夏3
夏休みも終わりが迫ってきているというのに、まだまだ八月。
うだるような暑さの日が続く。
今日も、レバーの日だ。
俺の家のチャイムが鳴り、まだ昼前だというのに、どことなく恥ずかしげな顔をした黒沼が、玄関の前に立っている。
「おはよう、黒沼。……今日はスカートなのか?」
「うん、おはよう村越君。どうかな、似合うかな……?」
白いひらひらとしたワンピース。
いかにも少女趣味だが、今の黒沼にはよく似合っていると思う。
鳥の巣みたいな髪の毛も、最近はきちんとセットされて、後ろでまとめられている。
もう少し襟足が伸びてくればバランスも取れて、いろいろな髪型も試せるだろう。
「休みの間しか、いろんな格好できないからね……。髪も高校に入ったら伸ばそうと思ってるの」
「そうか……。まあ学校だと何があるか分からんからな」
最近の料理は、姉任せではない。
俺と黒沼で由香から教授されたメニューを、なんとかかんとか取り組んでいるところだ。
そして実のところ、レバーの日とは言うものの、あの告白の日以来二日に一度は黒沼がこうして家にいる。
まあ、俺も予定など無いので構わないのだ。
両親は忙しく、揃って休みを取ることが出来ないのだから。
今日は母が夏季休暇を消化中である。
彼女はリビングでネットサーフィンをしながら、ぼーっとしている。
俺が黒沼を連れてやってくると、
「あら、いらっしゃい、遥ちゃん。今日もお料理がんばってね」
なんて気軽に声をかける。
黒沼が女になってしまったことに、二番目に早く適応したのはこの人だった。
勿論一番目は姉の由香で、俺は未だに適応しきれていない。
さて、俺たちは、最近の日課である料理の練習を開始だ。
母が興味深げにこちらを見守っている。
我が家のキッチンはオープンタイプで、リビングとは空間的に連続している。
俺たちが四苦八苦する光景もよく見えるということだ。
母は決して手伝おうとはせず、俺たちの姿を見てニコニコしている。
今日もなんとか一通りの作業が終わり、二人で一息ついていると、彼女が突然爆弾発言をした。
「ねえ、龍、遥ちゃん。私、会社の保養施設のタダ券もらったのよね。一緒に行きましょう」
「は!?」
「え!?」
彼女がひらひらさせているのは、とある温泉宿の宿泊券だ。
保護者同伴ということでいいのだろうが、一体何を考えているのだろう。
「勿論、遥ちゃんのお母さんにも声をかけているわ。うちだと、家族連れのチケットを消費しきれないものね」
「えええ! お、お母さんにもですか!?」
黒沼が目を丸くする。
「そうよ。しかも、それぞれの部屋に露天風呂がついてるから雰囲気もバッチリなんですって。私と遥ちゃんのお母さんは、一緒の部屋に泊まるから、二人は友達同士一緒に泊まりなさいな」
とんでもない事をぶっ込んできた。
待つのだ。
黒沼は男じゃない。もう女なのだ。間違いがあったらどうするのだ。
隣で、「ひえええ」と小さい声をあげつつ真っ赤になる黒沼を横目に、俺は何も考えられなくなっていく自分を感じていた。
そして決行日。
何の事はない。これは既に、村越、黒沼家で交渉が成立していた案件だったのだ。
黒沼がよく我が家に来るようになってから、夕食を村越家で摂ることもあり、その度に母が黒沼家へ連絡していた。
どうやらそこで、黒沼母と親しくなったらしい。
それで今回の案件というわけだ。
「龍は男の子なんだから、ちゃんと遥ちゃんをエスコートしてあげるのよ?」
「待てよ、黒沼はちょっと前まで男だったんだっつーの!」
「なら何も問題ないじゃない。一緒の部屋だっていいでしょう?」
「ううっ」
到着した温泉宿は山中の風光明媚な場所にあり、茂る竹林と、その合間を流れる渓流が印象的だった。
また秋にでも来ればイメージが変わるのだろう。
夏だというのに、吹き付ける風は涼しく感じた。
そして本当に、俺と黒沼は同じ部屋だった。
「う、ううう」
「むむむ」
二人で唸り声をあげる。
荷物を置いて、仲居さんの挨拶をもらって、お茶を淹れてもらって、今はテーブルを挟んで向かい合っている。
なんとなく気まずい。
いや、何を言っていいのかわからない。
俺の気が抜けると、すぐに目の前のあいつの、メガネの下で潤んだ目元や、低めだが綺麗な形をした鼻元、ふっくらとした唇に行く。
頬が赤らんでいるのは暑さのせいでは無いだろう。冷房はよく効いている。
ほんのひと月前までは、何も意識することなんて無かった男友達だったのだが……。
今は女なのである。
しかも、今夜は俺とこいつと二人きりだ。
母め、俺は多感で性欲の爆発する中学生男子だぞ……! 多少達観していると言われているが、溜まるものは溜まるのだ。最近のネタに黒沼が無かったと言えば嘘になる。いや、むしろ最近はほとんど。
相手が女だとわかった瞬間にこうだ。己の現金さに腹が立つ。
とりあえず茶菓子に手を出そうとしたら、同じように菓子を取ろうとしていた黒沼と手が触れた。
思わず引っ込めそうになるが、こんなお約束みたいなパターンに嵌って堪るかと、俺は手を引かない。
