第二章 それぞれの選択
大きなトンネル状の機材が設置されている部屋で、看護師のクラレンスはシルバーへと検査用の病衣を差し出していた。
大人が横たわった状態ですっぽり収まるほどのその機材は、三六〇度全方向から対象全体のさまざまなデータを収集し、記録・分析することができる便利なものである。一般居住区の病院にあるような最新型には遠く及ばず、計測に時間がかかるし事前の絶食や薬剤投与を必要とするのも難点ではあったが、贅沢など言っていられない。むしろこのキメラ居住区でよくぞこれだけの設備を整えたものだと、レンはフェイを心の底から尊敬していた。
「基本的に下着はつけたままで大丈夫ですが、金属のたぐいはすべて外してくださいね。小さな留め具でも駄目ですから、気をつけて下さい」
注意事項を告げ、傍らの卓に置かれた籠とトレイを指し示す。
素直にうなずいたシルバーは、まず杖を卓へ立てかけると、ポケットに入れていた携帯端末もトレイに乗せた。だいぶ気温が落ち着いてきたためか、今日は長い髪を下ろしたままで、あの簪は使用していない。順に服を脱いで籠に入れ、病衣へと着替えてゆく。その仕草は手早いながらも、どこか無造作で。なんだか妙に彼女らしいと、微笑ましく思ってしまう。
と、最後に思い出したかのように、シルバーは動きを止め己の手を見下ろした。
そうして右手の中指にはめたままだった、指輪を引き抜く。
小さな音と共に携帯端末の隣に並べられたそれを、レンは意外な思いでもって眺めた。
彼女が装飾品を身につけているところなど、リュウから贈られた簪以外にはほとんど覚えがなかった。洒落っ気がないと言うか、女性らしさに欠ける部分がある彼女は、他人に不快感を与えないためという理由以外で装うということに、ほとんど興味を持っていないらしいのだ。
いつも崩すことなく着用しているパンツスーツでさえ、購入時にすべてがセットになっていて、いちいち場や組み合わせを考えずとも身なりが整えられるという、それだけの理由で選んでいるというのだから、筋金入りである。
そんな彼女が、珍しくつけていたアクセサリーである。興味を惹かれないほうが無理だろう。
デザインとしては、男物に近いか。幅広で肉厚な銀の台座に、四角くカットされた漆黒の石が嵌め込まれている。彫り込みや脇石、爪さえも一切ない、ごくごくシンプルなその形状は、いわゆる印台指輪と呼ばれるタイプだ。
女性の手には少々無骨にも見えたが、逆にその色合いや素っ気なさが、シルバーのまとう雰囲気にしっくり溶け込んでいるとも思える。事実これまでまったくその存在に気づいていなかったのだから、逆の意味で似合っていると言えるのかもしれない。
「珍しいですね。指輪なんて」
もしかしてこれも、リュウからのプレゼントなのだろうか。
そんなことを思いつつ、それとなく水を向けてみる。
「……最近は仕事の関係で、他出することが増えたからな。まあ、お守りのようなものだ」
返ってきたのは、そんな答えだった。
よく判らないが、なにか思い入れのある品か、験担ぎのようなものだろうか。
内心で首を傾げながらも、仕事中に長々と引っ張るような話題ではないと思い直し、レンは検査の続きへと意識を戻す。
「では、こちらへ横になって下さい。造影剤を点滴しながら、ベッドごと動いて機械の中に入りますので ―― 」
§ § §
時間をかけた検査が終了し、再び元の服へと着替えたシルバーに、レンはトレイへ載せた白湯を差し出した。隣には、小さな焼き菓子を二つほど添えてある。
絶食を必要とする検査を受けた患者に対する、サービス……というよりも、フェイ曰くご褒美だ。面倒な検査でも、終われば甘いものが待っている。そうと知れば、少しは受けようという患者も増えるだろうというのが彼の言である。
