金沢の日常② 助手席の写ってない写真
金沢日常編② <タイトスーツの反面教師と消えた旅の写真>
夕方、俺はリーザ・チャチャを走らせ、金沢市内の住宅街にあるフランチャイズ塾へ向かった。後部座席には、北海道旅行のお土産である「バター飴」の袋が積み込まれている。
教室の前に車を停め、俺はドアを開けて中に入った。カウンターの奥の席には、塾長の姿があった。
スリーピースのタイトなスーツに身を包み、キャリアウーマン風の完璧なメイク。40代という年齢を感じさせない凛とした佇まいは、生徒や講師たちから「ゴッド・マザー」の愛称で慕われるだけの包容力と威厳を放っている。
「あら、あなた。北海道はどうだった?」
紅茶を淹れながら尋ねてくる彼女に、俺は土産のバター飴の袋を差し出す。それを受け取った塾長は、どこか気恥ずかしそうに首をすくめながらも、さっそく袋を開けて一つ口に放り込んだ。
「ん、美味しいわね。最近のお菓子と違って個包装されてない、こういう昔ながらの素朴なところが良いのよ」
目を細めてバター飴を味わう彼女に、俺はほっと息をつく。だが、紅茶を一口啜った塾長は、ふと何かを小さくため息をついた。
「ねえ、聞いてくれる? 最近、近所のおば様たちの間で変な噂が流れてるのよ。『夕方になるとスーツを着込んで出かけていくけど、もしかして夜の街のホステスに転職したんじゃないか』って」
「ホステスですか……?」
「そう。子どもたちの下校時間に合わせて出勤するこのスケジュールが、ちょうど夜の商売の出勤時間と被るらしいのよ。本当に、勝手なこと言ってくれるわよねえ」
完璧なメイクの顔を少しだけしかめながら紅茶のカップを置く塾長に、俺は思わず苦笑した。
「いやあ、でも、塾長は美人だから余計にそんな筋違いな噂が立つんですよ。モテる苦労ってやつじゃないですか」
「馬鹿ねえ、からかわないでちょうだい。こっちは真剣に悩んでるんだから」
そう言いながらも、彼女は悪い気はしないのか、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。その隙を突くように、俺は昨日起きた大事件の話題を切り出した。
「実は自分からも塾長に相談があるんです。今日、隣町の生徒の家庭教師に行ったんですけど、そこで『褒めて伸ばす』を実践したら、危うくこっちが貞操の危機に陥りかけまして……」
「あら、どういうこと?」
塾長が興味深そうに眉を上げる。俺は午後の顛末――宿題を完璧に終わらせていた教え子からの「褒めて、褒めてよ」というゼロ距離攻撃、そして唇を突き出された恐怖と、ベランダの室外機が突然暴れ出した怪現象の一部始終を、冷や汗を流しながら説明した。
「教本の通りに、課題を達成した直後に褒めただけなのに、あわや教師の人生が吹き飛ぶところだったんです。どうしてあんな危険な事態になるんですかね」
俺の訴えを聞き終えると、塾長はクスクスと上品な笑い声を漏らした。そして、カウンターの下から取り出した一冊の冊子を、コツンと机の上に置いた。
「私が作った『教育教本』を参考にしたのね」
「え……?」
「あんたねえ、多感な時期の高校生の女の子に向かって、大人が無防備に頭なんか撫でるからよ。男の隙がありすぎるのよ、まったく」
「子どもが仕掛けてくる小賢しい誘惑なんて、大人が堂々と受け流さなきゃダメよ」
さらに、俺の顔をじっと見つめながら、言葉を重ねてくる。
「そういう時は、撫でるじゃなくて、ポンポンと軽くたたくのよ。そもそも、たかが高校生の女の子にそれくらいで揺らぐなんて、あなた、よほど余裕がないじゃないの?フラストレーションを溜め込むと隙ができるのよ。ちゃんと彼女でも作って、うまくガス抜きをしなさいよ、大人の男なんだから」
「そんなこと言われても、彼女を作るなんて口で言うほど簡単じゃないですよ」
俺が思わずムキになって反論すると、塾長はクスクスと意地悪く笑った。
「そう? 私がもう十年若かったら、喜んでその相手に立候補するんだけどねえ」
「いや、塾長なら今でも十分現役ですし、俺の好みから言ったらストライクゾーンど真ん中ですよ」
勢いそのままに返すと、塾長の頬に、ふっと鮮やかな紅が差した。
「ちょっと、大人をからかうもんじゃないわよ……!」
少し狼狽えたように目を泳がせたあと、彼女は慌ててフンと顔をそむけた。
