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フーダニット・~華輪邸の殺人~  作者: 愛理 修
エピローグ なぜ結婚したのか?
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2 なぜ結婚したのか?

 砂木の問いに、優子は表情を微動だにすることもなかった。

 涼しげな目をし、落ち着き払った二十四歳の女がそこにいるだけだった。

 かえって、砂木のほうがたじろいでしまった。

「すみません。聞きかたが悪かったかもしれません。正確に言うと、優子さん、あなたと春仁氏の間柄はなんだったのですか」

「どこまでご存じなんですか?」

「『エルミカ』で、あなたと美也さん、それに春仁氏が一緒に写っている写真を見ました。店で春仁氏は、冬和さんの名前を使っていたみたいですね」

 砂木は上着の内ポケットから、『エルミカ』でもらった写真を取り出し優子に手渡した。

 優子は写真に目を落とし、長い睫毛を伏せ、なつかしそうにうなずいた。

「ママはお元気でしたか。お世話になっておきながら、一度も挨拶にいっていません。――砂木さんは、いつわたしとあの人がおかしいと気づかれたんです」

「事件の最初のほうでした。他のどなたも気づかれていないとは信じ難いことです。あなたが華輪家に入ったのは二十歳になられる年ですよね。そして春仁氏は五十一歳。五十一から二十を引いて、あなたは春仁氏が三十一歳の時に産まれたことになります。そうなると、あなたの母親の律代さんと春仁氏の関係が生じたのは三十歳のころ。しかしフミさんが言われていましたが、春仁氏は二十九歳の誕生日を機に海外に出て、三年間日本には戻ってこられなかった。つまり、律代さんと春仁氏には、あなたを娘とする交渉を持ちえなかった。それで僕は、あなたが春仁氏の娘ではないと判断したんです」

「では、わたしは誰の子供だと思われているのです」

 砂木はなにも言わなかった。瞬きもせず、優子を見つめていた。

「わかりました。それではわたしの口から言います。――わたしは華輪佐門の娘です。あの人の三十一歳年下の、腹違いの妹ということになります。気づいていらしたんでしょう」

「ええ、やはりフミさんが、あなたが佐門氏によく似ていると言っていましたから、そうではないかと思っていました。ほかの方々は、どなたもそのことはご存じないのですか」

「あの人とわたしだけの秘密でした。知っていたのは、美也さんひとりです」

「計算が合わないことも、どなたも気づかれなかったのですね」

「そのあたりは、砂木さんは誤解されています。以前話しましたようにわたしの母は英会話スクールの教師をしていたぐらいでしたので、あの人は、母とは渡米先で関係をもったのだと、みんなには説明していたのです。親子鑑定のほうは、お金を積んで作成したものです。それをみんな信用してくれました」

「なるほど……」

 砂木は唇を舐めた。ここから先を聞くことにはためらいがある。迷ったものの、やはり問わずにはおれなかった。

「しかし、あなたが佐門氏の娘、春仁氏の年の離れた妹というだけでは、秘密にしておく必要はありません」

「そうです。わたしとあの人が、愛し合い、性的に結ばれていなかったらですね」

 砂木は目を閉じた。自分が異郷の地に放り出されたような気がした。風が吹きすさび、荒涼とした原野が、どこまでも果てしなくつづいている。

 しかし目を開くと、そこは東屋で、両手を重ねて膝に乗せ、こちらを見つめる優子の姿があるだけだった。

「そんなに驚かれなくてもいいじゃないですか。想像ぐらいはされていたんでしょう。いやな人です、砂木さんは」

 そう口にしながらも優子には、砂木をとがめる素振りはなかった。

「わたしが『エルミカ』でバイトを始めたのは、もうご存じだとは思いますけど六年前になります。母の具合が悪くてお金が必要だったんです」

 目を彼方に向け、優子が静かな声で語り始めた。

「それで、会社の仕事を終えて夜は店のほうへと通っていました。あの人と初めて会ったのは、わたしが店に出だして一週間ほど経ってのことです。たまにくる、風変わりなお客さんというのが、店の女の人たちから聞いた話でした。服装もだらしなく、髪に櫛目が入っていたことなど一度もありませんでした。まさかあの人がキャッスルタウンの代表者などとは、わたしを含め誰も想像すらしていませんでした。本人も、本名を口にすることはありませんし、そのことを匂わせるようなことも一切しませんでしたので、わたしたちが気づくはずもありません」

