はなから負けてる
人間、感情が振り切ってぷちっと血管が切れたとき、普段ならやらないようなことをやらかしてしまうことがある。
そしてふと冷静に戻ったとき、なにをするかというと。
「……死にたい」
自己嫌悪である。
「……まあ、一体いつまであの茶番を続けるのかと思っていたから、俺としては悪くないタイミングだった」
涼しい風が吹きぬける外階段の一番上で、膝を抱えて項垂れている薫に、その横で腕を組んで壁に凭れている葵がフォローを入れた。
「人目があるところであんた達に接触したら目立つから、今の今まで控えめに秘密裏に動いてきたというのに……」
それが、さっきの騒動で台無しだ。
穂積へ言った言葉には前世云々の要素が混じっていたのでなけなしの理性で声を落としたが、いすゞへのそれへは遠慮はしなかった。寧ろ皆の前で辱めてやるという気概を以って声高らかに言い放った。
のちの周囲の人々の反応は様々である。
目立つ穂積の彼女であるいすゞを庇う者、聞かなかったことにする者、保健医佐倉の出現で、いすゞに不信感を抱いていた者は薫の言うことに一理あると賛同したりもした。
ただ、あのグループからしてみれば、この人誰?が大前提の薫である。
避難される前にあの場から去った薫だったが、大掃除後のHRでは、ねえねえ穂積くんたちにこんなこと言った子がいたんだけどこの子知ってる?といような形で薫が穂積たちに対してどのように振舞ったかが同学年中に広まっていた。
好奇の目を向けられながら、下校ラッシュを避けるためにこの外階段まで逃げてきたわけである。
「いすゞは?」
「涙目になっていたようだったが、あとは知らない」
いすゞはHRには顔を出さなかった。
そのことで、薫の分が悪くなったともいえる。
とはいえ、薫は尚一層落ち込んだ。
言ってやったと思わなくもないが、尻軽は言いすぎたかもしれない。
葵の言葉にトドメを刺されながら、ひたすら下校時間のざわめきが去るのを待つ。
「そもそも、勇魚はもうお前が薫子だと気付いていたんだろう。富豪の出現で、いすゞもお前を騙ることはできなくなったはずだった――だというのに、何故、それがまだ継続されていたのか俺には理解できない」
葵が呆れたように溜め息を漏らす。そのとおりである。
どういうつもりで、いすゞはまだ穂積の隣にいるのか、どういうつもりで穂積はいすゞを傍におくのか。
並べば似合うふたりを思い出して、再び嫉妬しそうになる。
(見た目は薫子と勇魚なのに、どうしてこんなに腹立たしいのだろう)
答えは簡単だ。
見た目ではない、とわかっているから。
いすゞは見た目が薫子であっても、薫子ではない。
薫も見た目はいすゞであっても、いすゞではない。
そして何より、見た目にあっさりと騙されている穂積が、むかつくからだ。
そしてそんなものに振り回されて、彼女でもないのに執着してヤキモチを当然のごとく妬いている自分が、本当に、みっともなくて恥ずかしいからだ。
(最初の目的を忘れているからいけない。そもそも、私は穂積のことなんて好きじゃなかったはずだ。だって、薫子と私は同じであって、別物だって、そう思ってきた。でもいすゞが薫子を騙っているのを見て、それにあっさり騙されている穂積を見て、私は――)
……あれ。
「葵」
気付きたくないことに気付きそうになり、思わず思考停止したときだった。
今もっとも聞きたくない声が聞こえ、このまま貝になってしまいたい、と俯いたまま現実逃避する。
「やっときたか」
「わり」
短い言葉を交わして、前世からの男友達はあっさりと薫を見捨てていった。仕組まれた。
「……」
「……」
「……」
「……なにか話してください」
葵に協力を得て強制的に話し合いの場を設けたというのに、穂積は口を開かなかった。
