やはり色は変わります。皮膚障害とそれから父のこと。
さて、放射線治療は皮膚に炎症を起こします。
だんだんヒリヒリしたり、色が変わっていくわけなんですね。
ノンワイヤーの前あきブラを買った方がいいと、乳腺外科の女医さんに言われました。
診察の時も便利だし、普通のワイヤーブラだと締め付けて痛いからです。
はい。授乳経験がある方にはわかりますね。
ノンワイヤーで前開き。じゃ産後ブラでいいんじゃない?と。
もちろん、医療用のブラも病院の売店とかにはありますけど、ひとつは買いましたけど、お高いんです。
通販でマタニティ用品を探します。安い。生地柔らかい。
それに授乳の時ってサイズが安定しませんでしょ。張ったりするし。
左右の多少のサイズの違いも包み込んでくれました。
…それからやはり抵抗力が落ちているのか、歯が痛んだりしましたねー。
系列順に並べますと。
2022年2月22日 歯茎が腫れる。
(これから歯医者と放射線治療、二カ所に通う。九時に放射線、11時に歯医者みたいに。)
2月25日 照射された左胸全体が帰宅後赤くなる。
3月1日 少しずつ腫れぼったくなる。
3月13日 服に当たるところがチクチクする。
3月14日 左胸が熱を持つ。
それから、放射線治療をした方の胸はずっと熱を持っていました。
手でさわってみても左と胸の温度が違うのです。
それはずっと、2025年まで続きました。
多分?照射の影響かそちらのムダ毛が生えてこないし、毛根や汗腺に影響があった?のか、熱が籠るようになったワケです。
夏なんか体温が逃げていかなくて辛かったですね。
肌の張りも違ってきました。少しシワっぽいというか。
カサカサというか。保湿剤塗ってるんですけどね。
やはりねえ、ダメージがねえ。
2025年も先生に、
「あー、治療の影響でこっちの胸、まだ浮腫んでますね。」
と言われたものです。自分じゃわかりませんけどね。
放射線治療は3月22日までですが、最後の放射線医師による診察は、3月17日でした。
3月17日 リンデロンと保湿剤出る。と記載あり。
最後には色々なアドバイスをいただきました。
その前にアンケートもあるワケです。
つまり、メンタルが弱っていればカウンセリングが受けられたのですね。
そっちは特に問題が無かったので、何も相談しませんでした。
すると、
「あのネ。貴女はステージⅡBなんですよ。決して初期では無いんですからねっ。何か相談しないんですか?」
と放射線のお医者様に言われました。
ええ…なんか平気ですみません?
ご飯も食べるし、泣き暮らしても、絶望してもいないんですが。
夜もちゃんと眠れますが、何か??
いや、そりゃ皮膚が火傷してるようなもんですから、うっとうしいですよ。痛いですよ。
くっきりと色が変わってます。ここからここまで当てたんだとはっきりわかりますよ。
(何となくブラッ○ジャックの顔を思い出しました。)
うーん。みんなカウンセリングを受けるのかしら。
(しかし初期じゃ無いって念を押さなくても。)
…そうですね。
きっと心にカバーが何枚か掛かっているのでしょう。それで動じなかったのでしょう。
この件の何年か前に父が亡くなった時、ちょっと心にオブラートをかけまくったので…それが影響してるのかもしれませんね。
父はその四年程前に亡くなりました。
色々ありましたが(心臓の持病や大動脈乖離や、首の骨を折ったことや)最後は肺がん(疑い)でした。
父はベビースモーカーだったから、不思議はないです。
もう弱っていたので肺の細胞診が出来なかったのでした。
あれはとてもツラいそうなんです。
だから確定はしてないけど、CTとかの画像とかではそうだろうと。
「なあ、俺は肺炎なんだろ?二週間で帰れるんだろ。」
入院したとき、父は余裕を持っていました。
「うん、そうね。そうかもね…」
その時は私達子供には告知はされました。
2018年の1月に入院し、3月に亡くなりました。
本人には告知はされませんでした。
でもだんだんと弱ってきました。
私は九州と関東を行ったり来たりしました。
ウチの子供はもう大きかったし、その時私は働いていなかったしで、誰もいない実家に泊まりこんで病院に通ったのです。
最初の頃は本が読みたい、というリクエストを受けて買いに行ったりもしました。
それからすぐ。
「多分、持って…ゴールデンウィークぐらいまでか、と。」
廊下で主治医が私を呼び止めました。
「(父に)会いたい人、合わせたい人がいれば今のうちに。」
―――こんなドラマみたいなセリフを聞くことがあるとは思いませんでした。
そしてその十分後には平気な顔で父の前に立っていたのです。
「先生の話はなんだったかい。来週退院って言ってたんじゃないか?」
父はニコニコしています。
「あ、なんかね。白血球がものすごく増えてるから。まだダメだって。」
「そうかい。」
ガッカリする父。
「熱もあるしな、感染症かな。」
その頃、異常なくらい白血球が増えていました。
「薬を変えるらしいよ。」
そのうち痛みを取る薬を、貼り薬を考えますとの事でした。
「俺はな、体温が高いからな。がんにはならないと思う。」
「…そうね。」
平気な顔をして父の追求をかわす。きっともう心が麻痺してしまっていたのでしょう。
それからどんどん悪くなって行く父。
関東の自宅に帰る。妹から連絡がある。
また、行く。
父の弟妹に見舞いに来てもらうように妹が手配しました。
(結果的にこれが弟妹との最後のお別れになりました。
…ゴールデンウィークまで持つって言ったじゃん。嘘つき。)
私は看護師さんたちが研修するところで、事務補助のバイトをやった事もあります。
資料をまとめたり、印刷したり。
そこでも門前の小僧になっていました。
ヒポクラテス顔貌という言葉を覚えました。
……父がそれに近づいてくる。
毎日行く。手をマッサージする。水を飲みたがらなくなる。だけど私が勧めると飲むから。
最初は「もう、関東に帰っていい。」
と言っていたのに、それを言わなくなった。
「自宅に帰らなくていいの。」
「一月に帰ったからな。もうそれでいい。
身体が痛くて、起き上がれん。」
一月の土日に一時帰宅をしました。ウナギ屋の鰻を買って妹が持ってきてくれました。
それを美味しそうに食べていた父。食が細くなっていたのに。
良かった、食べられて。
「CTの検査がしたいんですが。」
お医者様の言葉に、
「立ち上がるのもきつい。無理。」
となったのです。
主治医はここの院長先生でした。
「かなり骨や内臓に転移してるのでしょう。ものすごく辛いはずですよ。」
可哀想に。
「もう検査はやめましょうね。」
となりました。
「海街ダイアリー」という漫画に、
「死んで行く人に向き合うのは、とてもエネルギーがいる事なのよ。」
というセリフがあります。
本当にその通りでした。
だんだんと息苦しくなっていく父。
「どうして安楽死が、できないんだ。殺してくれ。」
そういうのを毎日聞くわけです。
最後の方はたまにチラリと目を開けて、私がいるのを見て安心していました。
……あの頃は胃がやられてウドンばっかり食べてましたね。
子供達に看取られて亡くなった父はそれでも幸せだったと思います。
それから、放射線治療でも胃にきましたね。
3月19日 逆流性食道炎。ガスター10を飲む。
と、日記に記載がありました。




