第2話 函館から室蘭 助手席のワンピース(北海道編②)
北海道編② <ヒッチハイクと幻になったカニめし>
開店と同時にホテルの朝食を胃袋にかき込み、俺はふと窓の外に目をやった。
「おいシバ、見てみろよあれ」
「ん、なんだよ……って、嘘だろ」
窓の向こう、函館の国道沿いにぽつんと立っていたのは、昨日のフェリーで見かけた、あの時代遅れのシックなワンピースを着た少女だった。こんな朝早くから、一体何をしているのか。
「あれはヒッチハイクだよな。おい、もし出発の七時半にあそこにまだ居たら、乗せてやろうぜ」
「まじかよ、定員オーバーを起こして荷物でパンクしてるのに……まあ、困っている人を助けるというなら考えるけどさ」
そして、チェックアウトを終えてホテルの駐車場へ向かい、リーザ・チャチャのキーを捻る。
エンジンをかけると、再びあの乾いたベルト鳴り――キュルルルル……。不気味な相棒の悲鳴を背負いながらホテルを出ると、驚いたことに、彼女はまだそこにしっかりと立っていた。
車の窓をそろりと下ろすと、彼女の手には手書きで「室蘭」と書かれた段ボールが握られている。
奇しくも、今日の俺たちの目的地も、室蘭だった。
「乗るか?」
俺が声をかけると、彼女は無言のまま小さくうなずき、助手席へと滑り込んできた。
必然的に、シバは、「なんで俺がまた……」と文句を垂れながら、再び後部座席のシュラフとクッカーの隙間に押し込まれることになった。
「そういえば、せっかくだから五稜郭を観光していかないか?」
俺たちのそんな提案に、彼女はこくりとうなずいた。早足で星型要塞を散策し、どこか現実離れした空気をまとう彼女を連れて、俺たちは再びリーザ・チャチャに乗り込み、一路室蘭へと車を走らせた。
だが、ここからが苦難の始まりだった。
函館を抜け、国道5号と国道277号のふたつの主要幹線が合流する地点に差し掛かると、そこには想像を超える大渋滞が待ち受けていた。車が溢れかえり、ピクリとも動かない。
このノロノロ運転のペースでは、今日中に室蘭へ着けるかどうかも怪しい。焦る俺をよそに、助手席の彼女は窓の外の景色を眺めているだけだった。
「なあ、北海道に来た最大の目的の一つを覚えているか?」
渋滞のイライラを紛らわすように、俺は叫んだ。
「おしゃまんべのカニめしだろ! 俺はあれを食うためにここまで走ってきたんだ」
ようやく渋滞を抜け、道沿いに「カニめし」の大きなのぼりがはためいているのが見えた。
そこには「ながまんぶのカニめし」と書いてある。
「……ん? ながまんぶ?」
「パクリかよ!」
「おっ、おしゃまんべに行ったら。ドライブインに停まろうぜ!」
俺たちはカニめしにありつける期待と同時に、ふと別の現実的な思いを巡らせていた。こうした大きなドライブインなら、室蘭方面へ向かう長距離トラックが止まっているかもしれない。
「なあ……」助手席の彼女に切り出した。
「悪いけど、今日中に室蘭には着かないかもしれない」
「でも、こういうカニめしのドライブインなら室蘭行きのトラックが見つかるからさ、そこで俺たちの車を降りて、室蘭行きのトラックに乗り換えた方がいいんじゃないか? 」
「そうだな。夜になっても走るトラックの方が確実だし、俺たちは野宿だからさ……」
しかし、彼女は首を横に振った。
「私、野宿で構わない」
「いや、こっちが構うんだって!」
そんなやり取りをしながら、目線を道路脇ののぼりに戻す。
「おしゃまんべは、まだ先かな?」
リーザ・チャチャは軽やかにそのドライブインを通り過ぎてしまい、結局カニめしを逃してしまった。
いよいよ夕方が近づき、太陽が沈み始めると、野宿の場所を確保しなければならないという焦りが俺たちを襲った。渋滞のロスが響き、このままでは室蘭どころか夜の闇に取り残されてしまう。
結局、彼女をトラックに乗せ換える計画も白紙になり、カニめしにもありつけないまま、俺たちは夕暮れの洞爺湖周辺へと追い込まれていった。
すっかり日の落ちた洞爺湖のキャンプ場に滑り込み、俺たちは暗闇の中を手探りでテントを張るスペースを探し出した。
「布陣はどうする?テントは2人用だぜ」
「寝袋は3つある。こうしよう。彼女と、あと一人は車内で寝袋。で、残りの一人は外のテントで寝袋だ」
ジャンケンで負けたわけでもないのに、なぜか外のテントで寝る羽目になったのはシバだった。
そして――。
昨夜の疲労もあり、泥のように眠りこけていた俺の耳に、白み始めた明け方の空気を切り裂く激しい音が飛び込んできた。
ガンッ! ガンッ! ドアを叩く音だ。
「おい、開けろって! 開けろよ!」
「……ん、なんだ?」