そんな穂積に見せる顔もなく、薫子は階段の段差に腰掛けて膝に顔を埋めたままでいる。顔を伏せていても、目の前の男が戸惑っているのは手に取るようにわかった。
何度か躊躇いがちに口を開こうとするも、その度に閉じる。
なにしにきたんだ、とそろそろ薫子が苛立ち始めたときだった。
「……かおる、こ」
掠れた声が、その名を呼んだ。
確認するように、口にしていいのか戸惑うように。
前世でも今世でも、話を聞くときは相手の顔を見て、と口を酸っぱく躾けられてきたのに、今は相手がなにか一言でも話すまで顔を上げてなるものか、と妙な意地で顔を膝に貼り付けていた薫だったが、それはすぐに違う理由と成り代わって、顔を上げられなくなってしまった。
(……今更。今更、ここで呼ぶ?本当に空気が読めない男だな)
内心で詰りながら、耳まで赤くなっている自覚はある。
それに気付いたのか、穂積が少し元気になって、もう一度、薫子、とその名を口にした。
「薫子、悪かった。俺は――」
調子に乗るな、と言いたい。
「今更」
薫は可能な限り低い声を出して、ゆっくりと顔を上げた。
「今更、どのツラ下げて私の名前を呼ぶんです?」
見上げた穂積の、いや、勇魚の顔は蒼白になっている。
自分でも相当あれな人相を浮かべている自覚はあるが、直しようがない。
勇魚が、あ、とか、う、とかわかりやすく言葉に詰まっている。
その態度がまた、むかつく。謝りにきたんならはっきり謝れ。土下座しろ。薫子様すみません俺が全て悪かったのです許されるならなんでもしますといえ。
「……悪かったって、なにがですか?〝私〟に気付かなかったこと?いすゞを薫子だと思っていたこと?いいんですよ。顔がそもそも逆転してますから。あの顔で貴方の薫子ですと言われたら、そりゃ信じてしまいますよね。キスはしました?エッチはもうお済みですか?……でも名前はいすゞなのに?可笑しいですね。疑う余地なく、あの人は〝薫子〟の真似がお上手でしたか」
途中、エッチはもうお済みですかのあたりで勇魚が反論しようとしたが、眼力で黙らせた。
「私が嫉妬深いと知っていて、私が薫子であるとなんとなく勘付いてからも彼女を傍に置いたのは何故です。私が名乗らければ、体よく今世ではいすゞさんと添い遂げようとでも思っていたんですか」
「ちが、薫子、聞け!」
「聞きたくありません。言い訳は結構です」
勇魚の言葉を遮って、薫はなんだか投げやりな気分になった。
絡み合っていた視線を無理矢理逸らして、また膝に顔を埋める。
なんて無様な女だ。こんな嫉妬丸出しの醜い言葉を吐き出して、顔も醜悪に歪んでいるに違いない。
「薫子!」
殻に閉じこもろうとしている薫に、勇魚が前のめりで大声を出した。
鼓膜が破れんばかりのそれに、薫が顔を上げて、のろのろと視線を合わせる。
「……っ俺は、お前が好きなんだ!」
はい?と半眼にならなかったのを褒めてもらいたい。
半ば怒鳴るように叫ばれたそれに、薫の理解が追いつかない。
見上げた勇魚の目が、潤んでいる。
前世と同じ色素の薄い琥珀のような目が、逆光でもわかるくらい、うるうると揺れていた。
「俺は、薫子が好きなんだ。いすゞだからじゃない。薫子だと思っていたからあいつを傍に置いた。確かに気付かなかった俺が悪い。あいつは俺が嵐で死んだあとのことがショックで、記憶が曖昧だと言っていた。だから違和感を感じても、気付かない振りをしてた。いすゞだからそうしたわけじゃない。俺は、薫子、お前だと思ったから……」
今にも泣きそうだった。
あの豪気な男が、感情の高ぶりに任せて目を潤ませている。
「俺が好きなのは、薫子……お前だけだ」
そんなこと。
「……知ってますよ」
知ってた。
(この人が私を好きだということくらい、前世からずっと、ずっと前から、知ってた)
でも、だったら。
