ラスボス現る
「大団円でなによりですね」
薫と勇魚。ふたりで泣きながらひとしきりもろもろを噛み締めていると、まさかの第三者が割り込んできた。
慌てて顔を上げると、そこには果たして、例の保健医、佐倉が立っていた。
眼鏡の奥の双眸がいやに煌いていて、なんだか恐ろしい。
「……佐倉、何の用だ」
勇魚が薫を庇うように前に出る。
そういえば、このふたりは少し前から交流があるのだった、と思い出す。交流といっても、今カレと元カレの関係ではあるのだが。
「おふたりがやっとまとまったようなので、祝福をしに」
にっこりと微笑みはするが、笑顔も声音もあまりに空々しくて、恐ろしさに拍車がかかる。
いすゞの前では率直に気持ちを露にして笑みをうけべていたので、勝手にいい人そうだな、と思っていたが間違いだったらしい。
「初めまして、帆積薫子さん。貴女のお話はいすゞさんから伺っていますよ」
勇魚を素通りして、佐倉の視線が薫を捕らえる。唇は弧を描いているが、眼鏡の奥は全く笑っていない。
薫は思わず、勇魚のシャツを握り締めた。勇魚が嬉しそうにやにさがったのは、幸いなことに佐倉にしか見えていない。
そんな勇魚を冷ややかに一瞥して、佐倉は口を開いた。
「全く、この節操なしの馬鹿男を野放しにした挙句、のこのこ現れたと思ったら、いすゞさんに昔の夫を盗られそうになっているにも関わらず行動には出ない、受身、慎重という名の臆病さで、全く役に立たないときた」
一見爽やかに笑いながら、とんでもないことを言われている。
しかも、反論の余地もなく、痛いところを突いてくる。
「いすゞさんが一時でもこの男のものであったなんて、心底腹立たしい。貴女がもたもたしていたお陰で、私はとても不愉快な思いをいたしました」
これにはさすがに薫もカチンときた。
立ち上がって勇魚の庇護から抜け出すと、佐倉を睨みつける。
間で勇魚がぎょっとしていたが、無視した。
「そんなにいすゞさんが大切なら、まずは彼女の躾から始めたらどうです?厚顔無恥にも別の女を騙って人のものに手を出すような女の所業を、私のせいにされることこそ不愉快だわ」
引き攣りながらも笑顔で言えば、佐倉もにっこりと笑った。
「言いますねえ。夫に気付いてもらえなかった妻というのはなかなか心苦しく辛かったことでしょう。生まれ変わった妻の区別もつかないような男のために、貴女もいすゞさんも、随分と振り回されましたね」
勇魚にとって一番突かれたくないところを容赦なく抉って、佐倉は薫に同情的な視線を向けた。
「気付かないどころか家族にまでいすゞさんを妻・薫子として紹介するなんて、本当に見る目のない男ですね」
もはや蒼白になっているのは勇魚だったが、そのあたりのことは薫も多少ならず腹を立てていたので、放っておくことにした。
「そもそも、状況を複雑にしたのは貴方の大切ないすゞさんでしょう。騙される勇魚も勇魚だけど、騙すいすゞもいすゞだわ。あの女がそんなに大事なら、首に縄でもつけておいたらどうです。そのほうが平和でしょう。貴方も、私達も」
「縄なんて。あの人は自由に振舞ってこその人だ。奔放で勝手気ままな猫のような気性が、あの人の愛らしいところ。そんなあの人を、貴方はその存在で怯えさせて、恐がらせました」
はあ?
とヤンキーばりに唸りそうになったが辛うじてとどまった。
「なに言ってんだこの変態」
薫子は笑みを浮かべたまま、佐倉に聞こえないようにぼそっと吐き捨てた。
間の勇魚は空気に成り果てている。
「そもそもあの女が私を騙ったりしなければ、怯える必要なんてなかったでしょう。自業自得すぎて笑えない」
それを責任転嫁よろしく薫のせいにしようなどど、この男は頭が腐っているのか。
(……腐っているのだろうな)
思わず自問自答してしまうほど、腹に据えかねた。
この男には何を言っても無駄、という感がひしひしとする。そしてそれはきっと正しい。
佐倉は、薫がなにを言ってもいすゞを庇う姿勢を変えないだろう。
「いいえ、そもそもそこの男が、己の妻を見分けられなかったのがいけない」
いきなり矛先を向けられた勇魚が、びくっと肩をそびやかした。
いつの間にか正座になっている。
「一理ある」
薫も答える。
せっかくなので、腹は立つが佐倉のそれに乗っておくことにした。
「いすゞさんに訊いたら、手を繋いだり髪を撫でるまででほぼ性的接触はなかったようですし、まあ、違和感を感じていすゞさんに手を出さなかったことは褒めてやります。口付けのひとつでもしていたら、貴方の生殖器を使い物にならなくしてもまだ気がすまないところでした」
やりすぎである。こわい。狂気を感じる。
「いすゞさんが嘘を吐いている可能性はないの」
嫉妬深い薫子が顔を出した。
端にはとても仲睦まじく見えた。本当にそんなおままごとのような付き合いだったのか、いまいち信用できない。
