第1夜:変態
〜2005年4月下旬〜
カーテンで閉め切られた暗闇の部屋の中。
布団から1人の女性が起き上がった。
真っ白な体、長身、筋肉質な容姿。
彼女の赤い眼光が暗闇に光る。
起き上がった彼女は窓際に移動すると、震える手でカーテンに手を伸ばした。
紫色の鋭く長い爪がカーテンの一片を摘む。
開かれたカーテンから透き通った陽日が差し込み、暗闇を裂いた。
陽日に触れた彼女の瞳孔は肉食動物のように鋭く閉じる。
その猫目の先には生命が広がっていた。
子供達が楽しげにスキップし、会社員が気だるげに出勤し、主婦が玄関を箒で払う。
太陽のエネルギーを浴びて生命が輝いている。
しかし、そのエネルギーは彼女の肌を焦がしている。
これは比喩ではない。
陽日を浴びた氷のような肌は煙を上げて焦げているのだ。
彼女は暗闇に逃げ込んだ。
焦げ付いた皮膚は暗闇の中でじわじわと再生していく。
彼女は溜息を吐くと布団の中へ潜っていくのだった。
〜2005年4月上旬〜
斎藤直也は意気消沈していた。
それは彼が先月会社を辞めたばかりだからだ。
20歳の時に専門学校を退学してから4年間、就職と退職を繰り返していた。
仕事は1年程度しか続かず、既に3社も辞めている。
彼の瞳には絶望が広がっていた。
この日、斎藤直也は悪天候の中で散歩をしていた。
嵐が叩き付ける雨の痛みは彼の心の辛さを誤魔化してくれている。
濡れた服が直也の体に重くのしかかる。
コンビニでタバコを買い、煙を吸う。
その帰路の出来事だ。
『ギシギシ』
直也の頭上で異音が鳴った。
嵐が街路樹を叩いている。
その街路樹は枯木で、今まさに折れようと傾いていた。
「……」
直也は足を止めた。
折れそうな枯れ木を見て考え込む彼。
『バキッ』
枯木が遂に風に負けて倒れた。
その塊が直也に向って降り注ぐ。
「……!」
ハッとした彼は避ける選択を取る。
枯れ木は彼の目の前を過ぎて地面に落ちた。
『ブチッ』
「このまま怪我でもしてれば慰謝料でも貰えてたんだろうにな。くそっ」
直也はそう呟くと溜息を吐いて歩き出す。
「母親を泣かせちゃ、おし……」
その時、直也の足元で光が溢れた。
『バチバチバチ!』
全身を貫く激しい痛みが彼を襲う。
「ぐがあああ!」
彼の視界に千切れた電線が見えた。
電線から溢れた高電圧が雨水を走り、彼の体を焦がす。
激しい痛みの中で彼は自分の幕切れを悟った。
彼は裂けるような痛みの中で意識を失う。
〜2005年4月中旬〜
白い無機質な病室の中、その異質な存在はいた。
ベッドの上に赤黒く染められた蛾の蛹のような物体が置かれている。
一週間以上前に運び込まれたこの蛹は人型であるものの、全体は黒い瘡蓋で覆われている。
『ピッピッピッ』
一見すると死んでいるように見えるこの蛹は生きている。
繋がれた機械が放つ電子音がこの蛹の鼓動である。
「……」
蛹の横には壮年の女性が椅子に座っていた。
彼女は酷くやつれた顔で蛹を見詰める。
『ガラガラ……』
そこへナースが替えの点滴を持って入ってきた。
「失礼します」
ナースは壮年の女性を見る。
「和子さん、一旦帰って休みましょう」
「……」
無言で蛹を見詰める斎藤和子。
ナースは蛹と和子を交互に見て、目を逸らした。
そして、彼女は作業に戻った。
『ピッ! ピッ! ピッ!』
唐突に機械が激しいリズムを刻む。
モニターには危険な状態を示す映像が映し出される。
「いや! 直也! やめて!」
和子は目を剥いて蛹を見た。
ナースは慌てて壁のボタンを押す。
「先生、容態が急変してます! すぐ来てください!」
ナースがマイクに向かって叫んだ。
1分もしないうちに白衣の男性が慌てて入って来た。
彼は蛹に近付くが何をして良いのか分からなかった。
その蛹は激しい電子音とは反して静寂を留めている。
そして、その時がやって来た。
『ピーーー……』
終わりの音が病室に響いた。
モニターは零を写し、生命が燃え尽きた事を示している。
「いや!」
和子は目から感情を流して床に崩れ落ちた。
医師は最期の証明をしようと蛹に近付く。
胸から聴診器を取り出し、蛹に近付ける。
『ビク!』
その時、蛹が捩れた。
「ふん!?」
医師が驚き、身を引く。
『ピッ! ピッ! ピッ!』
