覇者の孤独と、毒の結晶
あの一夜の凄惨な落城を越え、金川城の奥座敷は、まるで真空のようだった。
外の喧騒を遮断したその部屋で、直家は一人、磨き上げられた黒漆の机に向かっている。
あれから、いくつもの月日が流れたような気がする。
いや、実際には数日も経っていないのかもしれない。勝利という事実は、時間の感覚すらも狂わせるほどに重く、そして空虚なものだった。
私は、襖の向こうで気配を消し、彼の背中を見つめている。
沼城を手に入れた時と同じではない。備前の大半を掌握した今、直家の背中に纏わりつく「黒い影」は、もはや影というよりは、彼そのものを侵食する毒の結晶のように見えた。
「職家」
声は、相変わらず冷徹に響く。
しかし、その響きの中に、わずかな、本当に微かな「疲れ」のようなものが混じっている気がしたのは、私の気のせいだろうか。
「……ここから先は、戦ではない」
私は襖を開け、静かに歩み寄った。
直家は、筆を置いた。その手元には、毛利へ送る書状の写しがある。
松田の支配を完全に塗り潰し、毛利という巨大な龍の懐に、毒牙を潜り込ませるための緻密な根回し。
「……統治、にございますか」
「そうだ。……戦よりも、はるかに厄介なな」
直家はふっと視線を窓の外へ向けた。
そこには、彼が切り開いたはずの「新しい備前」の景色が広がっている。
しかし、彼の目には、領民の安らぎも、街の活気も映っていないようだった。
彼が見ているのは、常にその先に待ち受ける、次の「敵」と、次の「計算」だけだ。
「この地を収めた。次は、さらなる富と、さらなる権力を。……そうして、私はどこへ向かう?」
直家の問いは、私へのものではない。
彼自身の内部にある、決して満たされることのない穴に対する、空しい自問自答だった。
私は、彼の傍らに膝をつく。
この男は、勝つたびに何かを失っている。
感情を、友を、娘を、そして最後には人間としての心までもを、すべて勝利という名の祭壇に捧げてきた。
今の彼には、もう、捧げるべきものは何一つ残っていない。
「……直家様」
私は、彼の背中に手を伸ばそうとして、止めた。
その背中は、あまりにも冷え切っている。触れれば、私までもがその氷に閉ざされてしまうような気がしたからだ。
「地獄の果てまでお供すると、私は誓いました」
「……ああ、そうだったな」
直家は、初めて私の方を向いた。
その瞳には、何も映っていない。
勝利したはずの覇者の眼差しは、死者よりも静かで、荒野よりも乾いている。
「最後の仕上げだ、職家。……これ以上、誰を殺せば、私は『宇喜多直家』として完成する?」
その言葉は、悲鳴のようにも、あるいは自嘲の笑いのようにも聞こえた。
彼は、強くなりすぎた。
備前の誰よりも、そして己自身の良心よりも、強く、鋭く。
その結果、彼は誰にも理解されず、誰にも頼ることができず、ただ一人でこの玉座に座り続けている。
私は、立ち上がった。
もはや、言葉は無意味だ。
この男の傍らにいるということは、彼の背負う巨大な呪いを、ただ黙って見守り続けることなのだから。
窓の外、空が茜色に染まり始めている。
しかし、その光は、暖かさを運んでくることはない。
ただ、来るべき夜の静寂を告げる、血のような色をしているだけだ。
備前の地は、音もなく、着実に終焉へと向かって加速している。
もし面白かったと思っていただけましたら、下部の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマーク登録で応援していただけると、執筆の大きな励みになります!