実際これが、なかなか好評なのだから侮れない。
シルバーも特に断ろうとはせず、素直に白湯を傾け焼き菓子を摘んでいた。
その間に測定結果を診察室の端末へ転送したレンは、笑顔でシルバーを促す。
診察室で向かい合ってフェイが告げた所見は、貧血と運動不足の傾向はあるものの、それでも ―― その足以外には ―― 差し迫った問題なし、というものであった。
「だから必要ないと、言っただろう」
面倒そうに応じる彼女は、フェイの傍らにあるモニターへ目を向けている。しかしそこは抜かりなく、患者側からは内容が見えないよう、フィルターを設定してある。
ため息混じりに戻された漆黒の眼差しへと、フェイはにかっと笑ってみせた。
「まあまあ、そう言うなって。こういうのはこまめに継続するのが大事なんだからよ」
かなり強めに念を押してはみたものの、正直シルバーが検診にやってくる可能性はかなり低いと睨んでいた。それがこうやって渋々ながらも足を運んでくれたことは、単純に医師としても、そして彼女の主治医としても、実に喜ばしいことである。
―― こんなふうにして、少しずつでも『医者』というものに対する忌避感を、薄れさせていくことができたなら。
と。
内心でそんなことを画策しつつ、フェイは血液検査の結果など、見せても支障ない情報を印刷して差し出した。
たいていの患者は読まずに捨ててしまうそれだが、シルバーであれば内容を理解することも可能だろう。なんなら後でリュウの方へも、鉄分が豊富な食材のリストを渡そうか。
思いついたことでさらに気を良くして、フェイは椅子を立ちシルバーを診察室の戸口まで送った。
そうして次の患者を呼び込むべく、上半身を出して待合室の方へと顔を向ける。
と ――
何かが倒れるけたたましい音と悲鳴、そして複数の野太い罵声が廊下に響き渡った。
思わずちっと舌打ちを漏らす。
キメラ居住区内では治安の良いほうだとは言え、それでも所詮は五十歩百歩。まして怪我人が集中してやってくるのがこの場所だ。たとえここでは揉めごと禁止と謳われてはいても、気が立った血の気の多い輩が、勢い任せで喧嘩腰になることなど珍しくもない。
診察室を出てシルバーを追い越したフェイは、待合室に入るなり声を張り上げた。
「ここは病人がいるんだぞ! 騒ぐんじゃねえ!!」
よく通る一喝。いつもならそれで、揉め事はあっさりと収まる。
荒事を生業とする者ほど、この診療所の価値をよく知っているからだ。ドクターや、あるいは上役の不興を買うことを恐れ、すぐにおとなしくなるのが常であった。
しかし、
「あ?」
騒いでいた男の一人が、低い声をあげて振り返った。ポケットに両手を突っ込んだまま、睨めつけるようにフェイを見上げてくる。
「てめえ、ここの医者か? なにエラそうなこと言ってんだよ?」
偉そうではなく、事実この街では非常に強い影響力を持つフェイに対し、まったく萎縮する様子を見せず、威嚇までしてくる。
その向こうでは、別の男が待合室にいた患者の一人へと詰め寄っていた。腹を押さえて冷や汗を浮かべている中年男性の、胸ぐらを掴んで無理やり引きずり立たせている。気丈にもクラレンスが止めに入ろうとしているが、そんな彼女をけばけばしい化粧をした女が二人がかりで妨害していた。
「こいつには、前々から先約があんだよ。こんなところでのんびり座ってるぐらいなら、先にこっちを片付けてもらわねえと困るんだ」
男はそう言いざま、近くにあった椅子を蹴り上げる。派手な音を立てて壁に叩きつけられたそれに、他の患者たちが悲鳴を上げて縮こまった。逃げ出したいのはやまやまなようだが、あいにく出口の方にも彼らの仲間と思しき男が立ちふさがっている。
フェイは喉の奥で、低い唸り声をあげた。
