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第1話:追放と絶望〜命を削った奇跡を自力と勘違いした勇者〜

第1話:追放と絶望〜命を削った奇跡を自力と勘違いした勇者〜


奈落の迷宮と呼ばれるその場所は、文字通り世界で最も深い絶望を煮詰めたような空間だった。

空気がひどく粘り気を持ち、呼吸をするだけで肺が焼けるような濃密な瘴気が満ちている。光すらも這うようにしか進めない深い暗闇の底で、甲高い剣戟の音と、重低音を響かせる魔法の炸裂音が耳障りに響き渡っていた。

人類未踏の最高難易度ダンジョン、その最深部に広がる巨大な空洞。

俺たち勇者パーティは、世界を脅かすと言われる災厄の魔竜と、すでに数時間にも及ぶ死闘を繰り広げていた。


「ハァッ! 食らえ、俺の神に選ばれし剣撃を!」


金髪を乱暴に振り乱しながら先陣を切る男、勇者ザイード。煌びやかな白銀の鎧を身に纏う彼は、常軌を逸した無謀な動きで巨大な魔竜の正面へと飛び込み、その巨体に向かって大剣を力任せに振り下ろした。

誰の目から見ても、その一撃は完全にタイミングを誤っていた。重心は高く浮き上がり、足元はぬかるんだ魔物の血で滑りかけている。本来であれば、硬い竜の鱗に弾かれてバランスを崩し、手痛い反撃を受けるだけの愚かな特攻だ。

しかし、現実は違った。

硬い竜の鱗に弾かれるかと思われたその一撃は、なぜか『たまたま』過去の戦いで鱗が欠けていた僅かな隙間に吸い込まれ、そのまま深々と肉に食い込んで致命的なダメージを与えたのだ。

魔竜が苦痛と怒りの咆哮を上げ、反撃として超高熱の火炎ブレスを放つ。それは完全にザイードの退路を塞ぎ、回避不可能な直撃コースを描いていた。普通なら一瞬で消し炭になる必殺の一撃だ。

しかし。


「あら、危ない。でも私の魔法があるから大丈夫よ」


後方から透き通るような声が響く。俺の幼馴染であり、パーティの聖女であるリリアだ。

彼女が杖を掲げて唱えた防壁魔法は、魔力の練り上げも詠唱のタイミングも三流以下だった。本来なら防ぎきれないはずの薄っぺらな光の壁。だが、その魔法が発動した瞬間、『たまたま』地下水脈の岩盤が限界を迎えて崩壊し、凄まじい勢いで熱水と蒸気が噴出した。

魔竜の火炎ブレスは蒸気爆発と相殺され、奇跡的に無傷でザイードを守り抜いた。

それどころか、爆発の余波で飛び散った鋭利な岩の破片が、魔竜の巨大な目玉に『偶然』突き刺さり、ボスの動きを大きく鈍らせたのだ。


「流石は俺の運命の女、リリアだ! 俺の天才的な勘と、お前の魔法があれば、どんな敵も赤子同然だな!」

「ふふっ、ザイードったら。でも、本当にあなたの運は神がかっているわね。剣を振れば必ず急所に当たるんだもの」


死闘の最中だというのに、二人は緊張感の欠片もなく、余裕の笑みを浮かべて見つめ合っている。

その光景をパーティの最後尾から見つめながら、俺、アレスは喉の奥から込み上げる赤黒い血を、必死に飲み込んでいた。


「……ッ、が、ぁ……」


心臓が鋭い刃物で何度もえぐられているような激痛。視界は赤く明滅し、立っているだけで全身の骨が悲鳴を上げて軋む。手足の感覚はとうに消え失せ、自分の体が自分のものではないような錯覚に陥っていた。

職業『観測者』。

それが俺に与えられた役割だった。戦闘では剣を振るうこともなく、派手な攻撃魔法を放つこともない。ただ戦場の一番後ろに立ち、状況を『観測』するだけの地味で最弱のハズレ職だと、世間ではそう思われている。

だが、事実は違う。

俺は秘密裏に、天界に座す【幸運の女神】と命の共有契約を結んでいた。

俺の真のスキルは『因果律固定』。味方に起こるはずのない奇跡を、己の寿命と引き換えに『発生率100%』に固定する力だ。

ザイードの剣が偶然急所に当たったのも、魔竜のブレスが偶然防がれたのも、破片が偶然ボスの目に刺さったのも。

そのすべては、ザイードの才能でも、リリアの魔法の実力でもない。

俺が自らの寿命をゴリゴリと削り落とし、世界の因果律を捻じ曲げて強引に引き起こした『確定された奇跡』だったのだ。


(あと、少しだ……。この魔竜を倒せば、人類は救われる。俺の命がどれだけ縮もうと、みんなが笑って帰れるなら……)