機械の鼓動が再びビートを刻む。
それに合わせてベッドも上の蛹も踊った。
「直也! 生きてるの!? 苦しいの!?」
和子は蛹に訴える。
蛹の中で身を捩り、ジタバタで蠢く。
今まさに蝶が羽化しようとしているのだ。
『バチュ』
殻を破いて、ドロっとした液体が飛び散った。
「うわ」
医者は腰を抜かして床に座す。
和子が見上げたそこには、真っ白な蝶が天を目指して起き上がっていた。
黒いグロテスクな蛹を破って出て来たモノは異質なほど白い少女だ。
「あ、あなたは誰?」
和子が声を震わす。
その声に気付いた少女は彼女を見た。
「お母さん? ここはどこ?」
少女は目を丸くしていた。
その後、身体中に付着した膿をシャワーで洗い流した彼女は診察室に連れて来られていた。
丸椅子をクルクル回しながら、彼女は自分の体をマジマジと見詰める。
病衣から覗く白い体、丸い乳房、しなやかな関節、ハリのある肌。
「たまげたなぁ……」
ピンク色に膨れた愛らしい唇から幼い声を発する少女。
「あの、本当に斎藤直也さんですか?」
医者はカルテを見ながら少女に尋ねた。
「はい、そうです。1980年6月13日生まれの24歳B型、斎藤直也です」
直也は立ち上がり、診察室に置いてある姿見を覗いた。
彼は少女と言うのはあまりに大き過ぎるかも知れない。
彼は背が180cmもあるのだ。
肩幅も広く四肢も長い。
一方でその顔は幼い印象がある。
輪郭は丸く、目や口が大きく、顔の部品が下半分に寄っている。
「たまげたなぁ……」
直也はまた同じ言葉を呟いた。
「確か千切れた電線で感電したとこまでは覚えてるのですけど、そこから8日間も昏睡状態だったなんて……。それで目を覚ましたかと思えば、女の子になってるんだもの」
彼はそう言うと丸椅子に座り直した。
「ええ、私共も驚いています」
医者はカルテの写真を見る。
そこには恰幅の良い、もうすぐ25歳を迎えるにしては老け顔の男性の写真があった。
「身長180cm、体重100kgの男性がここまで劇的に変化するなんて」
医者が頭を掻く。
「ですよね……。分けわからないです」
直也は難しそうな顔を浮かべた。
「でも、体重も減ったし、見た目も前よりかは良いですし。悪くないですかね」
「そうですね。さて、今日はゆっくり休んで下さい。明日から体に異常がないか隅々まで検査をします。いろいろ不安でしょうが何かあればすぐに呼んで下さいね」
医者はカルテを置いて、直也を見る。
「はい、分かりました。痛い所はないので、多分大丈夫です……」
彼はペコリと頭を下げると、診察室を出た。
〜2005年5月上旬〜
退院してから数週間が経った。
昼頃になってようやく布団から出た直也は暗闇の中を伝いながらキッチンに出た。
「何かないかな……」
彼が冷蔵庫から取り出した物は鶏肉だった。
包んでいるラップを鋭い爪で切り、中身を取り出す。
彼は鮮やかなピンク色のそれを素手で掴むと大きく口を開け齧り付いた。
鋭く長い犬歯が生肉に突き刺さる。
それは犬歯と言うよりかは牙だ。
「うんうんうん」
咀嚼し飲み込んだ。
「鶏肉を生で食べれるのなんて夢みたいだな。おいしい」
彼はパックの中身を全て平らげた。
直也は次に風呂場に向かった。
下着を脱ぎ、浴室に入る。
鏡に映った裸を彼はまじまじと見つめた。
「うーん。これはエッチ!」
ささやかな乳房、淡い桃色の乳頭、つるりとした腹部、恥骨で浮いた下腹部。
童顔なので胴体と顔だけで見れば、15歳程度にも思える容姿。
「でも……」
直也は続いて四肢を見た。
胴体に比べて明らかに太く長い四肢。
筋肉が強く隆起し、雄々しさを出している。
「なんかゴツいよなぁ」
直也はシャワーで体を流した。
濡れた銀髪が背中に張り付く。
今まで髪を伸ばした事のない彼はくすぐったい感覚に新鮮さを感じていた。
直也は浴室から出て新しい下着に着替えた。
胴体に比べて太い四肢を持つ彼は袖のないスポブラしか着る事ができない。
パンツもそうで三角型のパンツでないと太ももが詰まってしまう。
そうして、彼は玄関に向かいタバコとビンテージライターを手にした。
玄関を出た彼は軒下の影に隠れながらタバコに火を付ける。
『ジジジジ……』
音を立て燃えるタバコ。
肺を満たす煙。