「……てめえら、いったいどこの組織のモンだ」
怒りにくぐもった問いかけは、それでもまだ冷静さを残していた。
繰り返すが、キメラ居住区で唯一のこの診療所は、裏社会の者でさえ手を出さない中立地帯である。この程度の三下ごとき、上役に一言告げれば物理的に首を飛ばすことすら可能だ。その程度の地位ぐらい、とっくにフェイは確立しているのである。
それだというのに、フェイの言葉を聞いた男は、さもおかしそうに吹き出した。
追従して他の連中も、ゲラゲラと下品な笑い声をたてる。
「ダッセ! 今どき組とか、なに古くせえこと言ってんだよ!?」
「そーんな、誰かに守ってもらわなきゃ何もできない下っ端と、いっしょにしないでよねえ」
口紅を毒々しいほどに塗りたくった女が、馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに鼻を鳴らす。
「ってか、ワザワザそんな面倒なもんに入って、上前ハネられるとかアホらしいじゃん?」
「おれらはー、おれら! ソシキなんて、知りまっせーーん」
口々に声を上げ、舌や中指を突き出すその姿は、いかにも頭が悪そうだった。
どうやら裏組織にすら属することができない、チンピラの中でも一際程度の低い連中らしい。
その癖、自分達は長いものに巻かれない特別な存在なのだと、変な方向に自尊心を肥大させてもいるようだ。
道を踏み外したとは言え、彼らなりの秩序を保って存在している裏社会の構成員とは異なり、こういった輩は最低限の規律すら備えていない。会話さえもまともに成立しないため、非常に厄介な相手である。
既に自力での対処をあきらめたらしいレンは、受付内に戻って通信端末を起動させていた。伝手のあるそれなりの組織へ連絡を取り、荒事に強い人材を寄越してもらおうと考えたのだろう。それを横目で確認しながら、フェイは時間を稼ぐべく思案を巡らせる。
しかし無理やり立たされていた男性が、うめき声を上げて崩れ落ちたのを目にした瞬間、頭のどこかで何かが切れた。
「うちの患者に ―― 手ぇ出すんじゃねえ!」
近くにあったものを見もせずわし掴みにし、思い切りぶん投げる。
なみなみと水の入った大きな花瓶は、真っ直ぐに飛んで、狙い過たずチンピラの一人を直撃した。それを抱え込むようにしてひっくり返った仲間の姿に、他の連中が色めき立つ。
リーダーらしき男に、男性を立たせようとしていた一人、さらには出口を抑えていた男も加わって、フェイへと掴みかかってきた。
そのうちの一人は身体を開いてかわし、続く一人の腕を掴んで、ひねるように力を加える。突進してきた勢いを利用された男は、一回転して背中から床へ叩きつけられた。
最後のリーダー格へと向き直り、さてここは容赦なく急所狙いで……と考えた時だった。
目の前で起きた荒事に、恐怖の限界が来たのだろう。待合室にいた子供の一人が、怯えたように激しく泣き叫び始めた。
まだ五、六歳だろう幼い少女の声は、耳に突き刺さる甲高さを持っている。そばにいた母親らしき女性が懸命に黙らせようとしているが、こうなっては簡単に止められるものではなかった。
最初にかわされた男が、たたらを踏んでどうにか転ぶのを免れ、忌々しげに親子を睨みつける。
「っせえんだよ! 静かにしやがれ!!」
怒鳴りながら、二人まとめて蹴りつけようと片足を上げた。
と ――
その間へと、割り込む人物があった。
「……うるさいのは、お前達の方だ」
こんな状況でもなお、低く落ち着いた ―― しかしどこか威圧感すら帯びる、声。
椅子で抱き合う親子を庇うように立ちふさがったのは、長い黒髪に上質なパンツスーツをまとった女性だった。白目の割合が多いその眼差しを見て、男がぎょっと硬直する。
