第一章・俺を呼ぶ声 -1
「スサノオ、スサノオ……」
なんだか遠くから、俺を呼ぶ声がする。
そっちに行かなくちゃと思うけど、身体が思うように動かない。
だいたい、そっちって、どっち?
「スサノオ──、スサノオーオ──オ……」
闇の中から聞こえてくる声は、妙な具合に反響して、方向が定まらない。
行くから……今、行くから。待ってて。待って……。
でも身体が動かない。俺の視力を奪っている完璧な闇は、まるで物質的な重さを持っているように俺の身体も包み込んで、柔らかく、でも断固としてその動きを封じていて、指も動かせず声も出ない。
「その闇はお前の心の中にある迷いに他ならない。考えてもしょうもないときもある。まず動くことだ。襲ってくるからやっつける、怖いから攻撃する、でいいんだがのー」
闇を切り裂くように鮮明な言葉が届く。
親父!? 俺を呼んでいるのは親父? どこにいるんだよっ!
「スサノオー……」
また、不鮮明な呼び声に変わる。親父の声のような気もするし、違うような気もする。声の主の元へたどり着ければわかるはず。でも、身体はあいかわらず動かない。
行かなくちゃ。今、行くから……。
「スサノオ────オ───オ………」
「わーったよっっ 今行くっつってんだろっ!! ちょっと待ってろ、うっせー……」
やっと声が出たと思ったら、自分の叫び声に驚いて目が覚めた。
……夢かよ。
夢オチとは芸がないぜ。誰だか知んないけどさ。おかげで寝起き最悪。汗びっしょり。
あ── 気持ち悪。
枕元のスマホを見ると、まだ九時だ。
くっそ───。今日は昼まで寝てやろうと思ってたのに。
二度寝しようと目をつぶっても、もう寝られねー。
だいたいさー、この部屋は陽当たりよすぎ。そんでもって、カーテン薄すぎっ。
七月も半ばの太陽は、早くも室温を真夏日並みにまで上昇させようとしている。
ぐも──。
そして、この古い家にクーラーなんて小洒落たものは、ひとっつもないっ! 求む、文明の利器。
あきらめた俺は、渋々ベッドから身体を引き剥がすと、着替えを持って部屋を出た。陽の当たらない廊下は、室内と違ってひんやりした空気に満ちている。
階段をおりると一階はさらにひんやり。うちにクーラーを導入しようという話がいつも立ち消えになるのは、この「ひんやり」のせいだ。
天井の高い古い家の特権だけど、やたらとでかい和洋折衷のこの家を、近所のガキどもは「幽霊屋敷」と呼んでるのを俺は知っている。…てか、俺の同級生たちも言ってたし、おふくろの同級生も言ってたに違いない。
そう、この家は母親の実家。親父は入婿ってやつです。
高い室温と悪夢のダブルパンチでイヤーな汗まみれの俺は、幽霊屋敷の「ひんやり」に急速に体温を吸い取られて、でかいくしゃみをした。
「あらスサノオ。今朝は寝坊するんじゃなかったのかしら~」
俺のくしゃみを聞きつけて、奥のリビングからおふくろが顔を出す。
ああ、今日もオカアサンのまわりは真っ白だー。
「目、覚めちゃって。シャワー使っていい?」
「いいわよー」
「あ、あのさ。お母さん、さっき俺のこと、呼んだ?」
ふと思いついて聞いてみる。さっきの悪夢は、階下からおふくろが「スサノオー」と呼んだ声が、もしや夢の中に入り込んできたせいじゃないかと思ったんだけどね。
「呼びませんよお。だって、スサノオったらゆうべ『寝坊するー朝めしパスー』なんて、かわいくなーく答えてたじゃないのー。ほんと、男の子っていやーね。大きくなると口をきかなくなるって、本当だったんだわー。小さいころはかわいかったのにー。あんまりお母さんに冷たくすると、許さなくってよ」
あーはいはい。「許さなくってよ」ったって、どうするおつもりですか? もう俺はお母さんより、二十センチも背が高くなっちゃったんですけどー。
「う────」
熱いシャワーを頭から浴びると、自動的に口から声が出た。う───。
しばらくそのままで、眠気をお湯とともに排水口に流してから、がしがし頭を洗う。
家は古いけど、この風呂場とキッチンは、十年前まだ親父がいたころに、最新の設備に作りかえてある。
ありがとうありがとう、オトウサン!
そうでなかったら、あのお嬢様育ちのおふくろのことだ。おふくろが生まれる前に取り付けたという、古ーい給湯設備のまま今も使い続けていたに違いない。なんせ、よその家のことも世間のこともほとんど知らない箱入り娘が、そのまま奥様になった人なんだから。
ボタンひとつで自動的にお風呂が沸き、キッチンの蛇口からお湯が出るのを見たときの、おふくろの顔ったらなかった。
「すごいわすごいわー便利ねええ。お湯が出るのよー。ほらほらピッピッピーって、温度の調節もできるんですのよ──」
これが十年前。
このころ、よく遊びに行ってた友達の家では、当然蛇口からお湯は出てたし、温度調節のできるシャワーも当たり前だった。
オカアサン、アナタハイッタイ、イツノジダイノ、ヒトデスカ?