なにせ勇魚は、結婚には乗り気でなかったくせに、ちゃっかり初夜は済ますような男である。
「嘘?」
薫の言葉に、佐倉が首を傾げる。陽の当たり方が変わって、眼鏡に光が反射した。
「いすゞさんは、私にだけは嘘をつけません」
つきません、じゃなく、つけません、というあたりにまたも狂気を感じる。
なんだかこんな恐ろしい男に囚われてしまったいすゞが憐れに思えてきた。
「……それで、結局お前はなにが言いたいんだ」
いつの間にか復活した勇魚が、立ち上がりながら佐倉を見た。
佐倉より勇魚のほうが背が高いのだが、ふたりとも同じくらいの威圧感を放っていてなんだか互角だ。なにが互角なのがさっぱりわからないが。
勇魚の目を真っ直ぐに見つめ、佐倉はふうと溜め息を吐いた。
少し、肩から力が抜けたように見える。
そうして勇魚から、薫へと視線を向けると、ゆっくりと口を開いた。
「確認にきたんです。薫子さんは……いえ、薫さんは、今世でもこの男を愛せるのかどうか」
どういう意味だ、と思った。
そんなこと、この男に関係があるのか、とも思った。
その疑問を口にする前に、佐倉は続きを口にする。
「正直、こんな男のために前世の記憶を引きずって今世でまで添い遂げる必要はないのではないかと思うんですよ。貴女といすゞさんの区別もつかないような薄情な人に尽くすほどの情が、貴女にはまだ残っているのかと、少し疑問に思いまして。貴女が前世で苦労したのは私も話に聞いて知っています。あの頃の帆積家といえば、押しも押されぬ大貿易商でしたからね。その跡取りである一人息子が海で散って、残った奥方がその全てを引き継いだということも、記事に書かれたりもしましたし」
言われて、薫は当時の騒ぎをぼんやりと思い出した。
正統な後継者を亡くした帆積家は、荒れに荒れた。
勇魚の血を引く子供すら産んでいない形ばかりの妻である薫子より、もっと相応しいものに代表を任せるべきだと、それこそどこの誰だというような遠縁の親戚が現れて声高に叫ばれたりもした。
新聞には落ちぶれた元華族の娘が巨万の富を得たと皮肉った記事が載り、一時は帆積貿易と新たに手を組もうという者もなく、大変な事態になった。
それでもやってこれたのは、穂積の父母が薫子を息子の嫁として、唯一の後継者として扱ったからだ。交渉や社交の場に薫子を伴い、様々な人間に跡を継ぐ者だと紹介してまわった。
勇魚とつるんでいた若衆からの信頼や、地元の船持ちとの付き合いもあった。それらは全て、勇魚がとりなして薫子に残してくれたものだ。
薫子はそれこそ髪を振り乱しながら、必死に彼らについて学び、勇魚の空けた穴を埋めていったのだ。
それこそ、悲しむ余裕もないほど働いているのに、ふと気が抜けた瞬間に隣にいないことが悲しくなって涙することに、意味もなく腹を立てたりした。
こんなに忙しくしているのだから、忘れられたらいいのに、と何度思ったか知れない。
それでも、薫子の生の端々に、勇魚はいた。
ふたりで月見をした縁側を通る度、熱い夏に水浴びをした庭先にひまわりが咲いているのを見たとき、母の墓参りに行ったとき、ふたりで眠った布団で休む度、いつもいつも、いつも。
「……貴女に全てを背負わせてさっさと逝った愚か者を、愛せるのですか」
佐倉が薫を見ていた。
隣の勇魚も、薫をじっと見つめている。
その瞳が少し潤んでいるのを、薫は直視しなくてもわかってしまった。
「……帆積の家が保ったのは、昔からの、それこそ義父様と義母様、他の者達、そして勇魚が繋いでくれたパイプがあったからです。私一人が苦労を背負い込んだわけじゃない。勇魚がいたから、私は帆積の嫁として生きることができた」
それに。
「私を置いて逝ったことを一番悔やんでいるのは、この人だもの」
因果だな、と思う。
死んでしまえば、その後に残された人のことなど、きっと知りもしないし考えもしないし、感じもしないだろうに。
記憶を持って、こうして二度目の人生を生きているばっかりに、勇魚は悔やんで悔やんで己を責めている。
だからこそ、いすゞが薫子と名乗ったことに、少しの違和感を感じながらも、強く出れなかった。
己が死んだあと、薫がどう生きたかを、葵にでも聞いていたのかもしれないし、大体予想がつくようなものだったのかもしれない。
(そんなこと、考えなくていいのに)
「愛しているかどうかはわからない。これから愛せるのかもわからない」
隣に立つ、かつての夫を見上げる。
馬鹿で大らかで、少し浮気性で、行き場のない薫子を妻にしてくれた。
たくさんの幸福と、悲しみを薫子に残していった人。
その男の瞳が、愛しげに細められる。
あの頃と同じように。
薫が今、願うのは。
「……この人と、もう一度生きてみたい」
ただそれだけだった。