新潟から函館 助手席のシバ(その2) (北海道編②)
第2章 -ブルジョアジーとベルト鳴り-
栄PAを過ぎ、新潟市が近づいてきた頃には、時計の針はそろそろ夜の11時を指そうとしていた。ふと前方の緑色の案内標識に目をやって、俺は違和感を覚えた。
「おいシバ、なんか変だぞ。緑の表示板に新潟から先の地名が全然出てこないんだけど」
助手席のシバが窓の外を覗き込む。
「ん? どれどれ……あぁ、この先はまだ高速道路がないんだよ。ここから先は国道をひた走る下道ルートだよ、確か」
「なんだと? じゃあ、ここから先は一般道なのかよ。高速で飛ばす気満々だったのに、国道の制限速度って50キロとかだろ? こんなんで大間に間に合うのかよ!」
俺が焦りを隠せずに言うと、シバは助手席の道路地図と手帳を取って、得意げに鼻を鳴らした。
「ふふん、甘いな。俺の緻密な計算によれば、この一般道の区間を平均時速45キロをキープし続ければ、大間に午後6時のフェリーに余裕でたどり着けるスケジュールになってるんだよ。休憩や食事の時間も確保してでだ」
「おい、平均時速45キロのスケジュールって、この先、どこに何時にまでに着けは良いんだ?」
ハンドルを握りながら冷や汗を拭う俺に、シバはまったく動じた様子もなく、地図のページをめくった。
「安心しろって、朝の混む時間までに、下道でどこまで辿りつけるかで決まる。俺の計算だと、朝8時に碇ヶ関IC手前の矢立峠あたりに到達するはず。……大間に夕方6時に間に合うように、逆算すると昼12時にその碇ヶ関ICから東北道へ乗れれば良い。その差は4時間。問題ないね」
シバのあまりも緻密な計算結果を聞きながら、リーザ・チャチャはカクンと赤信号で停止した。新潟市内の国道へと入り込んだ車内の外では、大型車ばかりが目に付く。彼らも俺たちと同じで、徹夜で運転するライバルに思えた。
エンジン音を少し高めて、リーザ・チャチャは赤信号が青に変わるのと同時に飛び出した。――スタートダッシュで、大型を引き離す。こっちはアラン・プロストのつもりだ。
「……にしても、これから徹夜だろ。眠くならないようにコーヒーとか仕入れようぜ。あそこの角に赤い看板のコンビニショップが見えたぞ!パンも買っていこうぜ!」
「よし寄れ。新潟はまだ都会だからやってるけど、この先はマジで何もないかもしれないからな」
シバの即決に頷き、俺は軽快にウインカーを切って駐車スペースへとリーザ・チャチャを滑り込ませた。
買い出しをスムーズに終え、国道7号は日本海の荒々しい海岸線へとダイナミックにその姿を変えていく。
海岸すれすれを走る区間に入る。真っ暗な海の向こうから波の音が轟き、ヘッドライトの光が切り立った崖と黒光りする日本海を照らし出し、海岸線のカーブが次々とノーズの前に飛び込んでくる。
シバの読み通り一本道が続く。平均時速45キロどころか、時勢に乗って快調なペースを刻み始める。
――時勢。思い返せば、あのテレビCMのせいだった。
「本当に、大きい車の時代が来るのでしょうか?」
テレビ画面の向こうで、涼しげに微笑んでいた。あの、スラリと伸びた長い手足と、健康的ですっきりとした体躯。ああいう、凛とした佇まいの女性に、俺はどうしようもなく弱い。当時からずっとそうだ。
「私の。リーザ」
そのフレーズに骨抜きにされ、浪人生時代と大学一年の夏休みに夜勤アルバイトで貯めた貯金を、俺は大学1年生の秋、何の迷いもなくリーザ・チャチャの購入資金につぎ込んだのだ。
後部座席から、パンの包み紙がカサカサと鳴る音がピタリと止まり、代わりに規則正しい小さな寝息が聞こえ始める。
山形県へと突入。急カーブと小さなトンネルを抜けるたびに景色が変わり、やがて視界が開けて鳥海山の裾野をかすめた後、秋田県に入った頃からあたりがうっすら明るくなり、風が潮の匂いに変わっていく。
「なぁ」
「ん? 起きたのか?」
「俺さ、親戚のおばさんからお小遣い15万円もらったんだよね」
寝ていたと思っていたシバが、何の悪気もなく爆弾を投下した。
一食いくらのパンとカップ麺を計算し、ガソリン代を1円単位でケチっているこの極貧の節約旅において、その金額はあまりにも暴力的なブルジョアジーだった。
「……貴族かよ」
「え? なんか言った?」
「なんでもねぇよ!」
リーザ・チャチャの非力なエンジン音が、やけくそに響く。
「……でさ」
シバは欠伸をしながら、さらに言ってくる。
「北海道に着いたらさ、ちょっといいジンギスカンとか食いに行こうぜ。奢ってやるよ」
「お前……さっきから金持ちアピールがウザいぞ!俺は、おしゃまんべのカニめしが食べたいの」
「いいじゃん、旅のロマンだよロマン。ケチケチすんなって」
「旭川で野口っちでジンギスカンをごちそうになるの。フライングはダメだろ」
男鹿半島の気配を感じながら、どこまでも続く田園風景のなかをひた走る。空が広くなり、北へ向かっているという実感がタイヤを通じて伝わってくる。