「に、人間ッ!?」
その言葉に、今度こそ室内が静まり返った。ただ子供の泣き声だけが、虚しく響き渡る。
さすがの男達も、こんな場所に人間種がいるとは思いもしなかったのだろう。
しかも見るからに整った身なりをしている。つまり護衛を連れている可能性が高い。
慌てたように周囲を見回した彼らは、しかしそれらしい存在がいないことにすぐ気付いたようだった。
「な、なんだよ。おどかしやがって……」
リーダー格の男が、うろたえたのを誤魔化すように、口火を切った。
それに力を得たのか、他の者達も次々と文句を言い始める。
「なんだってこんなとこに、人間が一人でいやがんだよ」
「またカンコーってやつ? マジでムカつくんだけど」
真っ赤な爪で髪をかきあげながら、女の一人が吐き捨てる。
年頃こそシルバーと同じぐらいであったが、その品性や醸し出す雰囲気は真逆と言っていい。
「それともジゼンジギョーとかいう、うざったいおめぐみとやら? ナニサマのつもりだか知んないけど、ふざけんなって話だよね」
「だよなぁ」
「『ゆーふく』で『おえらい』人間サマが、あわれなキメラに救いの手を~って?」
ガンッと男の一人が壁を蹴りつけた。
「っザケンじゃねえよ!! おい、男はもう良い。その人間連れてくぞ! どっちが強くてエライか、思い知らせてやらあ!!」
男の言葉に、次々と賛同の声が上がる。
「待て! お前ら、シルバーに手ェ出したら……ッ」
暴挙を阻止しようとしたフェイの言葉は、しかし強制的に途切れさせられた。
頭部に激しい衝撃を受けた彼は、こらえきれず床へと膝を落とす。頭を押さえながらもかろうじて振り返ると、先ほど投げつけた花瓶を両手に持った、もう一人の女が見下ろしてきていた。
「は、人間にしっぽふる裏切り者なんて、死んじゃえば?」
そのままもう一度高く花瓶を振り上げる。が、一瞬早く片手を伸ばし、かろうじてその足首を払うことができた。踵の高い不安定なヒールを履いていた女は、悲鳴を上げて尻餅をつく。その手から花瓶が落ち、度重なる手荒な扱いによって、真っ二つに割れた。
しかしそんなことをしている間にも、男の一人がシルバーの腕を力任せにねじ上げている。そうして拘束した細い身体を、乱暴に肩へ担ぎ上げた。
「おいっ、行くぞ!」
そう言って出口へと向かうリーダー格の男に、他の者達も足を引きずったり腹を押さえたりしながら、全員で続く。
「フェイ! 血が!!」
救急用セットを手に受付から飛び出してきたレンが、頭部の傷を診ようとしてくる。しかしそれを押しのけて、フェイはふらつきながらも立ち上がった。
頭皮は血管が集中している上に皮膚が薄いので、ちょっとした傷でも派手に出血することが多い。押さえた手のひらの感触からして、外傷がそこまでひどくないことは見当がついた。目眩があることから、脳震盪を起こしている可能性は高い。けして甘く見てはいけない、れっきとした機能障害だ。もちろん後で精密検査を行い、安静にする。
けれどそれは、あくまで後の話だ。
壁を支えにしながら可能な限りの速さで階段を降り、男達の後を追う。
だがようやくビルを出た彼が目にすることができたのは、走り去っていくワゴン車の後部だけであった。
それでもかすむ目を懸命に凝らし、かろうじてナンバープレートの文字を記憶する。
なんとかそこまでをやり遂げたところで、向かいのビルから飛び出してきた顔見知りの常連客が、悲鳴のような声で呼びかけてきたのだった ――
§ § §
「 ―― ってえ、訳だ」
診察室で、自ら額をタオルで押さえ、圧迫止血を行いながら。
フェイは代表でやってきた【Katze】の常連客数名とリュウに対し、事態を手早く説明した。