 優子の横顔に微笑みが生じた。

「最初わたしは、あの人を怖い人だと思いました。奔放で気さくで、ひょうきんな表情を見せていたものの、内側にはなにか、こちらがたじたじとするようなものを秘めているのがそばにいて感じられたからです。しかし、父親がいなかったせいか、年長の男性に憧れてしまう傾向がもともとあり、怖いは、そのうち興味に変わり、やがてあの人に魅せられるようになっていきました。また向こうも同じで、口に出しこそしませんが、それとない空気で、互いに惹かれあっているのをわたしとあの人は感じ合っていました。あの人は足繁く店に通っては、わたしをそばにおくようになり、初めて関係ができたのはクリスマス近くの夜のことです。粉雪が舞う寒い夜でした。店を終え、タクシーに乗り込むあの人を見送っていたら、いきなりぐいと腕を引っ張って、そのままわたしをタクシーに引き込んだんです。白い息が吐きこぼれ、わたしはびっくりしましたが、ああ、やはりこうなる運命だったんだという気持ちで、気づくと、あの人の腕の中で、タクシーが走り出す音を耳にしていました。

 それから、わたしとあの人の関係は続きました。店の人たちにはわからないようにしていたのですが、一番仲良くしていた美也さんにだけは気づかれてしまって。それでも、こういう店で働いているといろいろあるから、あまり真剣になっちゃだめよ、ここにきているお客さんはみんな遊びのつもりだからと、美也さんは忠告する程度でした。まさかわたしも、あの人が兄だとは思ってもいなかったので、それを軽い気持ちで聞き流していました。

 そのことがわかったきっかけは、言うまでもなく、母の死によるものです。葬儀を終え母の遺品を片づけていると、わたし宛ての封書があって、わたしの父が華輪佐門であることが書かれた手紙がありました。一緒に、佐門の筆跡で、わたしが自分の娘であるのをしたためた書状も入っていました。母と、父である佐門がどういう関係だったのかは、いまとなってはよくわかりません。母は通訳みたいなこともしていて、経済界の人たちの海外視察に通訳係として同行したことがあったようです。その中に父がいて、旅先の一夜のあやまちとしてわたしを身籠ったような記載がされていました。あやまちとはいえ、体内に宿った生命を殺すようなことを、母はよしとしませんでした。母はわたしを産み、将来のために戸籍上の認知だけは望んだのですが、絹さんの激しい意向でそれは叶いませんでした。ただ、万一ということで父に書状を書かせ、いくばくかのお金で納得したのです。華輪とは関係なく、わたしを育てる決心だったのだろうと思います。それからのわたしと母の暮らしぶりがどんなものだったかは、それほど困ったことのない幸せなものだったとだけ話しておきます。とにかく、遺品から実の父親のことを知ったわたしは、母の死を伝えるつもりと、線香だけでもあげてはもらえまいかという気持ちで、手紙に書かれていたこの邸を訪ねたのです。そしてあの人とわたしが、血の繋がりのある者同士であることを知ってしまったわけです。

 その時の気持ちをどう言ったらいいのかわかりません。それはあの人も同じでした。ただのクラブの女と客との、かりそめの情事だったものが、いきなり、汚らわしい、人の、してはならないことになってしまったのです。知らなかったとはいえ、それは許されるものではありませんでした。相姦という文字が烙印され、自由奔放を主義としていたあの人も、さすがにことの重大さに顔を青ざめさせていました。わたしといえば、もうどうしていいのかわからず、おののき震えるだけでした。

 美也さんがわたしを訪ねてきたのは、それを知った翌日のことでした。葬儀などで店を長く休んでいたので、心配してくれていたんです。邸から戻ったわたしは、ひとりになると、なおのこと自分のしたことの恐ろしさを感じていました。なにも手につかず、見るもの聞くものすべてが、わたしを責めさいなんでいるように思え、半狂乱の状態だったと思います。美也さんはそんなわたしの異常な様子に気づき、わたしはわたしで、精神錯乱みたいになって、つい、あとさきも考えずに、二人のことをしゃべってしまいました。それでも、あの人に迷惑をかけてはいけないと、華輪の名前を出すことはしませんでしたから、いくらかの理性は残っていたんでしょう。話を聞いた美也さんは、険しい顔で、二度とあの人に会ってはいけないこと、ぜったいに人に他言しないこと、そしてもうそのことは忘れることを、乱暴なくらいに何度も繰り返しました。わたしは泣きながら、それを聞くしかありませんでした。

