なシルバーリングだ。その片目は眼帯で覆っている体となっていて、もう一方の目にだけやけに毒々しさを感じさせる紫色の石がはめ込まれている。
いかにもこういう連中が好みそうな、奇抜なデザインだ。
それを数度投げ上げてから、右手の人差指に嵌める。
―― あれで殴られたら、きっと痛いな。
アヒムなどはそんなふうにしか思えなかった。実際、そういった意図もあっての人差し指なのだろう。
離れた位置で縮こまっているクムティには、もうそれで興味を失ったらしい。男は改めて、アヒムとシルバーを親指で指し示した。
ふたりともそれぞれ別の男に両肩を掴まれ、逃げられないよう拘束されている。
とはいえシルバーはクムティ同様、両手を縛られている上に、いつもの杖も持っていない。総勢で十名を越える彼らを相手に、逃げ出せる可能性など皆無だった。
「あれ、アヒムじゃーん。何だよおまえ、生きてたんだ」
「あんとき逃げ遅れて、ぶっ殺されたと思ってたぜ」
何人かがそんなふうに、親しげな声をかけてくる。
あくまで親しげと言うだけで、本当に親しみを向けてくれているのではないのだと、今のアヒムは理解している。
しかし身に染み付いた処世術が、意識するより早く眉尻を下げ、どこかへつらうような笑みを作ってしまう。
「そいつさあ、なんかニンゲンにしっぽ振ってるみたいだよ」
「さっきも後ろの女のこと、『離してくれー』とかって、助けようとしてたし」
「あ?」
アクセサリーをあさっていた女達の言葉に、場が殺気だった。
生存本能が、ぞわりと全身を総毛立たせる。これは、ヤバい。経験がそう告げてくる。
強く背中を突き飛ばされて、アヒムは思わずたたらを踏んだ。
続いて突き飛ばされたシルバーへと、反射的に手を伸ばす。しかし支えきることはできず、二人まとめて固い床へ転がる羽目になった。
そんな無様な姿を、男達は口々に嘲り、嗤う。
「あーあー、なっさけねえの」
「女ひとりも受け止められねえって、ほんと弱っちいよな、お前って」
どこかをぶつけたのだろう。無言ながらも顔をしかめ息を詰めているシルバーを確認し、アヒムはなんとか床に両肘をついた。見下ろしてくる連中から少しでも彼女を隠すように、上半身を起こす。
いったい何がどうしてこんなことになっているのか、具体的なことはさっぱり判らない。しかしひとつだけはっきりしているのは、時間さえ稼げばきっと、助けが来るという事実だ。
少し前に、たった一時間シルバーの帰りが遅くなっただけで、リュウは半ばパニックを起こした。そして多少呆れながらも、【Katze】の常連客達は彼女を探すのを手伝っていた。実際には泰山鳴動して鼠一匹という結果に終わったが、それでもそれを笑い話として皆で乾杯できる程度には、誰も怒りはしなかったし、むしろお祭り騒ぎのように楽しんでさえいたのだ。
だから、こんな洒落にならない状況になっている今回もまた、誰かが彼女を探そうと言い出すはずだ。少なくともリュウは確実に飛び出そうとするだろうし、そうすれば力を貸してくれる者が必ずいる。
特にドクターが協力してくれれば百人力である。シルバーを己の患者だとみなしている彼は、事情を知れば絶対何かしら手を打ってくれる。
ならばここで自分ができるのは、少しでも長くシルバーを守って、助けを待つことだけだ。
頭の中では冷静に状況を分析しながらも、身体の震えがどうしても止まらない。
「ニンゲンなんかかばおうとして、なぁに、イイ子ちゃんぶってんだよ」
持ち上げられた靴の底で、軽く肩をこづかれる。
それだけで全身がすくみあがった。
「お前って昔っからそうだったよなあ。ケンカが弱くて、強い相手にはへらへら媚びうってさ」
「そうそう。そのくせいざとなったら、真っ先に逃げだすんだよねえ。ぴゅーーって!」