レンは待合室で、まだ落ち着かない患者達に付き添い、なだめたり飲み物を出して少しでも落ち着かせられるよう努めている。
結果的に、今回の件でもっとも重傷になったのがフェイなのだから、申し訳ないが緊急性のある患者が来ない限り、多少待ってもらっても責められることはないだろう。
何よりもまだ、手配りが終わりきっていない。
一通り語り終えた診察室は、しばし重い沈黙で満たされた。
やがて口を開いたのは、水牛種の獣人であるゴウマだ。
「……半グレって、やつだな」
彼は騒動の時点では店にいなかったが、路上で常連達が右往左往しているところへと来合わせ、シルバーとの親密度合いからこの場への同席をもぎ取ったのである。
「はんぐれ? なにそれ」
聞き慣れない単語に、スイが眉を寄せて聞き返す。
一見すると怒っているように見えるが、実際は今にも泣きそうになっているのをこらえているのだと、この場にいるほとんどの者が理解していた。
「半グレってのは、裏組織 ―― いわゆる『組』ってやつに所属してない、言ってみりゃフリーの不良……チンピラ共のことだ。半分グレてるとか、黒と白の間のグレーゾーンを狙ってやらかす連中だとか言われてるが……実際のところは悪にもまっとうにもなりきれねえ、中途半端なろくでなし共さ」
ゴウマは忌々しげに吐き捨てる。
「ちゃんとした……ってのも妙な言い方だが、裏とはいえ社会と名のつく場所には、それでもそれなりのルールがあるらしい。素人には理由なく手を出さねえとか、組同士での取り決めとかってやつがな。だが半グレの連中は、そういうのも全部無視して好き勝手にやりやがるから、場合によっちゃあ下手な構成員よりもタチが悪いんだとよ」
ゴウマの説明に、ただでさえ悪かったリュウの顔色が真っ青に変じ、座らされていたベッドから立ち上がろうとする。
「詳しいのね」
そんなリュウの機先を制するように、黒豹のルイーザが口を挟んだ。
彼女もまた【Katze】にはいなかったのだが、たまたま開けていた自室の窓から階下の騒ぎを耳にし、駆けつけてきたのである。
「ああ。昔、ちょいとな……」
言葉を濁すゴウマの横で、フェイが傷に当てていたタオルを外した。
新たな出血がないことを机に置いてある鏡で確認し、真っ赤に染まったタオルをトレイへ乱暴に投げ入れる。
「半グレだろうが構成員だろうが、んなこたこっちの知ったこっちゃねえ。問題はうちの診療所で好き勝手した挙げ句、患者に暴力振るって拉致りやがった連中がいるってえ話だ。こんな舐めた真似されて泣き寝入りしたとあっちゃあ、このまま開業し続けられるもんか」
この診療所が中立を保っていられるのは、フェイの持つ医療技術が希少であるという事実と同時に、彼が生半可な脅しや暴力には屈しないという、実績を積み上げてきたからでもあった。
無理を通そうという下っ端構成員の一人や二人は腕ずくで黙らせ、立場を傘に脅してくる幹部クラスには、別のルートから手を回して筋を通させる。そして治療代を踏み倒そうとしたり他の患者へ手を上げるような馬鹿者相手には、持てる手段すべてを駆使して、それなりの落とし前をつけさせてきたのだ。
それぐらいできなければ、このキメラ居住区で開業医などやっていけないのである。
喉の奥でぐるぐると唸り声を上げながら、フェイは赤褐色の目でリュウを見やった。
日頃、視線の鋭さをいくぶんなりと和らげている眼鏡は、殴られた弾みに壊れてしまっていた。遮るもののないきつい眼差しが、ぎらついた光を隠すことなく撒き散らしている。
「リュウ! お前は今すぐジグを叩き起こせ!! 事情を説明して、ヤツの勤務先でも何でもいいから、借りられる力は全部借りさせろ! 金は俺が出す!!」
