ハイビスカスは好きだけど
ちなみに勇魚は鯨の古名。
「ハイビスカスが好きだった」
穂積が俯きながらぽつりと零す。
視線の先には、フライングしたと思われる赤いハイビスカスが風に揺れている。
そう、薫子はハイビスカスが好きだった。
勇魚へと嫁いだあの日にも咲いていたハイビスカス。
まるで大切な秘密でも打ち明けるように口にした穂積に、薫は思わず首を傾げてしまった。
「で?……っていう」
薫と穂積が駆け引きを交わしたあの日から数日が過ぎた。
一週間に一度だけ、いすゞが家の手伝いで早く帰る日を狙って穂積と会う。
まるで密会だな、と薫は思ったが、穂積は特に気にしていないようなので黙っていた。
それに付随して連絡先を知らないと面倒だな、と思いつつ、元薫子と穂積が連絡先を交換なんてしていたら
いすゞはショックで倒れてしまうのではないだろうかと危惧した薫により、とりあえず時間と日時を決めて会うことになったのだ。
一目につかなそうな校舎裏の雑木林を抜けた先、前世の薫子が住んでいた海を一望できる丘の上で、〝駆け引き〟は始まった。
「で、ってなんだよ」
とりあえず、薫子の好きだったものを答えたはいいが、薫にしらけられた穂積がむくれる。
その視線をずらして後ろで手を組むむくれ方が前世の勇魚にそっくりだ。この人は本当に変わらないな、と薫は一種の感動を覚えつつ、穂積に続きを促した。
「私が聞きたいのは、いすゞさんとの思い出であって、彼女の好きなものじゃないんですよね。彼女がハイビスカスが好きだというのはわかりましたが、なんかこう、他にないんですか?」
なんだっていい。
正月恒例だった餅つき大会で薫の手を杵で餅ごと叩きそうになったこととか、新しく買った船を改造すると意気込んだはいいが、若い衆と調子に乗りすぎて転覆させてしまって溺れかけて、薫子に泣きながらぶん殴られたことととか、或いは薫子も薫も与り知らない、今世のいすゞとの思い出とか。
前世の薫子との思い出でも、今世のいすゞとの思い出でも、なんだっていい。
その比率を、薫は知りたいのだ。
「思い出、ねえ」
薫の言葉に、穂積は顎に指を添えて考えた。
その癖も、勇魚と同じだ。先ほどの感動を通り越して、薫の胸は少し痛い。
「ああ、ハイビスカスであったな、思い出」
ふと思い出したように顔を上げて、穂積が薫を見た。
大きめの黒眼に、薫の姿が湾曲して映っている。
眼下から吹き抜けていく潮風が、ふたりを昔へと運ぶようだった。
**
「墓参り?」
そう問い返してきた勇魚に、薫はこっくりと頷き返した。
若い衆との仕事を終えて帰ってきた勇魚は風呂も大衆浴場で済ませてきたらしく、少し濡れた髪で家の門を潜った。そこで丁度出かけようとしていた薫子と鉢合わせたのである。
時刻はもう夕方。あたりは少し薄暗くなっている。今から出かけては帰る頃には真っ暗だ。それも見越してか、薫子の手には火のついていない提灯がぶらさがっていた。
「母様の墓参りに。ここのところ忙しくて、結婚の報告もしておりませんでしたから」
この頃はまだ、夫婦といえどあまり仲は良くなかった。
恋人であったいすゞより薫子を選んだとはいえ、勇魚は薫子を気に入ったから結婚したわけではない。結婚は家同士の取り決めであったし、ここで勇魚が拒んだとして、薫子にはもう帰る家がないことを、彼はよくわかっていた。
優しい人なのだな、と薫子は自分の夫になった男を評価していた。
普段の素行は粗暴だし適当だし、脱いだ着物は片付けないし下駄もそろえない。不本意で婚姻を結んだわりにはちゃっかり初夜はやり遂げるし、だからといって薫子とはあまり言葉を交わさないしで、薫子は〝帆積勇魚〟という男のほんのちょっとも知らなかったが、優しいのは間違いなかった。
「夕飯は作ってありますので。配膳はお妙さんにお願いしてください」
大きな商家である帆積家には食事つくりを含めた家事全般をするお手伝いさんが何人といる。お妙さんもそのひとりだ。
しかし薫子は、夫と自分の分くらいは、と練習も兼ねて食事を作るようにしていた。お妙さんはじめ、他のお手伝いさんたち監修のもと、日々頑張って美味とはいかなくとも、まあ食べられないこともない普通の食事を、夫である勇魚に振舞っていた。
