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第3夜:学名

〜2005年6月下旬〜


その日の昼間、直也は自室で工作をしていた。

彼のデニムの帽子には3つのバッヂが付いていたが、今は4つ目を作成している。

それぞれ白い四角い板の上に『7』、『0』、『南京錠』の紫色のマークが付けられていた。

「よし」

彼はバッヂを作り終えると帽子に取り付けた。

帽子を被り洗面台の鏡で自分を見る。

4つ目のマークは『錨』だった。

「鏡に姿が映らないなんてのは迷信だったね」

そう呟き、直也は完成した帽子を眺めていた。

『ピンポーン』

玄関のチャイムが鳴った。

「はーい」

直也は玄関に向かう。

磨りガラス越しに2人のスーツを着た人影が見える。

「どちら様でしょうか?」

直也が尋ねた。

「私達は『オオムラサキ製薬』から来た者です。斎藤直也さんのお宅ですね?」

男の声が響く。

「ええ、そうですけど。なんの御用ですか?」

「この度は『治験のアルバイト募集』で伺いました。直也さんがご在宅でしたら、良ければお邪魔してもよろしいでしょうか? お話をしたいのですが」

その言葉を聞いて、直也は目を細めた。

『オオムラサキ製薬』とは『鈴木グループ』に属する大企業だ。

「分かりました、今開けますね」

直也は訝しげに玄関の鍵を開けた。

「おじゃましま……」

玄関に入って来た2人の男は彼の姿を見て驚く。

「下着姿じゃないですか! そんな焦って出なくても」

顔を背ける2人。

直也は下着と帽子しか身に付けていない自分の姿を見て、

「ああ」

と声を漏らした。

「まぁ、いいかって思ったけど、女の姿でこの格好はだめか……」

その言葉を聞いて男は直也の方に向き直る。

「男の姿でもダメでは? と言うより、もしかして直也さん本人ですか?」

「はい」

直也が頷く。

「やっぱり男性からに女性に姿が変わったんですね」

「知ってるんですか?」

「ええ」

「そうなんですか……。とりあえず、立ち話もなんですから、上がってください。あ、ズボン履いて来ますね」

直也はそう言うと2人の男を家に通した。


居間に通された2人のスーツ姿の男。

彼らは直也からお茶を差し出されると軽く頭を下げる。

そして、名刺を直也に渡した。

「我々は先程も伝えましたが、オオムラサキ製薬から来た者です。よろしくお願いします」

直也は名刺を受け取る。

「こちらこそ。よろしくお願いします。それで、お話と言うのは?」

直也が尋ねると、男は鞄から書類を出す。

「この度は勝手ながら我々で貴方の事を調べさせて頂きました。浜松で噂になっている事や貴方が搬送された病院に聞き込みをしまして」

「だから僕の事を知ってたんですか……。僕の住所も病院で聞いたんですか?」

直也が首を傾げた。

「はい」

「それって個人情報的に良くないんじゃ……」

「今回、我々は貴方の特異な体質について調べたいと考えています」

直也の疑問を無視して、男が話を続ける。

「そのために我々の研究所がある埼玉県に来て頂きたいのです。今回はそのお願いのために伺いました」

男はそう説明すると一枚の契約書を直也に渡した。

そこには『治験のアルバイト募集』と書かれている。

直也はそれを手に取り、書類を読み始めた。

「7月から1ヶ月間の治験のバイト。……日当は……10万!?」

金額に驚く直也。

「はい。実際は貴方の特異な性質を調べるための研究が目的ですが、今回は『治験のアルバイト』として契約を交わして頂きます」

「あ、あの……その……。これって大丈夫なんですか?」

直也は怪訝そうに男を見た。

「ええ、大丈夫ですよ。少し体を調べるだけですから。その間の宿泊場所や費用についても我々が負担します。特に難しい事はありません。貴方は1ヶ月間、我々の治験に協力してくれれば良いのです」