「……だったらなんで、気付いてくれなかったの!?私のためならなんだってするって言ったくせに!どうして気付いてくれないの!?ハイビスカスも、水あめも、嵐で沈んだ貴方の船も!貴方の死も!全部全部私のものなのに!どうして気付いてくれないの!?私はここにいるのに、どうしてあの人と手を繋いでいるの。どうしてあの人に笑いかけるの。どうしてあの人の髪を撫でるの。どうして……」
今にも泣きそうだしそうなのは勇魚のはずだったのに、いつの間にか、薫の頬には滂沱の涙が流れ落ちている。
ひっく、と胸が跳ねる。
視界に映した勇魚が、今度こそ泣く寸前の表情を浮かべて。
かおるこ。
音もなく、そう叫ばれた。
「……っ」
気付いたときには、肩を太い腕に覆われて、抱き締められていた。
加減も優しさもない抱擁は、熱くて硬くて、痛い。
ぎゅうと抱き竦められて、硬い肩に顔を押し上げられて、薫は青空を見上げていた。
視界が潤むのと同じに、声も潤んで、震えた。
「どうして、気付いてくれなかったの……」
期待してた。
ずっとどこかで、見ない振りをして。
同じクラスメートの穂積が勇魚だと気付いてから、何気なく視線が合ったとき、何気なく肩が触れそうになったとき、何気なく、私の名前を誰かが呼んだとき。
(いつか、いつかいつかいつか、私が本当の薫子だって、気付いてくれるんじゃないか、って)
そうして勝手に期待して、裏切られて、でも納得できなくて。
顔が違うんだから、気付かなくて当たり前だなんて自分を納得させて、平気な振りをして、勝手に怯えるいすゞを利用して穂積に近付いて、あわよくば、なんて。
「あの時も置いていったくせに、……また、私を独りにするの」
寂しかった。悲しかった。辛かった。
あの人が大切にしていた船の破片を遺骨として大事に抱えて、墓に納めた時のあの猛烈な孤独感。
嵐があの人を奪ったのだと考えるようになってから、雷が恐ろしくて恐ろしくて堪らなくなった日々。
あの人と眠った夫婦布団にふたりで潜り込んで、子供のように泣いて雷が過ぎるのを待つ夜。
――貴方がいなくて、淋しい。
「……薫子、薫子、薫子」
がたがたと震える薫を、勇魚が強く抱き締める。
あまりに強くて、骨が軋むようだった。
外見がいすゞだとか、そう言ったことはもう既に、気にならなくなっている。
これが勇魚の薫子だった。
強がりで、弱虫で、勇魚がいないと幸せになれない、可愛くていとしい女。
「……悪い。謝罪が欲しいなら何度だって言う。お前が許してくれるまで言う。なんだってする。俺は、お前のためなら、なんだってするから」
勇魚の声が、薫の耳のすぐ横でそう囁いた。
なんだってする、って。
あの時は偽りの薫子に向けて言っていた言葉を、今は。
(――じゃあ)
「帰ってきて……」
自分でも意識しないところで、薫の口からぽつりと想いが零れる。
「帰ってきて、抱き締めてください。ちゃんと約束どおり子作りをして、私に貴方の子供を産ませて。貴方に似た生意気で短気で可愛い子供を、私と貴方で、」
そだてさせて。
二度と口にできない願いだった。
あの日、葵が連れて来た勇魚の死を前に、もう二度と、それは叶わぬ夢なのだと、薫は思い知ったのだ。
だけど今、こうして言うことができる。
今、時を越えて、訳もわからぬまま、こうして再び生きている。
薫の独白にも似た願いに、勇魚はとうとう涙腺を決壊させた。
それは薫子だけの願いじゃない。
それはふたりの、夫婦二人の共通の願いだった。
そしてそれが二度と叶わぬ夢となってしまったのは、勇魚も同じだったのだ。
「薫子……っ!」
嗚咽のような声で薫は名を呼ばれた。
こんな呼ばれ方、前世でもされたことがない。
強いと思っていた力が更に強くなって、このまま潰されて勇魚に溶けてしてしまいそうだ。逆上せた頭で考える。
腹が立って腹が立って、もう絶対に許してやるかと思っていたのに。
薫は何故か今、酷い幸福を覚えていた。