朝7時前、いよいよ矢立峠に差し掛かろうかという国道は、前を走る大型トラックが長蛇の列を作り、完全に車が動かなくなっている。朝のラッシュと物流のトラックが重なった、見事な大渋滞だった。
「予想通り、朝のラッシュだ……」
俺たちの視界に、街道沿いにポツリと佇む一軒のドライブインが飛び込んできた。俺たちは砂利交じりの駐車場へとリーザ・チャチャを滑り込ませた。
食堂の暖簾をくぐり、熱々の醤油ラーメンをすする。徹夜の乾いた体にその塩気が一気に染み渡り、張り詰めていた神経が急に緩んでいく。
満腹になった俺たちは、「んじゃ、ラッシュが引くまで寝るか」と、ドライブインの片隅でそのまま3時間ほど爆睡することにした。
目覚めると、時計の針は昼前を指していた。向かいを見ると、朝の大渋滞が嘘のようにスッキリと解消され、国道は驚くほど車が少なくなっていた。
「よし、再出発だ!」
矢立峠を過ぎて、東北自動車道へ道を変え、青森市に向かう。さっきまでの下道地獄が終わって、一時のハイスピード感を味わう。青森市についたら、また下道になったが、国道7号と東北自動車道が快適だったので、この時点で30分の余裕が出ていた。今度は下北半島を縦断する一般道に向けてひた走る。
「おい、シバ。そろそろ運転代わろう。下道だったら酔わないと思うから、さすがに俺、疲れてきた」
「いや、まだ大丈夫。お前の安全運転を信頼してるから」
「大丈夫じゃないから、眠くて死んじゃうから、変わってくれ」
シバに運転を代わった。国道4号も順調に流れ、時間の余裕が増えていく、油断したシバは、道路脇に見えた「恐山」という文字の案内板に吸い込まれるように、ハンドルを左へと切っていた。
硫黄の匂いに、目が覚めた。
灰色の山肌に無数の風車がカラカラと回るその場所は、生きている人間が迷い込んではいけない場所のようだった。
現実と、夢うつつのような幻影の境界が、判別がつかなくなってくる。
「……おい、ここ、どこだよ。なんかすごくねえか?」
「恐山」
「なんで恐山に居るんだよ」
「なんとなく、せっかくだから見物しようぜ」
「ダメだって、寄り道してたらフェリーに遅れるって」
「いいから、いいから」
少しだけ観光した。イタコのおばさんがいた。
「なあ、シバ。リーザ・チャチャに戻ろう、リーザ・チャチャが呼んでるから」
イタコのおばさんが何か呟いた気がしたが、背筋が寒くなって、逃げるようにリーザ・チャチャに戻った。
エンジンをかけ、坂道を下り始めたときだった。キュルルルル……ピキッ。エンジンからベルト鳴りが響いた。山の気配を切り裂くようなその音に、俺は思わず眉をひそめる。
「おい、この音は何だ?」
「ただのベルト鳴りだ。これくらいリーザは大丈夫だ。リーザ・チャチャは、俺たちと北海道に行ける」
異界の余韻を背負ったまま、車は最果ての港・大間へと滑り込んだ。
午後6時。津軽海峡フェリーの腹へ車を飲み込ませ、俺たちは潮風の吹く甲板へと這い出た。
「おい、一番乗りだったな、俺たち!」
「すげえじゃん、船首の特等席だぞ」
「あ、弁当忘れた」
慌てて車へ戻ろうとする俺の前に、屈強な乗務員のオジサンが仁王立ちで立ちはだかった。
「お客さん、どこ行くんですか。出港準備中の車両甲板への立ち入りは禁止です」
「いや、車の中に新潟で買った今日の晩ご飯用の弁当を置いてきちゃって……!2分で取ってくるんで、ちょっとだけ扉を開けさせてください!」
「いえ、もうだめです。車を隙間なく乗せていますので、扉をあけることもできません。諦めてください」
有無を言わせぬ鬼の形相に、俺たちはすごすごと退散するしかなかった。
「……まあ、売店で何か買うから、別に構わないけど」
「そんな他人事のように言って、ってお前.......あ、お小遣いを使うのか?さっきおごるって言ったよな。俺覚えているから……!」
大間フェリー内で、1人の女性を見かける。服装は時代遅れのシックな感じだったので目についた。
「おい、シバ。あのさ、あそこの女性……なんかすごく雰囲気あるよな。すらっとした。背の高い女性じゃないか、あの白いワンピースがカッコいい」
「ん? どこだ……あぁ、ほんとだ。なんか映画から飛び出してきたみたいな格好してんな」
胸の高鳴りを抑えきれず、俺はカバンからカメラを取り出し、レンズを向けた。この旅の記念すべき1枚目を撮った。
「でも、一人旅って、珍しくないか?」
「……これはチャンスかもしれない。思い切って、声をかけようぜ!」
「ばっ、お前何言ってんだよ! そんなの無理に決まってるだろ! 絶対不審者だと思われるからやめとけ!」
そんな馬鹿なことを小声で囁き合っているうちに、船は轟音を上げて北へと進んでいく。
津軽海峡の向こうに、宵闇と夕焼けが混ざり合う函館の街並みが、影絵のように姿を現し始めていた。
「おい……見えてきたぞ」
シバが小さく呟いた。
「ああ、ここからが本番だな……」
いよいよ始まる北の大地でのサバイバルへと思いを馳せたのだった。
車両甲板へ降りて、車に乗り込もうとした時に、さっきの女性が声をかけて来た――。
(続く)