生徒の誘惑には乗るなと説教しておきながら、いざ自分に向けられるとあっさり赤面して動揺する。――なんだ、この塾長こそ、大人の余裕が全然できていない、最大の反面教師じゃないか。心の中でそうツッコミを入れながら、密かにほくそ笑んだのだった。
「それでは夏期講習が始まったら、またよろしくお願いいたします」
俺は腰を浮かかけ、席を立とうとした。すると、塾長は名残惜しそうに身を乗り出し、声を上げた。
「え、もう帰ってしまうの? せっかく来たんだから、もう少し相談に乗っていってよ」
先ほどまで「大人の対応をしなさい」と偉そうに説教垂れていたくせに、いざ相手が帰ろうとすると引き止めようとする態度に、俺は思わず内心で「こいつはダメだ」と盛大に呆れた。説得力ゼロの反面教師ぶりには、さすがに脱帽しかない。
苦笑いを浮かべつつも、「また夏期講習の時に来ますから」となだめ、俺は塾をあとにしたのだった。
俺は塾をあとにすると、途中の弁当屋で海苔弁当を買い、そのままシバのアパートへと向かった。ドアを叩くと、相変わらず無造作な髪をしたシバが迎えてくれる。
部屋に上がり込むと、テーブルの上には現像されたばかりの旅行の写真が積み上げられていた。
「おお、来たか。ちょうど、写真が仕上がったところだ。気に入ったら1枚30円な」
シバが何枚かの写真をパラパラとめくる。北の大地の風景や、車や、疲れ果てたお互いの間抜けな顔がそこに映し出されていた。しかし、パラパラとアルバムのように写真を繰るうちに、俺はある重大な違和感に気づいた。
「おい、シバ。ちょっと待てよ……。室蘭で別れた彼女が、この写真の中に一枚も写ってなくないか?」
俺が不審な目を向けると、シバはただ気まずそうに目を泳がせるばかりだった。
「あー……、五稜郭や洞爺湖で、レンズを向けたかどうかは覚えていないな」
「いや、一緒にいたのに一枚もないって不自然だろ。もしかして、隠しているのか?」
「うるせえな、詮索するなっての!」
シバが声を荒らげる。そんな空気を紛らわせるように、俺は大きく息をついた。
「はあ……それにしても、北海道の間はずっと運転係だったから、一滴も酒を飲めなかったんだよな。そろそろアルコールが猛烈に飲みてぇわ」
俺のボヤキを聞き逃さず、シバは待ってましたとばかりにニヤリと笑った。
「それならちょうどいい。明日、コンパがあるから、お前も参加しろ」
数十分前に塾長から「ちゃんと彼女を作ってガス抜きをしなさい」と説教されたばかりのタイミングとあって、この誘いには運命を感じた。ここでしっかりと息抜きをするのも悪くない。
「よし、乗った。明日のコンパ、参加させてもらうわ」
俺が即座に返事をすると、シバは「お、いい返事じゃねえか」と満足そうにうなずいた。
「でさ、店はどうするんだ?」
「そこは計画済み。夕方にディスコの店頭で予約して、入れるまでの時間つぶしに、まずは片町のダイニングバーを押さえてある。そこで軽く飲んで、時間になったらスマートにディスコへ流れる、平成元年の王道コースよ」
「なるほど、完璧だな。ちなみに、そういう時の服装ってどうしたらいいんだ? あまり気合入れすぎるのも変だし、かといってラフすぎるのもな……」
俺が問いかけると、シバは顎に手を当てて少し考え込んだ。
「そうだな……。夏だし、気負いすぎない鮮やかなカラーシャツじゃないか?」
・・・・・・
私の名はお理佐
函館の師範学校を無事に卒業したあの時、家族とともに写真館で緊張しながら撮影してもらった。その一枚を持つことが大変だったのに、今ではあの小さな機械で何枚だって簡単に撮れるなんてね……。それなのに、彼らの旅を写した何十枚もの写真のどこにも私の姿が残されないことが残念でならない。あの北の大地の旅の道中、ずっと彼らの隣に寄り添っていたというのに、霊の身ではレンズをかすめることすら叶わぬらしい。
この男たちは、明日の企みについて声を弾ませている。何やら「こんぱ」なる集まりに参加し、その後は「だいにんぐばー」を経て「でぃすこ」とやらに繰り出す計画なのだとか。浮かれた表情や、胸を躍らせている姿を見ているだけで、私まで胸の奥が温かくなるようだ。姿かたちは写らなくとも、どんな鮮やかな夜になるのか、今から明日が楽しみでならない。
(続く)