書類をまじまじと見詰める直也。

今晩、彼は町外れの風俗店に面接に行くつもりだった。

4月の感電事故は市が賠償を認めてくれた。

更に体質の変化で太陽光を浴びられなくなった事も市は保証してくれて、障害者手帳も配布されている。

しばらくは仕事をしなくても良い程度の余裕が彼女にはあった。

それでも直也は仕事をしたいと考えている。

だが、ハローワークに行っても、日中は働けないのと特異な見た目のせいで、なかなか採用に漕ぎ着けていなかった。

特に戸籍と外見で性別が違う事が面接官の不評を買っている。

彼には今回の誘いを断る理由が見付からなった。

「是非! 是非ともお受けしたいです」

直也が言うと、2人は表情を綻ばせる。

「そうですか! それは嬉しい返事ですね。では、早速ここにサインを……」


こうして、直也は7月から1ヶ月間のオオムラサキ製薬の『治験のアルバイト』に行く事に決まった。


「ええ? 怪しくない? これ」

その日の夜、直也は和子に治験のアルバイトの事を伝えた。

書類を読んだ和子は訝しんだ。

「日当10万円って何されるか分かったもんじゃないわ」

「でもさ、あのオオムラサキ製薬だよ」

ソフトクリームを食べながら直也は答えた。

直也は生肉以外にも、動物由来の食べ物や一部のフルーツは食べても体調に問題はない。

「天下の大企業! 鈴木グループの内の1社。安心だよ?」

「まぁ、そうだけど。今のなおは本当に普通とは違う状態だと思うから、怪しい研究に巻き込まれて酷い目に遭うんじゃないかって。心配なのよ」

和子は直也の目を見る。

彼は手にあったソフトクリームを食べ終えると、彼女を見た。

「でも、凄いお金払ってくれるし、大丈夫だって言ってたし。気にしないで」

「うーん……」

不安そうな和子を宥める直也。

その後も2人はしばらく会話していたが、結局直也の考えは変わらなかった。




〜2005年7月上旬〜


その日の午前中、直也は宿泊の荷物を用意して待っていた。

体を太陽光に焼かれないための対策として顔を含めて全身を黒い布で覆っている。

その姿はまるで不審者だ。

彼がそうして待っていると、チャイムが鳴った。

「斎藤直也さん。お迎えに上がりました」

男の声が家に響く。

直也はリュックを肩に掛け、玄関を出た。

そこには一台のバンが停まっており、スーツ姿の男が直也を呼ぶ。

「おはようございます、直也さん」

日光の眩しさをサングラス越しに感じながら、直也は家の鍵を閉め、太陽の元に出た。

「さあ、乗って下さい」

スーツの男がバンの扉を開いた。

「おはようございます。よろしくお願いします」

直也はそう挨拶をすると車に乗り込む。

そうして、車は発進した。


長い間、直也は車に揺られ続けた。

静岡から埼玉までの移動。

最初、直也はずっと黙っていて、ただただ外を眺めていた。

しばらくして、その静寂に耐えかねたオオムラサキ製薬の社員が彼に声を掛けた。

最初は社員の質問に答える程度の会話しかできなかった直也だが、次第に彼からも社員に会話を切り出す様になる。

初めは世間話を、

次に最近のニュースを、

その後、自分の人生歴を、

最後には自分の趣味の話をしてしまった。


「なるほど、今のロボットアニメってそんな感じなんですね」

助手席の中年の社員が言う。

「そうなんですよ。最新の作品がさっき話した奴で」

直也は嬉しくて少し口調が速くなっていた。

「いや、もう良いっス。俺らオタクじゃないんスよ」

運転席の若い社員が直也の話を遮る。

「あ、え、すみません。話しすぎちゃいました……」

直也はサッと体温が下がった感覚に襲われた。

「でも、話してみたらイメージと違いますね?」

助手席の社員が言う。

「そうですか?」

「ええ。噂話や写真を見て想像していた雰囲気と違うなと思いまして」

「どう言う第一印象だったんですか?」

直也は微笑みながら社員に尋ねた。

「そうですね……。私が感じた第一印象はクールでミステリアスなイメージでしたね。でも、実際話してみると人見知りなんだなと思いました。物静かと言うよりただの引っ込み思案と言いますか」

「え、あ……。はい……」

その答えに直也は苦笑いを浮かべる。

「『浜松のヴァンプ』なんてヒーローではなくて、お人好し人間なんだなと。悪い意味じゃないですよ」

「あ、ありがとうございます……」

直也は少し恥ずかしくなって俯いた。

「あー、オレが一番驚いたのは、やっぱオタクだった事っスかねー」

運転していた社員が言う。

「あ、ええ。僕はオタクだと……思います」

「だってアレっしょ? エッチなアニメとか見るんでしょ? えーと、深夜アニメって言うんだっけ? そう言うの好きなんですもんね? あとは子供向けの番組が好きなんスよね? 特撮って大人が見る物じゃないっスもん。直也さんって子供なんだなーって」

直也は趣味の話をした事を後悔した。

噛み締めた唇を緩め、彼は顔を上げる。

「あー、ははは。僕幼くて」

直也は笑顔を作った。

「あ、そう言う事でしたか! なるほど!」

助手席の社員が納得して声を上げる。

「特撮ヒーローが好きだから、そんなヒーローごっこしてたんですね」

「あぁ……ええ。そんなところです。はい……」

直也は条件反射で言葉を返す。

「なるほど、なるほど。納得しました!」

直也は首を傾げた。

「何がですか?」

「え? だって、普通自分から事件に巻き込まれる様な事しないですもんね。ましてや人助けなんてリスクしかない事、普通の大人はしませんよ。直也さんはヒーローごっこがしたくてああ言う事をしてたって事なんですね」