 店を辞め、わたしは普通の仕事勤めの生活に戻りました。美也さんとはその後も何度か会いましたけど、たえずうしろ暗い雰囲気がつきまとい、明るくふるまえば、なおのことそれがひどくなるばかりでしたので、しだいに会わなくなってきました。美也さんはわたしによくしてくれましたが、秘密を分かち合うことのできる相手ではなかったのです。そしてわたしは、それができる相手を求めていました。

 表面上わたしは普段通りの生活をしていましたが、内面では、孤独で救いのない気持ちに揺らいでいました。すぎたことは忘れるべきだと言い聞かせるごとに、あの人のことがまざまざと浮かんできます。苦しかった。想いがつらくのしかかり、そう思っている自分が呪わしかった。二度と会ってはいけないとわかっているのに、気持ちはあの人のほうに向いています。禁を破ったことは、どうしようもなく、わたしとあの人を結びつけていました。

 だから、あの人がわたしの前にふたたび現れた時は、胸が張り裂けるほどでした。あらがうわたしを無理やり車に押し込み、山奥のひとけのないところに連れ出すと、車の中で、力づくでわたしを求めました。暗い中で目がぎらつき、その激しさは火のようでした。地獄に堕ちようと、あの人は言いました。おまえこそ俺の伴侶だ。肉が腐り、この身体に蛆がたかろうとおまえを離さないと。まさに狂気でした。狂気の疾風がわたしとあの人を翻弄していました。そしてわたしも、二人がこうなるのをずっと待っていたことに気づかされました。あの人しか、わたしにはいませんでした。それまでは知らなかったですまされたことが、もうそういうわけにはいきません。わたしとあの人は、すべてを知ったうえで愛し合い、冒涜をおかしたのです。その夜を境に、わたしたちは堕ちてしまったんです。

 あの人は、華輪春仁の娘としてわたしを邸に住まわせました。娘としたほうが、年齢からみて不自然でなく、また、これまで見せたことのない特別な情愛を示したとしても、父と娘の愛情だと解釈されるだろうと思ったからです。それに、自分が亡きあとに、多額の遺産を相続させることができるとの考えも、あの人にはありました。二人とも、なにも言いませんでしたが、ともに罪の意識があり、そこから少しでも目をそむけたいがゆえに、父と娘という偽りの間柄にすることによって、これは現実のことではなく、空想の世界でのことなんだと、心のどこかにやすらぎを求めていたのも事実です。ほかの人にほんとうのことを知られてはいけないと、必死で思っていました。相姦のことだけでなく、妹であることすらもです。それがわたしとあの人の、せめてもの人としての心の支えでした。

 そうやってわたしたちは、表面では父と娘、裏では男と女としてすごしていました。実質上、わたしは華輪春仁の妻みたいなものでした。秘密を分かち合い、人知れず愛を交わすことは、より二人の絆を深めていきました。相姦の罪を犯したわたしとあの人には、戻ることはできませんでした。しかしそれは、満ち足りたものでもありました。人でなくなるということは、こんなにも静かで穏やかであるものかと思えるほどです。もちろん、罪の意識におびえ、母にすまないと思って、たまらなく悲しくなることもありました。そんな時あの人は、なにも言わずに、わたしの肩を抱いてなぐさめてくれました。そうです。わたしたちは流刑人で、二人っきりだったんです。そしてそれが、わたしとあの人が選んだ道だったのです。わたしとあの人は、そうやって忌まわしい日々を送っていました。数年間ずうっと――」