薄れゆく意識を必死に繋ぎ止め、俺は因果律固定のスキルを全力で維持し続けた。

ザイードがどれだけ無謀な突撃をしようが、リリアの魔法の詠唱がどれだけ遅れようが、俺が背後で全てを調整して帳尻を合わせる。彼らが死なないように、彼らの攻撃が必ず当たるように、俺は自分の血肉を代償にして世界を書き換えていた。

指先からボタボタと血が滴り落ちる。視界が急速に狭まり、耳鳴りが世界中の音を奪っていく。

幼い頃、リリアと交わした約束がある。

夕暮れの丘の上で、小さな手を握り合いながら「大きくなったら、一緒に世界を平和にしようね」と笑い合ったあの日の記憶。

その約束を守るために俺は、どんなに裏方で馬鹿にされようとも、どんなに命を削ろうとも、このパーティを支えてきたのだ。


「おおおおおッ! これで終わりだ、魔竜!」


ザイードの大上段からの唐竹割りが、魔竜の眉間に深々と突き刺さる。

『奇跡的』に装甲が最も薄くなっていた部分に直撃したその一撃は、ボスの巨体を大きく揺らした。

断末魔の叫びと共に、魔竜の身体が徐々に光の粒子となって崩壊し始める。

終わった。

ようやく、終わったのだ。

俺は安堵の息を吐き、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。全身から冷や汗が吹き出し、息をするたびに肺から酷い鉄の匂いがする。寿命を削りすぎた反動で、鏡を見なくても自分の髪の一部が白く変色しているのがわかった。


「やった……。ザイード、リリア、倒したぞ……!」


擦れ枯れた声で二人に歩み寄ろうとした、その時だった。


「……チッ。本当に目障りな野郎だ」


俺に向かって放たれたのは、労いの言葉でも、勝利の歓喜を分かち合う言葉でもなかった。

ザイードのひどく冷たく、心の底から見下すような声だった。

俺が驚いて足を止めると、ザイードは血振るいをした大剣を肩に担ぎ、鼻で笑いながら俺の方へと歩み寄ってきた。その後ろからは、リリアがザイードの腕に絡みつくようにしてついてくる。


「え……? ザイード、今、なんて……」

「耳まで遠くなったのか? この無能が。お前みたいな何もしないただの給料泥棒の顔を見ていると、俺の天才的な気分が台無しになるって言ったんだよ」


ザイードの言葉の意味が理解できず、俺は呆然と立ち尽くした。

何もしない? 給料泥棒?

俺がどれだけ命を削って、お前たちのその『奇跡』を演出してきたと思っているんだ。お前が生きているのは、俺が何十回も死の運命を捻じ曲げてやったからだぞ。


「ちょっと待ってくれ。俺は観測者として、お前たちの戦闘をずっとサポートして……」

「観測ぅ? ハッ、笑わせんな!」


ザイードが俺の腹に強烈な蹴りを叩き込んだ。

「ぐはッ……!」

不意打ちを食らった俺は、無防備なまま硬い石畳の上を転がった。削り取られた寿命の反動で弱り切った体には、ただの蹴りすら致命傷に近いダメージを与えてくる。

口から鮮血を吐き出し、うずくまる俺を見下ろしながら、ザイードは狂ったような嘲笑を浮かべた。


「突っ立って見てるだけのゴミが、いっちょ前にパーティメンバー面してんじゃねえよ! 俺の剣が常に敵の急所を穿つのは、俺が神に選ばれた天才だからだ! リリアの魔法が完璧なのは、彼女の底知れぬ才能だ! お前が一番安全な後ろでオドオドしてる間、俺たちは常に命懸けで戦ってんだよ!」

「ち、違う……。俺のスキルがなければ、お前たちはとっくに最初のスライムにすら殺されていたはずだ……!」

「見苦しい言い訳はやめて、アレス」


俺の言葉を冷たく遮ったのは、他でもないリリアだった。

幼馴染であり、誰よりも信頼していたはずの彼女は、まるで汚物を道端で見つけたかのような、ひどく冷酷な目で俺を見下ろしていた。その眼差しには、かつての優しさなど微塵も残っていない。


「リリア……? お前まで、何を言ってるんだ……? 俺たちは、小さい頃に約束したじゃないか。一緒に平和な世界を作るって……」

「過去の子供の遊びをいつまでも引っ張り出さないで。今の私は、選ばれし勇者ザイード様のパートナーなのよ。戦場ではただの案山子で、ろくに剣も振れないあなたなんて、ただの足手まとい。ハッキリ言って、あなたの存在自体が私の輝かしい経歴の汚点なの。同郷だからって情けをかけて同行させてあげたのに、本当に図々しい男ね」


リリアはそう言うと、ザイードの頬にそっとキスをした。

ザイードも満足げに彼女の腰を強く抱き寄せる。二人のその露骨な態度に、俺の頭の中は真っ白になった。

いつからだ。いつから二人はそんな関係になっていた。

俺が毎晩、スキルの反動で血を吐いて苦しんでいる裏で、こいつらは俺を嘲笑いながら愛し合っていたというのか。俺の命を吸い上げて手に入れた栄光を、自分たちの愛のスパイスにしていたというのか。