ようやく行動の許可を ―― それも具体的な指示を与えられて、リュウは弾かれたように立ち上がった。まずはポケットを探って携帯端末を出そうとする。が、店のカウンターに放りっぱなしである事に気がついて、そのまま診察室を飛び出した。
その勢いからして、店には寄らずジグの部屋がある六階へ駆け上がるつもりなのだろう。それどころかマスターコードを使って、夜勤明けの寝室にまで飛び込みかねない。
だが、それも良いだろう。
いまこの場で、考えていることはみな同じなのだ。
携帯端末を使ってあちらこちらへと連絡を取り始めたフェイをよそに、ゴウマやルイーザ、スイといった常連達も、なにか自分達にできることはないかと額を突き合わせる。
とはいえこういった掛け値なしの荒事に対しては、まっとう ―― 比較的、との注釈はつくが ―― な堅気の一市民である彼らに、さほど思いつく手立てや頼れる伝手もない。
「……とりあえず俺は、集積場に行って、人夫連中に話を聞いてみるわ。若え頃にヤンチャしてた奴も、それなりにいたりするからよ」
最初に動いたのはゴウマであった。
スイよりもさらに小柄だが、腕力と体力に優れ、かつ面倒見の良い彼は、力自慢の集まる集積場でもそれなりの影響力を持っていた。駄目で元々、少しでもなにか情報が得られるかもしれないと、診察室を出ていく。
続いてルイーザも方針を定めたようだった。
「じゃあ、あたしは繁華街の方で情報を集めてみるわ。そういう奴らって、けっこうあの界隈をうろついてるもの」
「あ、アタシは……アタシは……っ」
懸命になってできることを探そうとするスイの肩へと、ルイーザがそっと優しく手を置く。
「あんたは、【Katze】の方をお願いするわ」
「え……」
予想外の言葉だったのだろう。きょとんとした顔で振り返ったスイの朱色の瞳に、みるみると光るものが盛り上がってゆく。
「アタシには、何もできないって、こと……?」
こらえていたものが、ついに限界を迎えたのだろう。くしゃりと顔を歪めてうつむいてしまった彼女へと、ルイーザは柔らかい口調で続ける。
「……違うわよ。リュウがあの調子じゃ、女将さん一人で回さなきゃいけなくなっちゃうじゃない。それに客だって、オーナーの無事が判るまで、できるだけ居座ろうとするだろうし。絶対手が足りなくなるわ」
あの場に居合わせた常連はもちろんのこと、後から訪れて事情を聞かされた者達も、シルバーと関わりを持っているのならそのほとんどが、彼女の無事を願い、ことの顛末を知りたがるだろう。その程度にはもう、あの人間女性は受け入れられているのだ。
「それに、あたしやゴウマが仕入れた情報は、随時【Katze】に送るから。それをまとめて、ドクターに伝える役目もお願いしたいわ」
あの調子じゃあ、端末に連絡しても、繋がるかどうか判らないもの、と。
立て続けに発信をしては、その合間に鳴る受信音がワンコール終わらないうちに応答しているドクターを目で示して、ルイーザは赤い唇をちょっと吊り上げてみせる。
「う、うん……判ったっ!」
スイはごしごしと両目を擦って、なんとか溢れ落ちそうだった涙を止めた。
そんな彼女へと、ルイーザはきれいなウインクを見せる。
「顔はきちんと洗っていくのよ? 涙ってのは、女のとっておきの武器。安売りしちゃ駄目なんだから」
ちょん、と。
赤くなったその鼻先を伸ばした指でつつく。
途端にスイの顔面が朱に染まった。無言で診察室を走り出た背中を見送り、ルイーザはすっと表情を消す。
「じゃあ、行ってくるわ」
平坦な声で残り少ない常連達に告げ、彼女も診察室を後にする。
他の者達もそれぞれに、自分ができることを探しては行動を開始していった。
ややあって、傷の治療を手伝おうとレンが診察室を訪れた頃には、もう通話を続けるドクター・フェイひとりだけが、そこに残されていたのである。




