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駆け引き

『――あとどれくらいで着きますか』


薫子は朱色の馬車に乗せられて、ひたすら海が見える道を進んでいた。

父と義母とは実家で別れ、薫子ひとり、婚礼の衣装を着て嫁ぎ先へと向かう途中である。


夏の初め。

梅雨は明けたが、海の青さが霞むような、天気の悪い日だった。


『もうすぐでございます、お嬢様。この垣根を折れて中に入ったところに、門がありますから』


馬を引く男が答える。

さきほどからずっと続いている左側の垣根。どれだけ広い敷地なのかと感心していたが、どうやらこの垣根の中が、薫子の嫁ぎ先らしい。


(さすが今をときめく貿易商さまだな)


一端の網元から貿易業を起こし、軌道に乗った家。その功績を認められ、国からも少なくない融資を受けているという。

仕事は順調、金はあり信頼もある、あと足りないのは家格だけ。

そういうわけで、その嫁として没落した華族の娘が宛がわれたわけである。

多額の結納金を前にして、父はともかく義母は一も二もなく、薫子を売った。婚姻後は一切、連絡をするなといわれている。

後ろ盾はないが、正統な血はある。嫁にもらっても事業に口出しするような五月蠅い実家はないに等しい。血を金で買ったと陰口は叩かれるだろうが、今やあの帆積家に面と向かって盾突くような者もいまい。

帆積家にとっては、それなりの買い物だっただろう。


馬車が揺れたかと思えば、垣根を左に折れたらしい。

がたがたと平坦ではない道を車輪がなぞっていくのを尻で感じながら、薫子は居住まいを正した。

卸者のいうことが正しければ、もうすぐ帆積家へと到着する。



『坊ちゃん』


外から卸者の小さな声が聞こえた。ほぼ同時に、馬車が停まる。


ぼっちゃん。

帆積家から遣わされた人間がそう呼ぶのは、ひとりしかいない。

思い立って、薫子は卸者の手も借りずに馬車の戸を開けた。

両側を垣根に囲まれた小さな道だった。垣根の合間にちらちらとハイビスカスの花が見える。


挨拶をしよう。とただ単純に思っての行動だった。自分が嫁ぐ男の容が気になったのも、勿論ある。


卸者が慌てて馬車を回り、降りようとする薫子に手を貸した。

その顔はどこか青ざめて見える。それを不思議に思いながら、薫子は顔を上げて納得した。


「与一、その女は誰だ」


与一とは、薫子の手を支えてくれている卸者の名前だろう。

薫子は与一に礼を言うと、しっかと両脚で地面に立った。朱色の桐台に黒の鼻緒の下駄が、ざり、と砂を削る。


馬車のすぐ前に、赤毛の背の高い男と、その男に腕を絡めた可愛らしい女が立っていた。


(なるほど)


赤毛の男は噂に聞く美丈夫だった。

派手な赤毛に負けぬ艶やかな着物を着て、それがまた妙に似合う。だが、なよなよしくは見えない。服の上からでも体躯が鍛えられているのがわかるほどだ。

きちんと〝仕事〟をしている体だと、薫子は感心した。


そしてその男にしなだれかかる女は、仕立ては悪くはないが庶民が好む着物を着ている。派手すぎず動きやすい、どちらかといえば機能美を重視したもの。恐らく町で暮らす娘なのだろう。妙に甘ったるく可愛らしい、世の男が好みそうな容姿をしている。


二人とも、突然馬車から降り立った薫子を見て目を丸くしていた。

それはそうだろう。自分の家が有する馬車から花嫁衣裳を着た女が降り立てば、一体何事かと思うのも頷ける。

そしてその反応は、この男に薫子の嫁入りが聞かされていなかったということだ。

初っ端から、とんでもない結婚になりそうだな、と薫子は内心で溜め息を吐いた。とはいえ、それを相手には気取らせるような馬鹿な真似はしない。


薫子はしゃんと背筋を伸ばして、じっと赤毛の男を見上げた。


『お初にお目にかかります。本日、帆積家ご長男、勇魚いさな様へと嫁いで参りました、薫子と申します』


――言った途端、丸くしていた眼で睨みつけてきたのが、当時、勇魚の恋人であった〝いすゞ〟だった。







「……懐かしいもん見たな」


どうやらうたた寝していたらしい。


家から通う高校まで電車通勤の薫は、顎まで垂れた涎を手の甲で拭った。

高校最寄の駅まで五駅。短くも長くもないが、その間三駅分はずっと海側を走るので、眺める景色に不足はない。

海の傍へと嫁いだ薫子のように、今世の薫も海の傍へとやってきた。

名目上は父の転勤だったが、やはりどう考えても運命としかいいようがない。それまでは海なし県で暮らしていたのだから、特に。


曇りの日も雨の日も晴れの日も、海は美しく壮大で、少し恐い。

薫子は、そんな海を愛していた勇魚を愛していた。


(それが今や、あの〝いすゞ〟そっくりの顔で生まれ変わって、自分の顔をした〝いすゞ〟に愛した男を奪われている)