結果、手と手を触れ合わせたような状態になる。
あれえ。
「む、む、村越君」
「お、おう」
震える声で黒沼。
「こ、今夜は紳士的に行こうね」
「も、もちろんだ」
釘を刺されてしまった。ちょっとがっかり……じゃねえ。それが普通なんだよ。
気づけば、黒沼も、俺の比ではないくらい俺の顔やそれ以外をチラチラ見てくる。
まさか黒沼、お前もか。
今回のこの部屋割りは、俺達の若いパトスが暴発する事を狙っているのではないか。
そのように、俺と黒沼は邪推した。
「お母さん考えこむタイプだし、多分、僕の将来のことを心配したんだと思うんだよね。元々男で、女の子になってしまって、嫁の貰い手はあるのかーとかさ」
「いやいや、気が早過ぎるだろう」
「うん、でもそういう風に考えちゃうのがお母さんなんだ。特に僕は、お里で神様が産ませた子供だって言うから……」
「神様?」
「言い伝えだけどね。僕のお母さんの実家には、大きな沼があって、沼には神様が住んでるんだって。お母さんは里の祭りで巫女さんをやって、そこで神様に見初められたって言ってたよ」
黒沼の母親は若い。
多分、俺の母よりも10歳近く年下ではないだろうか。逆算すると黒沼を産んだのは十代ということになるが、黒沼の父のあの真面目そうな様子からは、まだ高校生くらいの娘に手を付けて子供を産ませるような人には見えない。
何やら事情があるのだろう。
そういえば、師匠も玄神の臭いがとか言ってたな。
あの酔っぱらいは何か知っているのだろう。
「……だから、その、僕を村越君にくっつけようと……」
「俺か……!」
途中から聞いていなかったが、最後の部分だけ聞けば充分だ。
「ダメかな」
黒沼はそれを口にした後、自分が何を言ったのか気づいて、首から上全部が赤くなった。
「ああああー! あー! なし! なし! 今のなし! 僕はなんにもいってないからね!」
「お、お、お、お、お、おう」
俺もかなり動揺したので、正直助かった。
その後、母達に誘われての周辺散策。
四人でゆったりと、避暑地の雰囲気を楽しんだ。
俺と母は背が高く、黒沼親子は小柄なので、対比すると実に面白い組み合わせであろう。
部屋に戻ると、夕食まではまだ時間があるとのことだった。
ぜひ露天風呂を楽しんで欲しいというので、俺は部屋専用の風呂へ向かった。
なるほど、一見すると石造りの風呂に見えるように作られている。
冬に来たらかなり風情があるんじゃないだろうか。
大きさはそれほどでもなく、俺一人が入ると、あまりスペースが残っていない。
ほどよい湯加減を感じながら、俺はゆっくりと息を吐いた。
夏の鮮やかな緑が目の前に踊っている。
もう夕暮れ時だ。
日が長い夏は、こんな明るさになると、もう七時が近い頃合いになる。
一瞬ぼーっとした。
だから、俺は背後の衣擦れの音に気づかなかったんだろう。
湯に他の人間が入る音がして、俺はハッとした。
あいつはつま先を湯につけて、加減を確かめた後、恐る恐るといった風に風呂に入ってくる。
誰かなんて分かりきっている。
一人しか居ない。
「お、お邪魔します……」
消え入りそうな声で黒沼が言った。
横目で見ると、まだほぼ平らな胸をタオルで隠して、肩まで沈んでいる。
その他は別に隠すでもない。
危ないところを注視している事に気づいて目線を上げていくと、こちらも危ないところをチラチラ見ていた黒沼の顔が見えた。
思わず元気になってしまう。
「ひゃぁ」
黒沼が悲鳴を上げた。
それでも風呂から立ち上がらない。
「な、なんで入ってきたんだ」
「露天風呂は……一緒のほうがいいかと思って」
確かに、一人で入るのもいいが、誰かと入る露天風呂もいいものらしい。
テレビの温泉番組だと、必ず誰かと入っているものな。
だが、これはまずいだろう。
とても気まずい。
何より俺が立ち上がれなくなった。
というか、湯船にタオルをつけていないのだから、丸見えのはずだ。
いい加減、目線を切れ、黒沼。
「ぼ、僕、身体を洗うね……!」
俺より入っていた時間が短いくせに、ふらついた足取りで黒沼が風呂から上がる。
妙にもじもじした動きで洗い場へ。
その隙に俺は元気になった部分をなんとか鎮め、部屋へと退避したのである。
夕食は美味かった気がするが味なんて覚えていない。
しかも何故か、露天風呂の一件が母達に伝わっていた。
からかわれはしなかったが、そんな微笑ましげな目線で見られるといたたまれない。
就寝。
ある意味これも試練だった。
大体、一時の情欲で手を出すなんて失礼では無いのか。
俺は悶々としながら夜を過ごした。
隣の布団も、ひっきりなしにブツブツいう声と、もぞもぞする音が聞こえたので眠れなかったことと思う。
結局、ほとんど一睡もできずに朝を迎えた俺達は、寝ぼけ眼で朝食を摂り、帰りの電車の中で爆睡する事になった。
後日、その姿を写メで撮られていた事を知った。
眠りこける俺と、俺にしがみつくように寄りかかって眠る黒沼。
なんてものを記録するんだ、うちの母は。
これを残暑見舞いのハガキに使おうか、などと言い出したので、必死に止めた。