横一直線に動かされた手がツボにはまったのだろう。どっと笑い声が上がる。
「そういやあ、ガキんころはよく、逆に女にかばわれてなかったっけか」
「ああ、いたいた! なんつったっけ、あの生意気なメスガキ」
「いつの間にか見なくなったよな」
「見捨てられてやんのーーー」
「カッコわる~~!」
口々に投げつけられる嘲りの言葉に、耳をふさいでうずくまりたくなる。
そしてそれ以上に、シルバーに聞かないでくれと訴えたかった。
己の情けない過去を、これ以上知られたくない。いくらそう思っても、現状ではどれも叶わない行動で。
唇をかみしめて床に爪を立てるアヒムへと、やがて彼らは言葉の矛先を変えてきた。
「ほらほら、無理にカッコなんざつけてねえで、さっさと謝れよ」
「前みたいに這いつくばって『ごめんなさい、なんでもします』って土下座したら、許してあげるかもよ~?」
うつむいた顔の脇へと、女の一人が内緒話でもするように口を近づけてくる。
しかしその声はまったく潜められておらず、周囲に丸聞こえだ。
ドギツい化粧の臭いと、そして隠しきれていない口臭とが鼻をついて、一度は収まった吐き気がまたぶり返してくるのを感じる。
それでも、ことを荒立てないためには、このまま頭を下げるしかない。
どれほど無様だろうが、あとで軽蔑されることになろうが、それでもここでこのまま袋叩きにされるよりは百倍マシだ。
ぐっと口唇を噛みしめ、床に額をすりつけようとした、その寸前だった。
「あ、そうだ。どうせならその人間、まずはお前から殴れや」
リーダー格の男が、さも面白いことを思いついたとばかりに提案した。
それを聞いた瞬間、アヒムは凍りついたように動きを止める。
「いいッスね~」
「いくらコイツが弱っちくても、人間の女ぐらいなら余裕っしょ」
「アヒムちゃん、男を見せるチャンスだよ~?」
尻馬に乗って楽しげにけしかけてくる彼らを、アヒムは気がつけば呆然と見上げていた。
自分が、殴る?
この、オーナーを?
リュウや【Katze】や、常連達にいつも心を砕いてくれて。
共に同じ場所で同じ料理を食べ、時に突拍子もない事を言ってみたり、まれには不器用な微笑みをも見せてくれたりする。
そんな、この、人間女性を。
「家主ってことはあ、そいつにお金取られてるんでしょ?」
「ボコボコにして取り返せよ。したらおれらにも分け前よこせよな!」
拳を突き出して煽り立てる彼らへと、無意識のうちにかぶりを振っていた。
「そ、そんな、の……できな……」
「ァア!?」
これまでとは比べ物にならぬ怒号が発せられる。
ヒッと息を呑んで頭を庇ったアヒムへと、至近距離から囁きかける声があった。
ぎょっとして腋の下から視線を向けると、アヒムの後ろに倒れていたシルバーが、うつ伏せのままわずかに視線だけをこちらへ向けている。その眼差しには、危惧していたような軽蔑や失望の色など混じってはおらず。
「……この場は、しのいだほうが良い。構わん。殴れ」
その言葉は、小さく抑えられてこそいたが、それでもはっきりとアヒムの耳に意味を届けた。
こんな事態になってから、初めて耳にした彼女の声。それはいつものそれと、ほとんど変わらない。多少の緊張こそあれ、低く落ち着いた、感情を伺わせないそれだ。おそらくはその冷静かつ明晰な頭脳で、アヒムになど想像もつかない思案を巡らせ、彼女なりの最善を導き出したうえでの結論を出しているのだろう。
けれど ――
アヒムはその瞬間、全てを忘れて身体ごと振り返っていた。
「殴れる訳ないでしょうが!」
腹の底から全力でそう叫ぶ。
次の瞬間、背中が容赦ない力で蹴り飛ばされた。
耐える余裕などまるでなく、シルバーへと折り重なるような形で再び床へと倒れ込む。
「あー、あー、くっせー」
「なにこれ、メロドラマでも気取ってんの?」