「お前はもう用済みだ、アレス。魔竜を倒して世界を救ったという最高の名誉と莫大な報酬は、俺とリリアの二人だけで独占させてもらう。お前みたいな無能に分ける金は一銭もない」

「ふざけるなッ! 俺がどれだけ……俺がどれだけお前たちのために……ッ!」


必死に立ち上がろうとした俺の顔面を、ザイードの分厚い鋼のブーツが容赦なく踏みつけた。

鼻骨が砕ける嫌な音が響き、視界が激しい痛みに染まる。血が喉に詰まり、呼吸がまともにできない。


「黙ってろ無能。お前には最後の仕事を与えてやるよ。このダンジョンから無事に俺たちが帰還するための『囮』という大役をな」


ザイードが顎で指し示した先を見て、俺は背筋を凍らせた。

魔竜が崩壊した跡地から、地鳴りのような音が響き始めている。ボスの死によってダンジョンの制御が崩れ、壁の至る所から無数の『魔竜の眷属』と呼ばれる凶悪な魔物たちが溢れ出してきたのだ。

赤黒い肌をしたオーガ、鋭い牙を持つ魔狼、酸を滴らせるスライム。その数は数十、いや数百に及ぶ。いくら勇者パーティといえど、疲弊した状態でまともに相手をすれば無事では済まない大群だ。


「おい、嘘だろ……。待て、ザイード、リリア! 見捨てる気か!」

「安心して死ねよ、アレス。お前の分まで、俺たちが英雄として世界中で持て囃されてやるからさ! 感謝しろよ、お前の無駄な人生にも、最期に俺たちの役に立つという最高の意味が生まれたんだからな!」

「さようなら、アレス。来世では少しは役に立つ人間に生まれ変われるといいわね。せいぜい、私たちの逃げる時間を稼ぐために、長く苦しんで死んでちょうだい」


ザイードが俺の胸ぐらを掴み、軽々と持ち上げた。

そして、無数の魔物が蠢く奈落の底へと向かって、俺の体を思い切り放り投げた。


「やめろおおおおおおおおッ!!」


虚空に放り出された俺の体は、重力に従ってまっさかさまに暗闇へと落ちていく。

遠ざかる視界の先では、俺を犠牲にして転移魔法の準備を始めるザイードとリリアの姿があった。二人は俺の絶叫を聞きながら、最後まで醜く嘲笑い、そして転移の光と共に姿を消した。


(ああ……俺は、なんて馬鹿だったんだ……)


風を切る音と、下から迫り来る無数の魔物たちの咆哮が耳を劈く。

俺はあんなクズ共のために、自分の命を削っていたのか。

俺が寿命を削って引き起こした『奇跡』を、あいつらは自分の実力だと勘違いして増長し、挙句の果てに俺をゴミのように切り捨てた。

自分が安全圏にいるからと偉そうに語る勇者と、自分の才能だと信じ込んで疑わない聖女。あいつらは、俺の血の滲むような努力と犠牲の上に胡座をかいていただけの、どうしようもない寄生虫だったのだ。


怒りと後悔が、マグマのように胸の奥底で煮え滾る。

裏切られた悲しみなど、もう一ミリも残っていない。あるのは、ただひたすらなどす黒い憎悪だけだ。


(許さない。絶対に、許さない……!! 俺の命を、思いを踏みにじったあいつらを……!)


鋭い牙を持った魔物の一群が、獲物を見つけたとばかりに俺に向かって跳躍してくる。

空中で身動きの取れない俺は、ただ死を待つしかなかった。

しかし、意識が完全に闇に飲まれる直前。俺の中で、一つの『繋がり』がプツリと切れる音がした。


『因果律固定の対象から、ザイード、リリアを除外します。対象への確率操作を終了しました』


脳内に響いたその無機質なシステム音声は、俺が彼らに与え続けていたバフが完全に消滅したことを意味していた。

俺を見捨てて逃げようとしているあの二人は、まだ気づいていない。

自分たちの剣が絶対に折れなかった理由を。

自分たちの魔法が絶対に失敗しなかった理由を。

これからの彼らの運命は、残酷なほど正確な『確率通り』に収束する。百回振ればいつかは折れる剣。詠唱を焦れば必ず暴発する魔法。罠を踏めば必ず発動するトラップ。

神に選ばれた天才だと勘違いしているあいつらが、一切の奇跡が起きなくなった現実の世界でどうなるか。


(せいぜい、泣き叫んで絶望しろ。俺はお前たちに、もう二度と奇跡なんて起こしてやらない。泥水にまみれて這いつくばり、己の無能さを呪いながら地獄へ落ちろ……!)


無数の魔物の牙が俺の肉体に食い込もうとしたその瞬間、俺の視界は、今まで見たこともないほど圧倒的で、神々しい金色の光に包み込まれたのだった。

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