今までそれはもう美味しいお料理をいただいていたはずの勇魚は、それに文句ひとついうことなく、薫子の好きなようにさせている。しかも今まで一度も料理を残したことがない。
あからさまに歩みよりはしないが、薫子という存在に、心を砕いてくれている。
そういったところも含めて、薫子にはくすぐったいくらい、不器用で優しい人だった。
「……俺も行く」
言うと思った。
薫子は予想通りの勇魚の反応に苦笑しそうになるが、なんとか堪えた。
そうしてぽたぽたと雫を垂らしている勇魚の髪をじっと見る。
「風邪を引きますよ」
「蒸し暑い夜だ。ひかねえ」
言いつつ、首にかけていた手ぬぐいで濡れた髪をがしがしと拭き取っている。
「少し歩きますけど」
「……娘の結婚報告に夫の姿がないと、母親も心配するだろ」
なにがなんでもついてくるらしい。
心臓をくすぐられるような心地よい感覚に、薫子は唇をきゅっと閉じた。
そうしていないと、にやにやしまらない顔になってしまいそうだったからだ。
「顔ゆるんでるぞ」
唇を噛み締めても、にやにやは回避できなかったらしい。
薫子の実母の墓は、実は実家のすぐ近くにある。
小高い丘の上にぽつんとあるそこは、愛妻家だった父が母を偲ぶために作った墓だった。
周りにひとつも墓がないので母は寂しくないだろうかといつも思っていたが、夏に海からの少し冷たい風が吹く丘の上は気持ちがいい。陽が照っていないこの時間帯だからこそ、心地よく感じることができる風だった。
しおれた花を新しいものに、古い水を新しい水に変えて、線香に火をつける。毎日かぐわけでもないのに何故か馴染んでいる香りが、あたり一面に広がった。
気付けば空には月が出ている。
提灯はなくてもいいな、と小さな墓石の前に立ちながら、薫子はちらりと横に目をやった。
薫子の隣で、夫となった男が熱心に手を合わせている。
こういうとき、ぴんと伸びた背筋がとても好きだな、と薫子は思う。本人には照れくさくて決して言えないが、薫子は少なくとも勇魚よりは、伴侶となった男のことを好きになっていた。
「……墓前にハイビスカスとは珍しいな」
菊や鶏頭に混じって、赤いハイビスカスが一輪。
確かに墓前には相応しくない花かもしれない。
勇魚のそれは、無作法を指摘するような口調ではなく、ただ気付いたことを口にしただけのようだった。
「好きなんです」
「……好きなのか」
だからか、素直にそう口にした薫子に、帆積が視線を向ける。
それを横顔で受け止めながら、薫子は小さく笑った。
「貴方へ輿入れした日にも、咲いていましたから」
そう考えると、あの日のハイビスカスは随分と早咲きだった。
帆積の家の垣根にぽつぽつと咲いていた赤いハイビスカス。
それを母にも、見せたかったのだ。見せることの叶わなかった己の晴れ着の代わりに。
そして、その花が咲いていた日に夫となった隣の男を、見てほしかった。
「……好きなのか」
勇魚がもう一度、同じ言葉を繰り返す。
けれどそれは、きっと意味が違うのだろうな、と思いながら、薫子は笑って答えた。
「好きですよ」
**
「っていうことがあったんだよ」
穂積が顔を赤くしてそっぽを向いた。
ついでに言えば、薫の顔も赤い。
その墓参りのことは、薫も覚えている。
あの日以来、なんだか勇魚との距離が縮んだ気がして、以前より一緒にいるようになった。会話も増えてお互いのことを知る機会も増えた。勇魚が率いる帆積家の若い衆ともぽつぽつ話をするようになった。
あの日は、薫子にとって、勇魚にとって、なくてはならない日だったのだ。
それをまさか、いの一番に話してもらえるとは思っていなかった。
薫の熱い頬が勝手にゆるんで、とてもしまらない顔になっている。自覚はある。
「なんであんたが赤くなってんだよ」
「気のせいです」
ただ、前世の話だというのに誤魔化しもなにもなく、夫婦とか輿入れとか真実そのまま語っちゃっている穂積は本当に馬鹿だな、と思うのだが。
それもある意味彼らしくて、薫は少し泣きたくなった。