「っつか、萎えたわ」
「人間サマのゲボクとか、ムカつきすぎて反吐が出るぜ」
いくつもの足が、アヒムの背や頭を手加減なく踏みつけ、あるいは蹴り飛ばす。何人かは手近にあった廃材や棒切れを拾い上げ、それらを振り下ろしてきた。
「 ―― ッ!!」
アヒムは歯を食いしばると、両目を固く閉じ、ただひたすら下にいるシルバーの身体へと覆い被さった。
「……どけ、アヒム」
ここまで来てもなお落ち着きを失わない腕の中の声には、それでもどこか焦りのようなものが滲んでいるように感じられた。そのことが何故かしら嬉しく思えて、アヒムは懸命に己を奮い立たせる。
「……っ、駄目、っす。ここで……逃げたら、オレ……っ」
暴力になど慣れているだろう。
殴られることだって、これが初めてじゃない。
そう己に言い聞かせ、必死に痛みから意識をそらそうとする ――
§ § §
アヒム=カフは、レンブルグの出身ではなかった。
親の腹から生まれた第二世代ではあったが、父親が誰かは判らない。母親は法改正によって市民権を与えられ、アヒムを妊娠した状態でこの街へと一人送られたのだという。
あとはお定まりの、世間知らずな元首輪付きが辿る人生だ。
さまざまな男の世話となり、アヒムの扱いはその相手次第でころころと変わった。一時はマシな男に当たったこともあり、その間には学校に通うこともできた。
しかし授業内容にはろくについていけず、当時はそのありがたみなどまるで判っていなかった。
そうして十を過ぎるかどうか……今のルディと、そう変わらない頃だっただろう。いつものように学校から帰ると、狭いアパートには何もなくなっていた。母親の姿も、彼女の荷物も、それどころか数少ない自分の持ち物でさえ、すべて消えていたのだ。
呆然と立ち尽くすアヒムへと、腰の曲がった獣人種の管理人がうさんくさげな目を向け、忘れ物ならとっとと持っていきなと吐き捨てた。
忘れていかれたのは ―― いや、捨てていかれたのは自分なのだと、そうしてアヒムは理解したのだった。
その後のことは、正直よく覚えていない。隣近所との付き合いなどろくになかったし、当時は獣人種が市民権を得るようになってからまだそう間がなく、大人たちも現在ほどの余裕を持っていなかったのだ。
たとえ子供であっても、助けてくれる者などいない、食べる物を得ようにも、金がなければどうにもならなかった。治安の悪い街を行くあてもなくふらつき、空腹に負けて店先にある果物や、時には前を行く大人の尻ポケットからのぞく財布などに手を伸ばした。たとえうっかり見とがめられても、足の速さにだけは自信があったから、たいていは逃げきることができた。
時に捕まることがあったとしても、ひたすらに謝り、地面に額をこすり付ける。幼い子供が哀れっぽくそうしてみせれば、数発殴られる程度で解放されると、そんなふうに学習した。
そうこうしているうちに、気がつけば同じように住む場所のない少年少女達のグループの、使い走りをするようになっていて。
荒っぽいことには適正のなかったアヒムは、グループの中でも底辺の扱いを受けていた。
何かと言えば馬鹿にされ、多少はこづかれたり、時には強めに殴られたりもする。それでも彼らに従って雑用をこなしていれば、最低限の食べ物と眠るところは得ることができた。
そうして数年を過ごし ―― 気がつけば、下っ端としての生活にも慣れ始めていて。
暴力沙汰の際は、目をつむって耳を塞ぎ、物陰で震えているだけだったけれど。それでもアヒムは紛れもなく、近辺の厄介者とされる、不良集団の一員に数えられていたのだった。
そんな運命が劇的に変わったのは、十五になって間もない、ある日のこと。
弱っちいお前でも、見張りぐらいはできるよなと、無理やりに引っ張り出された。