「北海道の夜なめんな! 死ぬほど寒いから、頼むから中に入れてくれ……!」
テントで薄いシュラフに包まれていたはずのシバが、ガタガタと歯を鳴らし、青い顔をして車のドアにしがみついていた。
慌ててドアを開けてシバを後部座席に滑り込ませ、暖をとるために俺はキーを回してエンジンを始動させる。俺は体をほぐすために車外へと出て、うっすらと明るくなり始めた洞爺湖の湖畔を一人で歩いた。
「たしかに寒い。テントも寝袋も薄いから、テントで寝るのはやめた方が良いな」
「そうですよ。気をつけてください。死んでしまいます」
俺は、ギョッとして振り返った。彼女が、そこにいた。
凍てつく洞爺湖の朝を抜け出し、俺たちは海岸線を室蘭へ向けてリーザ・チャチャを走らせた。
室蘭市街の手前、俺たちは彼女の希望で、東室蘭駅の前に車を停めた。
「ここでいいのか?」
「はい。ありがとうございます」
彼女が車を降り、俺たちは再びアクセルを踏み込んだ。その瞬間、またしても『キュルルルル……』と、リーザのベルト鳴りがした。まるで、何かが名残惜しそうに。
その後、俺たちは室蘭の観光名所である「地球岬」へと足を運んだ。
太平洋の水平線が丸く弧を描く雄大な景色は圧巻で、昨日の大渋滞やカニめしの幻影を忘れさせるほどの美しさだった。見渡す限りの青い海と、どこまでも広がる空。
「さて、次の目的地は襟裳岬、そしてその先にある釧路湿原だ」
「よし、準備は万全か?」
「お前の運転と、俺の計算があれば恐いものなしよ。まあ、昨日のテントはちょっとトラウマだけどな」
シバがそう言って助手席に乗り込む、車内には、軽快な空気が戻っていた。
一旦、市内に行く細い道を進む。視界の端、ワンピースの裾がひらりと横切った気がした。
「お……」
俺は思わず、車を路肩に急停車させた。
「どうしたんだよ、急に停まって」
「いや……そこに、彼女が立ってた気がしたが、誰もいないな」
シバは、前方を凝視しながら、真面目な顔つきになって呟いた。
「なあ……思ってたんだけどさ」
「なんだよ」
「あの彼女って、本当に人間だったよな?」
「は? 何言ってんだよ、さっきまで、ここに乗ってたろ」
「いや、そうだけどさ……。あんな美人がヒッチハイクして、俺たち以外の誰も声をかけないなんてことあるか? もしかして、俺たちだけにしか見えてなかったんじゃないよな?」
心臓が、わずかに縮み上がる感覚がした。
「ばか言うな。ちゃんと足もあったし、言葉だって交わしただろ」
「だけどさ……思い出してみろよ。時代遅れの服を着て、肌は透けるように真っ白で、声も虫の息みたいに小さかった。それに、俺たち……青森でどこに寄ったっけ?」
「……」
「「恐山」」
その地名が出た瞬間、車内の空気が凍りついた。
あの硫黄の立ち込める異界で、いたこのおばさんの前を逃げるように通り過ぎた記憶が、急に脳裏に蘇る。あのとき、おばさんが何か言った気がする。
静寂を遮るように、リーザのエンジンルームから、尋常ではない音量でベルト鳴りが響き始めた。
『キュルルルル』
『キュルルルル、キュルルルル……!』
「うわっ、なんだこれ! やめてくれーっ!」
シバが頭を抱えて叫ぶ。悲鳴のようなベルト鳴りは、車体を激しく震わせたかと思うと、まるで嘘のように、ピタッと止まった。
静寂が戻る。
「おい、ベルトがどうにかなったのか? ちょっと確認してくれよ」
青い顔をしたシバに促され、俺は恐る恐る運転席のドアを開けて外へ出た。
――だが、そこにあったのは、道路脇の墓地。
「シバ、あそこにお墓がある」
よく見ると、お墓は1つではなかった、道路から見下ろす斜面には、無数の古い墓標が静かに並んでいる。潮風が吹き抜ける、その場所は室蘭の海を見下ろす古びた墓地――モトマリ墓地だった。
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私の名は、お里佐。真っ暗な中、名を呼ばれた気がした。気が付くと青い乗り物に乗っていた。
船に乗って、ホテルに着いて、道路沿いで立っていたが誰も助けてくれない。
あの青い乗り物の男たちが、声をかけて、乗せてくれた。
この人たちは暖かい。そばにいると私も楽しくなる。
湖の傍、この人たちは危うい。そんなに油断しては命を落とす。心配になる。
故郷が近づいて来た。このあたりなら覚えている、惜しみつつも室蘭駅で別れた。
私のお墓は、室蘭半島の先、あの人たちにはもう会うこともない。眠りにつこう。
あ、あの青い車がある。また会った。
すがりたい欲と、別れの決意がせめぎ合う。気が付くとまた青い乗り物に乗っていた。
(続く)