 優子の言葉が一旦途切れ、砂木が言った。

「そこへ美也さんが現れて、あなたたちを脅迫した」

「違います砂木さん」

 優子は砂木のほうへ振り向くと、きっぱりと首を横に振った。

「わたしから美也さんに連絡を取ったんです。あの人の子供を産んで欲しいと、わたしが美也さんに頼んだんです」

 砂木は言葉を失った。目を見張ることしかできなかった。

「子供が欲しかったんです」

 優子はそう告げた。

「あの人の子供がわたしは欲しかったんです。わたしには、さすがにそれはできませんでしたから、誰かべつの女の人にあの人の子供を産んでもらいたいと思ったのです。それでわたしたちの関係を知っている美也さんに、頼むことにしました。先のことまで考えた場合、なにも知らない人より、事情をすでに知っている美也さんのほうがよく思えました。美也さんと会うのは、数年来でした。わたしの話を聞いた美也さんは、信じられない顔をしました。それからすぐに、眉をひそめ、不快と軽蔑、それに怒りの混じった目でわたしを見、気が狂っているとわたしに言いました。禁断の関係をいまも引きずっているなら、子供を産んでくれだなんて、とうてい正気の沙汰じゃないと。そう非難されるであろうことはわたしも覚悟していました。それでもわたしは、美也さん以外に頼める人はいませんでした。女として愛する男の子供を持ちたいというわたしの切実な気持ちを訴え、美也さんが独立して店を持ちたいと思っているのを知っていたわたしは、お礼としてそれの全面的な資金を用意してあげられることなどをあげて、美也さんを説得しました。それが功を奏し、最初は嫌悪しかあらわさなかった美也さんも、ようやく少しは考えてくれるようになりました。しかしわたしの頼みをきくのには、美也さんもかなりの抵抗があったようです。子供を産むからには戸籍のうえで妻にして欲しいこと、わたしとあの人が今後肉体的な関係は結ばないことを条件に承諾してもいいという返事でした。わたしはその条件を受け入れました。春仁は、わたしが子供が欲しいと言った時から、黙ってわたしのなすがままにさせていました。美也さんを妻にすることも、わたしの望みならそうしようと言ってくれました。独身主義の華輪春仁が結婚したのは、そう、わたしのためだったんです。しかし、けっきょく子供はできませんでした。そのほうがよかったのかもしれません。春仁が死に、美也さんも死んで、残ったのはわたしひとりです」

 優子の身体から、言葉では言い尽くせないものが立ちのぼっているのを砂木は感じた。それは、優子のほかに、誰も、触れることができないなら、知ることもできないものだった。

「でも砂木さん――」

 優子は、誰に見せるでもなく、かすかに笑んでみせた。

「じつは、わたしの願いは、最初から叶うはずのなかったものだったんです」優子は続けた。「砂木さんは、ほんのいましがた、ほんとうのあなたは誰ですかと、わたしに尋ねられました。それと同じ質問を、春仁の、米国遊学中の友人の方からわたしは受けたことがあります。昨年の十二月の、雪が降りそうな寒い日でした。

 その方は言いました。あなたは誰だ? と。

 二十数年前の米国でのことです。気心の知れた男同士のお酒の席で、その方と春仁を入れた数人だったらしいですが、それぞれの好みの女の話からの流れで、この中で誰が一番精力があるかになり、当然埒がつくはずもなく、それなら実際に調べてみようじゃないかと、後日、みなで一緒に医療機関に行ったことがあったそうです。遊びのつもりでです。たんに、男たちのバカなおふざけとしてです。しかし、あの人にとってそれは、それだけですみませんでした。検査でわかったのは、精力の強さでなく、自分が、華輪春仁が、無精子症だという事実だったのです」

 優子は、長いため息をついた。

「その場で、すぐにもう一度調べ、さらにべつの機関で再検査したものの、結果が変わることはありませんでした。最初は事の重大さにショックを受けていたあの人も、最後には笑って、『それが神の意思なら、受け入れるだけさ。運命と割り切り、一生独身を貫き、女遊びに励んでやるさ』と、みなを前にしてうそぶいていたそうです。無精子症という事実を、ほんとうのところ、春仁がどういうふうに受け止めていたかは、彼しかわかりません。少なくとも、楽しいものではなかったでしょう。当時のあの人は、酒に酔ったりすると、よく神を罵る言葉を吐いていたそうです。しかしそうやって神にあたっても、なにも変わることはありません。あの人は、一生、子供が作れない体だったのです。だからその友人の方は、春仁の娘と言っているわたしに、誰なのか尋ねられたわけです。そしてわたしは、そのことを、それまで知りませんでした。

 わたしは、自分がほんとうは華輪佐門の落とし胤であることを告げ、あの人の配慮で、年の離れた妹でなく、娘になっていることを打ち明けて、その方には納得していただきました。もちろん、わたしとあの人のただれた関係は秘密のままにです。

 華輪春仁が生涯を独身で通すつもりだと言っていたのは、それが理由だったんです。子供の作れない自分は結婚すべきでないと考えていたのでしょう。皮肉なものです。わたしは、それを知らずに、あの人の子供を願ったのですから。さぞや、あの人はつらい思いをしたにちがいありません。そして、事実を伏せて、わたしが思うままにさせたのです。