彼らが目論んでいたのは、それなりに溜め込んでいると噂の運送業者へ忍び込み、事務所から金目の品を洗いざらい持ち出すというもので。もし誰かに見つかった場合は、力ずくで叩きのめせば良い。ぶち殺せば逆に後腐れもないだろう、と。楽しげに打ち合わせているその内容は、これまでアヒムが手を染めていたケチな置き引きやスリといった軽犯罪とはまるで次元が異なる、完全な ―― 殺人をも視野に入れた、押し込み強盗の計画であった。
これに関われば、不良少年などという可愛らしい形容ではもう済まされない。厳然たる犯罪者の仲間入りである。
事の大きさに震え上がったが、逆らえばどんな目に遭わされるか知れたものではない。せめて何事もなく終わってくれと、人気のない真夜中の路地で裏口を見張っていたアヒムの祈りは ―― しかし叶わなかった。
建物の中から急に叫び声が聞こえ、消えていた明かりが次々と灯る。そうしてしばらく争う気配がしたのち、侵入していた仲間達が飛び出してきた。
失敗を悟って逃げ出そうとしたアヒムは、しかし仲間の一人に手荒く突き飛ばされた。そのはずみに転んで強く頭を打ち、そのまま昏倒してしまったのだ。
そうして路上で目を覚ました時には、黄色い目を細くすがめた、小柄ながらも体格のいい男 ―― ゴウマがこちらを覗き込んでいて。
その晩、たまたま泊まり込みで荷物の到着を待っていた彼は、力自慢の人夫連中を率いて、侵入者を撃退したらしい。そうして一人だけ逃げ遅れたアヒムを、さてどう料理してくれようかと揺さぶり起こしたのだと言う。
その場で即座に土下座したのは、完全に身に染み付いた動作だった。
地面へと額を打ち付け、ごめんなさい、すみませんと大声で繰り返す。
ややあって後頭部に降ってきたのは、汚れた靴底でも固められた拳でもなく。
多分に呆れの色を含んだ、大きなため息で ――
謝る良心が残ってんなら、まだなんとかなんだろ、と。
ゴウマが手配してくれた最初の荷運び仕事は、残念ながら続けることができなかった。努力はしたのだが、どうしても身体がついていかなかったのだ。
しかし態度は真面目だからと、次は今の工務店へと紹介がもらえた。それからはもう、六七年が過ぎただろうか。未だに仕事の覚えはいまいちで、力も体力も少なく、下っ端扱いに代わりはない。それでも職場の居心地はけして悪くなかった。むしろいつの間にか、毎日をそれなりに楽しいと思えるようになっていた。
贅沢など無縁な自分には充分すぎるほどの給料をもらい、けっこうなレベルの部屋に住んで、【Katze】で美味い飯を食べることさえできている。
未だに読み書きと計算が怪しく、時おり仕事で失敗してしまうたび、どうして昔の自分はちゃんと勉強しなかったのかと、悔やむことはあったけれど。
更生し真面目に働くようになったからと言って、あの頃にやったことが全て許されるとは思っていないけれど。
―― けれど、
―― だから、こそ。
絶対に戻ってはいけない、踏み越えてはならない一線があることを、アヒムは知っているのだ。
あの日、ゴウマが差し出してくれたその手を。そしていまこの腕の中にいる人間女性が、【Katze】の常連達へと時おり向ける、拙いと呼べるほどにたどたどしい、その気遣いを。
―― 裏切るなんて、できるはずがない。
たとえ、腕っぷしなど皆無の自分であっても。
結果的に、守り切ることなど不可能なのだとしても。
それでも、自分の保身なんかを理由にして、このどこまでも優しくて不器用な家主へ、形だけでも暴力を振るうだなんて、
―― そんなの、それこそ最低に格好悪いじゃないか!
全身を幾度も殴られ、蹴られ、薄れゆく意識の中で。
アヒムはただひたすら、己の下にある柔らかい身体を少しでも覆い隠すことだけ、考え続けていたのである……