「ふぅぅ……」
直也は煙を吐いた。
彼が今まで感じていた肺の窮屈さと喉の不快感はなくなっていた。
彼は変態してから、まるで体が新品になったかのように調子が良かった。
彼は太陽から隠れながらタバコを吸う。
「……」
直也は太陽に照らされた明るい世界を眺めた。
そっと、太陽の元に指先を出してみる。
「あっつ」
指先から煙が立ち、直也の肌を焦がす。
手を引く彼。
今は彼の時間ではない。
タバコを吸い終えると、さっさと暗闇の中へ消えていった。
真っ暗な自室の中、下着を脱いで布団に潜る直也。
水音と擦る音が彼の部屋に響く。
彼の口から甘い吐息が漏れる。
火照った頬、体に走る快感、荒い息遣い。
彼はしばらくそうして過ごしていた。
だが、彼の心が満たされる事はない。
しばらく寝ていた直也は玄関の鍵が開けられる音で目を覚ます。
仕事を終えた和子が弁当屋から帰宅する。
「お母さん、おかえり」
ダイニングにやって来た直也は和子に声を掛けた。
「うん、ただいま」
和子は仕事帰りに寄ったスーパーの荷物を冷蔵庫にしまっている。
振り返った彼女が直也を見て目を狭めた。
「アンタなんで下着姿でいるのよ。人が来たらどうすんの? 襲われるよ?」
それに対して直也はにやけて答える。
「襲われる? 何言ってんのさ。僕を襲える奴なんてそうそういないよ」
彼は盛り上がった力瘤を見せ付けた。
「そうかもね」
和子は呆れる。
「手伝うよ」
「「いただきます」」
夕食の時間になった。
焼き魚、白飯、お浸し、味噌汁。
和子の彩ある献立。
一方、直也の食器には赤い肉が転がっていた。
美味しそうに食べる2人。
「なお、よく生肉なんて食べるね。美味しいの?」
直也は怪訝な和子を見ると頷いた。
「美味しいよ」
「へー?」
和子は生肉を頬張る直也を見て首を傾げる。
「しょうがないじゃん。生肉しか食べれないんだもん」
続けて、
「僕だって、ニンニクたっぷりのラーメンとかネギいっぱいの納豆ご飯とか食べたいよ。でも、口は焼けるし、腹は下すし、栄養にならないんだもん」
「まぁ、そうなんでしょうね。……そんな見た目になっちゃって。誰だか分かんないわ」
「はぁ……。そんな事言うんだ」
直也は和子を睨んだ。
「見た目も変わって、太陽で火傷して、生肉を食べて、子供が作れなくて。どうせ僕は化け物だよ」
「なお……」
和子は悲しげな顔で直也を見た。
「……ご、ごめん」
その表情を見て直也は謝った。
「……私も悪かったわ。ごめんなさい」
「こっちこそ、ごめん」
2人は静かに食事を進めた。
食事を終えて、直也はジーパンとジージャンを着た。
彼の気に入った服装だ。
ジーパンは紐で絞めるタイプなので、下肢に比べて細い胴体だとしても問題なく履く事ができる。
ジージャンは男性用のだが、肩幅が広い彼には問題ない。
胸元には自作の紫色の南京錠のネックレスを垂らしている。
「また徘徊するの?」
新聞の広告を片手にTVを見ている和子が尋ねた。
「うん、夜が昼みたいなもんだから」
直也はそう言うと帽子を被った。
青色のデニム生地の帽子には額に右から『7』『0』『南京錠』のマークが描かれたバッヂが付いている。
そして、鍔の左端に本物の南京錠が付けられていて、後ろにその南京錠の鍵が3つぶら下がっていた。
「危ない所には行かないようにね。夜は物騒だから」
TVから振り返り、和子が言う。
「分かってるって。僕は簡単には死なないよ」
直也は面倒臭そうに答えた。
「違うわよ。相手に怪我させたら大変でしょ?」
「はいはい」
彼は玄関でブーツを履くと、家の鍵を手に外へ出た。
5月の夜は冷たい風に包まれていた。
春になったがまだ肌寒い。
直也は家の鍵を閉めると夜に駆け出した。
彼は軽く走っているつもりだったが、その速度は一般人の全力疾走並みの速さだ。
歩道橋では階段を8段飛ばしで駆け上がり、降りる時は5mの高さから飛び降りる。
彼は柔らかい動きで着地すると再び駆け出す。
180cm、80kgの大柄な体がこんなにも軽やかに飛び跳ね、駆ける。
周りの人間はフィクションから飛び出したかのような彼を見て、目を丸くした。
「夜は吸血鬼にとっての昼間だ」
直也はそう呟くと、闇の世界へ飛び出して行くのだった。