やっぱ、少なくとも親父が帰ってくるまでは、俺がしっかりしないと。あのおふくろひとりじゃ、どうなるかわかったもんじゃないだろ。
ボク、がんばるよ。
眠気や汗と一緒にやさぐれた気持ちも洗い流して、さっぱりした好青年のアイデンティティを取り戻したえらい俺は、「昨日は少し飲んでたし、疲れてたから、ごめんね」とおふくろに素直に謝り、なおかつ自分でコーヒーを煎れて飲んだ。
もちろん、おふくろの分も煎れてあげた。
「スサノオが煎れてくれたコーヒーは、おいしいわー」
親孝行だいじ。
今日の午前中の講義はサボる気満々だったのだけど、早起き(なんだよっ! 学生にとっては! 九時でもっ)してしまったので、三限目からは出ることにした。
コーヒーが残っているうちに、四枚切りの分厚いトーストにバターをべたべたに塗って食べた。
おふくろは朝ご飯を作ってはくれなかった。
「だあってー、スサノオったら『朝飯パスー』って言ったじゃないのー」
自分の分のゆで卵を食べながら。
ほらね。身のまわり半径五メートル真っ白なおふくろだって、これくらいの意地悪をして嫌味も言う。人の黒い気持ちなんて、最初はこんな小さなもんなんだ。これが普通ならそこらの邪悪な気配をほんの少し呼んでしまう。そういうもんなんだけど。
オカアサンは、真っ白。なにをしても、真っ白。う────ん。
「今日も遅くなるの?」
「んー。晩ご飯には帰るつもりだけど」
玄関で靴を履く俺の背中に母の心細げな声が降りかかる。
ああ……、これが恋人の言葉だったら、サイコーなんですけどねっ。
「最近、スサノオったらあんまりおうちにいてくれなくって、さみしいわ」
ああ、これが恋人の…(以下同文)。
いや、俺もね、できることなら、真っ白体質のお母さんのそばに一日中貼り付いていたいんですよ。なにも好きこのんで、真っ黒バケモノの跋扈する外の世界に行きたいわけじゃないんですけどね。ガキの頃みたいにお母さんのスカートの裾ひっつかんで、くっついていりゃあ安全安心なんだから。
でもそれ、二十歳男子としておかしいからっ!
そんなんじゃあ、マザコンの引きこもりだからっ!!
俺は普通人なんだから、あくまでもっっ! 普通の男女交際だってしたいし、普通の青春謳歌したいんですよ。
普通の、普通による、普通のための、普通の俺の人生なんじゃああああ!!
いつまでもお母さんのスカートのカゲに隠れてるわけにゃあいかんのですわー。だからがんばって、今日も怖いお外に出かけてくるのです。
ああ、自分の普通感覚が憎い。
「アホか、お前は」
親父の冷たい声が聞こえた気がした。
はいはい、アホですよ。八年間行方不明の人に、そんなん言われたかないですねーだ。
だいたいそんなん言うなら、俺の目指す方向示してからいなくなってほしかったですねっ! 俺は俺なりにいろいろ考えてんだ。考えたあげくの、この悩みなんだ。
「行ってきます」
なんだかまたいろんなことが渦巻いちゃって、出かける前からヒットポイント半分以下。黄色に点滅状態だ。
最近、どうもこういうことが多い。ちょっと前までは、こんなことはなかったように思うんだけど。
そりゃあ「なんで俺ばっかり」とか「失踪親父のばかー!」とか思ったりはしてたけど、こんな自分の来し方行く末を案じて、がっくり疲れたりはしなかった。
俺様スサノオ二十歳、青春の悩み真っ只中。
この悩みの最大の問題点は、他人と共有できないところだよな。
誰か共有できる方、大募集。
玄関から一歩出たところで、「やえがき」と唱えてかしわ手をひとつ。
これしないと怖ーいからね。家の中と違ってお外には、白いのも黒いのも均等に存在してる。
そして、俺の元には黒いのが集まってくる。理不尽。はぁ…。
俺のレベルじゃあ、一回のトナエゴトで三時間、結界がもてばいい方だ。いい若いモンが外に出かけて三時間以内に帰ってこれるわけはなく、俺は電車の中だろうがファミレスで食事中だろうが、「やべ」と思ったら、パアーンと両手を打ち合わせることになる。
付き合いの長い友人たちは「また高木のあの癖が出た」っつってスルーしてくれるけど、見ず知らずの方たちはそうもいかない。
「なにあれ」「あ、びっくりしたあ」「ヘンな人」「きんもー」「目え、合わせるんじゃありません」などなどなど……。
聞こえてるっつうの。
だいたいな。このかしわ手にびっくりするっつうことはだな。お前ら自身が驚いてるってよりも、その、お前の後ろや上にどんよりたまって、灰色から黒になろうとしているバケモノ予備軍がびくってんだっつの。俺はそれを追い払ってやったんだっつの。
感謝されこそすれ、キモがられるいわれはないんですけどね。ほんとはね。とほほ……。