「夕闇の金川城包囲」
本陣を包む空気は、松明が吐き出す不快な煤煙でひどく濁っていた。
じりじりと油の爆ぜる音が、夜の静寂をかき乱す。冷たい夜風が山を駆け下りるたび、揺らぐ陣幕の隙間から、包囲された金川城が放つ煤けた焦げ臭い匂いが鼻腔を突いた。すでに城下は焼き払われ、残るは本丸のみ。だが、その最後の包囲網を前にして、我が主、宇喜多和泉守直家の陣営には、奇妙な静寂が立ち込めていた。
陣幕の足元を見れば、白茶けた枯れ尾花が冷気を受けて力なく揺れている。
草むらの奥では、秋の終わりを告げる名もなき虫が、弱々しく、しかし途切れ途切れに鳴き続けていた。明日の朝には霜に打たれて死に絶える運命の、取るに足らない命の羽音。この陣を取り囲む数千の足軽たちの命もまた、戦国の冷徹な風の前には、あの虫の羽音とさして変わりはしないのだ。
「直家様」
私は、その凍てつく背中に向けて静かに声をかけた。
馬場重介職家。世間は私を直家の忠実な影と呼ぶが、その本質はただの「共犯者」に過ぎない。この男が脳内で弾く、冷酷極まりない『生存の演算』の、ただの算盤の珠。それが私だった。
「秀安様よりの使者が、先ほど到着いたしました」
直家は答えない。床机に深く腰掛け、両手を膝の上で組んだまま、ただ闇の中に浮かび上がる金川城の輪郭を睨み据えている。その横顔は、彫刻のように微動だにしなかった。
使者が平伏し、震える声で懇願の言葉を紡ぐ。
「……秀安様よりのご伝言にございます。金川城内には、松田元賢に嫁がれた直家様のご長女、お姫様が取り残されております。突入を一時見合わせ、和議、あるいは姫君救出の使者を立てる猶予をいただきたい、と。秀安様は『実の娘を見殺しにするは、宇喜多の不義理を天下に晒すことになりかねぬ』と、そう強く訴えておられます」
嘆願は、本陣の闇に虚しく吸い込まれていった。
直家の眼差しには、怒りも、悲しみも、迷いすらも浮かんでいない。ただ、暗闇の中で瞳だけが不気味に、冷たく光っている。
「断る」
吐き出された声は、夜風よりも冷たかった。
「……しかし、直家様! お姫様はご自身の血を分けた――」
「時間がない」
使者の言葉を、直家は乾いた声で遮った。その指先が、膝の上でわずかに動く。
「毛利が備中を越えて、この備前に介入してくるまでに、我らに残された時間は長くて三日。金川城をこの一晩で落としきらねば、宇喜多は東西の敵に挟撃され、灰となる」
直家は私に視線を向けず、ただ金川城を睨んだまま続けた。その口調は、まるで商人が帳簿の数字を読み上げるかのように淡々としていた。
「一刻。いや、半刻でも遅れれば、毛利を阻止する時間式が狂う。その誤差の代償は、我が宇喜多の足軽三千の命だ。……姫一人の命と、三千の足軽の命。職家、どちらが重い」
私は、背筋に冷たい刃を押し当てられたような戦慄を覚えた。
直家の脳内では、実の娘の命さえも、生存という絶対の解を導き出すための、単なる「一」という変数に過ぎないのだ。三千という「数」の生存を守るためなら、彼は迷わず「一」の肉親を切り捨てる。それこそが、この男が背負う地獄の深さであり、同時に、弱小領主から這い上がるための唯一の演算方法だった。
「……直家様の仰せの通りにございます」
私はただ、静かに頭を垂れた。その冷徹な計算書に、私もまた署名する。
「秀安に伝えよ。全軍、突撃の準備を急がせろ。これより、金川城を屠る」
直家は立ち上がり、陣幕の隙間から吹き込む冷たい風に身を晒した。
不気味に沈黙する金川城を見つめるその横顔は、完全に凍てついていた。己の娘の死をあらかじめ織り込んだ、残酷な数式の完成を確信した、怪物の顔だった。
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