 狂ってますよね、砂木さん。子供が作れないのに願っていたり、作れないことを知りながら、それを受け入れていたなんて。叶うはずのないものを追い求め、それが叶うはずがないことを知りながらも、それを支える。それが、わたしとあの人の愛だったのです。そういう愛し方しかできなかったのかもしれません。それでもそれが、華輪春仁とわたしの真実だったのです。

 しかしわたしは思うのです。子供ができればいいと切実に願っていたのは、わたしよりもあの人のほうだったのかもしれないと。あの人はわたしとともに、目蓋を閉じ、見果てぬ夢を見ようとしたのじゃないかと」

 優子は、目に映ることのない彼方を見つめていた。

「これからあなたはどうされるつもりです」

 砂木は言った。

「どうもしません。華輪優子――春仁の娘として、つつがなく生きていきます。この邸を守り、あの人とともにいるのがわたしの望みです」

 砂木の表情を見て、優子は首をかしげた。

「おかしいと思われるかもしれませんが、わたしはいまでも、この邸で、春仁がそばにいるのを感じるんです。ほんのいまもそばにいるような気がします。あの人が邸を歩き、図書室で本を開き、リビングでわたしたちの話に耳を傾けているのを感じます。ですから、わたしはいまでもあの人と一緒なんです。わたしたちは離れられないんです。未来永劫、それはずっとです」

 優子の言葉には、砂木をうち震えさせるものがあった。それがどういう感情なのかまではわからない。

 『エルミカ』の天井画が砂木の脳裏に広がっていった。天使と堕天使たちの壮大な戦い。ミカエルはルシファーに打ち勝ったのではなく、もしかしたら、ともに堕ちたのではないか。堕ちてともに、地の底で眠っているのでは。ミカエルとルシファーが互いをかき抱き、安息の微笑みを浮かべて眠りについている姿が頭の中に浮かんだ。

 さきほどフミに聞いた話だと、華輪コーポレーションと邸は優子が引き継ぎ、冬和一家がマンションを引き払って、邸に一緒に住むことになったそうだ。ギャラリーのほうは、華輪コーポレーションの経営の一環として存続が決まったという。エレガントビーナスは亜紀代を代表者として迎える計画で、料理や刺繍を教えるスクールを併設する予定だ。シマナ株式会社の商品開発計画に関しては、これから本腰で打ち合わせが始まる。また、二郎とめぐみの間にこれまでなかった感情が芽生えたらしく、その二郎が当面優子の補佐役として活躍していることを、フミは嬉しそうに話した。

「邸にも活気が出てまいりました。わたしも年だと言って、ぼやぼやできません」

 そう言うフミの目は輝いていた。

 ピーターが冒険を終えて戻ってくると、優子の足元にすり寄った。疲れたみたいにくたっと寝そべり、欠伸をする。

「砂木さん、フミがお茶の用意をしているころでしょう。そろそろ邸のほうへ戻りましょうか」

 優子がピーターの様子に微笑みながら立ち上がり、砂木も腰をあげた。

「いえ、いつもおよばれしていたのでは申し訳ありません。今日はこのまま引き上げます」

「そうですか。フミが残念がるかもしれません」

 優子は無理に誘わず、尋ねた。

「わたしと春仁の関係を、浦島さんは美也さんから聞いていると思われますか」

「知っていたとしても、彼がそれを口にすることはないはずです」

 優子のことを話す時の浦島の表情を、砂木は思い浮かべた。浦島は、華輪邸から出てきた優子をどんな思いで見つめたのだろうかと思う。

「それで、砂木さんのほうはどうされるつもりですか、いまのお話を」

「なんの話です?」

 砂木は答え、前屈みで腕を伸ばして子犬の頭を撫でつけると、腰を伸ばした。

「写真は差し上げます。あと、みなさんによろしくお伝えください」

 優子は砂木を見てうなずき、ピーターを引き連れて邸へと続く小道を歩いていった。

 そのうしろ姿を、砂木は欅の大木の下から見送った。

 ピンクのカーディガンを着た優子と子犬の姿が、華輪邸のほうへと小さくなっていく。一度子犬が足を止めて砂木を振り返ったが、すぐに優子のあとを追いかけていった。

 神のご慈悲があらんことを、安息がおとずれんことを――。

 柄にもなく、チャコールグレイのスーツを着た砂木はそう祈った。


   (了)

最後までお読みいただきありがとうございました。

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