今まで直也はナイフで刺されたり、バットで殴られたり、車で轢かれたり、様々な怪我を受けて来た。

だが、今はそれ以上の痛みを感じている。

「……」

「まぁ、分かるっスよ? オレも幼稚園児の頃はTVの前でやってましたもん。『ヘンタイ』ってね。直也さんも人助けする時は何か決めポーズでもするんスか? 後で見せて下さいよ」

「はは……。決めポーズは……ないですかね」

「え、じゃあオレらで考えましょうよ! どんなんが好きっスか? やっぱマスクドバイカーみたいな……」

2人の声が直也の頭の中で遠くに聞こえていた。


「直也さん、直也さん?」

直也はしばらく呼び掛けに反応せず虚な目をしていた。

右の手で掴んだ左の腕から血が流れている。

食い込んだ鋭い爪が彼女の皮膚を裂いていた。

「聞いてるっスか? 直也さん?」

運転席の社員が大きな声で呼ぶと直也はハッとする。

「あ、え、ああ。はい……」

「どうしたんスか? ほら、名前なににするんスか?」

その問いに直也は首を傾げた。

「名前?」

「ほら、ヒーローの通り名っスよ」

「そうそう。オタクだからこの手の話は好きでしょう? 吸血鬼ブラックとか、レッドヴァンパイアとか?」

助手席の社員がニヤニヤしながら直也を見る。

「ああ、そうですね……」

2人の社員が楽しそうに直也の回答を待った。

そして、

「ホモ・カニバル」

直也が呟く。

「ホモ? なに? ホモってゲイっスか?」

運転席の社員が楽しそうにしていた。

「なんかダサいっスね」

一方、助手席の社員はその名前を聞いて興味深そうに直也を見た。

「……ほう、学名ですか。ホモ・カニバル……。どう言う意味でその名前にしたんですか?」

「え、学名なんスか? これ」

「そ、そうです……。二名法……です」

直也が説明を始める。

「人間の学名が『ホモ・サピエンス』なので、肉食性の類人猿の僕は『ホモ・カニバル(Homo・Carnivore)』かなって。……面白くないですね。ははは……」

直也は恥ずかしそうに俯いた。

「いや、良い名前だと思いますよ」

助手席の社員が言う。

「え、マジっスか」

運転していた社員は意外そうな顔を浮かべた。

「病院からの情報であなたの事を知りましたが、確かに貴方は人間とは掛け離れた構造、特徴を有しています。これから我が社で様々な調査をしていくでしょうが、貴方は恐らく人ではない新しい動物だ。新種には学名が必要でしょう。貴方が考えたその名前、上に伝えてみようと思います」

助手席の社員は真面目な顔で直也を見る。

「あ、ありがとうございます……」

直也は少しだけ報われた様な気がした。


更に時間が過ぎ、バンは埼玉県某所にある山中に到着する。

木々の中に隠れるように建つ大きな研究所に入ったバンは駐車場に停まった。

「ふぅ! ようやく着いたっス」

運転していた社員はバンから降りると大きく体を伸ばす。

「いやぁ、年ですね。同じ姿勢でいると肩が凝ってしまって」

助手席の社員は自分の肩をポンポンと叩いていた。

直也は荷物を抱えると、トボトボと後部座席から降りる。

「あ、あの。日陰に……」

直也は窮屈そうに肩を縮めて、荷物を抱き締めるように立っていた。

「そんな緊張しないでも大丈夫ですよ。ささっ、吸血鬼さんこちらへ」

中年の社員はそう言うと直也を建物の中へと案内した。


建物に入ってから、直也は改めて『治験のアルバイト』の内容の説明をされた。

そして、1ヶ月間泊まる事になる部屋に案内され、そこに荷物を置く。

午前中はそれで終わり、午後から検査が始まった。


まずは身体能力の測定が始まる。

しかし、施設で支給された運動着が直也の体に合わない。

胴体の大きさに合わせると四肢が窮屈で、四肢の大きさに合わせると胴がブカブカになってしまった。

仕方がないので彼女は下着姿で検査を進める事になる。


最初にランニングマシンを使った走力、次にダンベルや計測装置を使った筋力、更にボールマシンを使った動体視力、障害物を乗り越えるジャンプ力、他にも様々な身体能力の測定を順調に行なっていく。

全て屋内で計測しているので、太陽光に怯える必要はない。


食事は彼の食性に合わせ、生肉と果物が用意された。

与えられた部屋も綺麗で穏やかな安眠ができる。

ただ、通信機械の使用は許されず、携帯電話は没収されていた。


毎日のように行われる血液や排泄物の検査。

体温や血圧、脈拍の測定。

それらが寝ていようが、起きていようが、風呂に入っていようが常に行われる。

直也は仕事なので文句を言わずに素直に従う。


こうして日々の身体能力の測定で7月の上旬は過ぎていった。

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