とはいえ、薫は現代の勇魚を愛しているわけではない。


……のだと思う。

昔の記憶があるからどうしたって親近感や根拠のない信頼、情愛を向けてしまいそうになるが、今の世に生まれてから勇魚と話したのはあの呼び出しのときが初めてだ。

それなのに、前世でも愛してました、今世でも愛していますとか、そんなのホラーだろう。


(……でも、あの二人は違うのだな)


少なくとも、薫と同じように前世の記憶があるらしいいすゞと勇魚は、前世同様、同じひとに恋をしている。


でも。


(帆積……じゃない、今は穂積か。穂積は、いすゞを薫子だと思って愛している)


転入初日、初めて穂積を見つけたとき、そのすぐ傍に自分――前世の薫子に似た女がいたことに薫は驚愕した。しかも公私共に認める穂積の彼女だというのだから、その驚きはいかほどか。

なんだ、なんだこれは、と混乱している間にその日は終わった。


次の日、前日よりは冷静を取り戻した薫は、穂積といすゞを観察することにした。

そうして観察期間が一ヶ月を過ぎる頃には、ちまちまと聞こえて来る二人の会話で、彼らも前世の記憶を持っていることを知った。


このこんがらがった状況を整理したい、と何度となく書きなぐったメモが以下である。


前世で薫子だった女は、今世では薫。ただし容姿は、勇魚の元恋人であるいすゞに似ている。

前世で帆積勇魚だった男は、今世では穂積勇魚。見た目変わらず。

前世ではいすゞだった女は、今世でもいすゞ。ただし容姿は薫子に似ている。


そして今世のいすゞが、自分は薫子だと偽り、穂積を騙している。



薫に、薫の中の薫子にダメージを与えたのは、観察中も途切れることのない二人のいちゃいちゃだった。

休み時間の度に厭きずにくっつき、手を繋いで購買や食堂に向かい、放課後はひとつの机を挟んで向かい合わせになり、厭きずにずっとお喋りをしている。周囲の友人も呆れるほどのラブラブっぷり。


穂積が、薫子だと思っていすゞの頬を撫でる。

いすゞが薫子を装って、穂積の赤い髪を梳く。


その度にふたりが座る椅子を蹴っ飛ばしてやりたい衝動に駆られ、その衝動をどれだけ苦労して押さえつけたか。


(……愛してはいない。私は穂積を愛してはいないけど、)


なんでそんな簡単に騙されてんの?とは言ってやりたい。


長年連れ添ってきた夫婦だった。それこそやり直しのきかないような喧嘩もしたし、時間が止まればいいなんて大真面目に思うほどの楽しいときも過ごした。家の事業をお互い必死になってより良いものにしようと努力した。

そのかけがえのない時間があるというのに、あの男は外見が薫子というだけでころっと騙されている。いすゞも正体がばれないよう薫子を装ってはいるのだろうが、全く気付いていないらしい穂積のそれが、薫子に対する想いの軽さのようで悲しくも腹立たしい。


もう、むかついてむかついて仕方がなかったのだ。

だからこそ、先日呼び出された際に穂積に言われた言葉を利用させていただくことにした。


『あいつのために何かしてやれるなら、なんだってする』


男らしい言葉である。大変結構。

帆積は昔からそういう男だった。真っ直ぐで馬鹿でおおらかで、安心して身を任せられる男だった。


(でも、その言葉が向いているのがあのいすゞだということが気に喰わない)


人はこれを嫉妬と呼ぶのだろう。異論はない。薫は嫉妬している。


ただ問題なのは、薫にも迷いがあるということだ。


薫は薫子だけれど、薫子は薫だけれど、今世でまで、同じ男と添い遂げなくてはならない理由はない。

薫が、帆積に正体をはっきり伝えない理由はそこにある。

前世の別れは酷かった。結局子を授かる前に勇魚は鬼籍に入り、薫子は、前世ではきっと最後まで添い遂げられる、と酒に酔った夫の戯言に縋って夫亡き後を生きた。

それでも、今を生きる自分達の感情を無視してまで、前世の薫子の願いを叶えるべきか、と問われれば、悩んでしまう。


(帆積が今のいすゞを愛しているのなら、私などただの邪魔者でしょう)


だからこそ、薫は穂積に言った。



『なんでもするっていうのなら、是非聞かせていただけますか。貴方と彼女との、大切な思い出を。私が納得するだけ話してくだされば、いすゞさんをいじめるのはもうやめます』



まあ、いじめてませんけどね。





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