傍観―――ある後輩の拒絶
別れたんだって、ようやく邪魔者がいなくなった、と楽しそうにはしゃぎながら笑いさざめく新しいクラスメイト達に、少女は無関心を貫いて手元の本に集中する。
少女・篠原 咲智は、市外からこの高校に入学した。当然、クラスメイト達が話題にしている人達を見たのは、ちょうど1年前が初めてだった。
将来的に教師になりたいから、進学校を目指し、家から通える一番近いこの高校に進学したが、数ヶ月してげんなりしたのは記憶に新しい。
何の先入観もなく入学したからこそ、異常性にいち早く気付いた。
「おはよう、篠原」
朗らかにあからさまな好意を宿している声がかけられて、咲智は内心嫌々ながら顔を上げる。
「おはよう、新藤君」
そばかすの浮いた白い肌と一重のアーモンド形の瞳をした、愛嬌のある可愛らしい容姿をした咲智は、去年も同じクラスだった少年・新藤 公樹にただ返事をして視線を落とす。
素っ気ないにもほどがある態度だが、少年はめげない。
何事か話しかけてきているが、咲智は気にすることなく思考に没頭する。
咲智は慕う先輩が居た。先輩自身はきっと同じ委員会の後輩くらいにしか思っていなかっただろうけど。
その人が、数週間前に姿を消した。心配いらない、と親しくしている先輩に言われたから、安心したけど。
姿を消した直接の理由は、色々と難がありすぎる家族ではないようだった。だからと言って、良い感情を持てるはずもないけど。
慕い敬う先輩を、無知をさらしながら見下すバカを、相手してやる義理は咲智には欠片もない。
本好きであることから図書委員を希望し、初めての委員会で戸惑っているところで、咲智は先輩と知り合った。
2歳上の先輩・新藤 公美という人を、親切で可愛い人だと咲智は認識した。
だが、周囲から入ってくる情報で一時だけ混乱した。
幼馴染三人の中に割って入り、邪魔をしている。
要約すればそんな内容の事。
ほとんど女子が発信している内容だけに、嫉妬か、とあっさり納得して無視することにした。
個人的感情が多分に入った評価に価値はない、と咲智はそう思っているからだ。
咲智は母子家庭で、母親はいわゆる水商売をしている。その為、穿った見方をしてそれだけで蔑む人達を間近にして来た。だから、人を見る目はそれなりにあると自負している。もちろん、絶対ではないと思っているので自分の考えに固執することはない。
そんな咲智にとって、周囲の公美を貶し笑う人達は、信用に値しないと思った。
必然、咲智の交友関係は市外から入学して来た人に偏る。
見かければ挨拶をする咲智に、当初は驚いていたようだった公美は何かに納得したように淡く微笑み、挨拶を返してくれた。
挨拶をする仲になって、委員会では当番が一緒になるようにお願いして、おそらく公美の同級生達よりも咲智は公美との接点を持っていた。そう思うほどに、公美と周囲の温度差はすさまじかった。
個人的な連絡先は知らないし、家の場所も知らない。交友関係も知らない。
けれど、咲智にとってそれは重要ではなかった。
「お父様を愛して、篠原さんを愛して、懸命に働いて、篠原さんが愛してる。きっと、素晴らしい女性なんだろうね。篠原さんのお母様は」
母親の職業、母子家庭であること、それを告げた時に、公美が言った言葉。
それが咲智にとっては何より嬉しく、価値あるものだった。
学校でしか接点はない。それを希薄と思う人は多いかもしれないけれど、咲智はそうは思わない。
公美に何度目かに挨拶した時、一緒にいた幼馴染三人の一人で学年トップの才女・木之下 美秀という先輩から、卒業式後にメールが来たから。公美に悪意が無い数少ない存在として認知され、親しくしていたのだ。
全ての関わりを切って姿を消した公美にとって、自分が切り捨ててしまえる存在であったことが悲しくなかったわけではない。ただ、全てを切らなくてはならない理由があったのなら、それは飲み込めることだから。何より、進学予定の大学を考えれば、再出発した公美ともう一度最初から親しくなる機会はいくらでもある。
その為に、咲智は準備に忙しい。
美秀には太鼓判を押してもらっているし、担任にも進路相談の時に大丈夫だろうと言われているけれど、備えは万全であればあるほどに良い。
だから、雑音の相手をしている暇はない。
手元の本に栞をはさみ、何かと話しかけていた公樹を見上げて、咲智はうんざりした内心を隠しもせずため息をついた。
「うるさい。見てわからないの? 勉強中なんだけど」
「本なんか家でも読めるだろ。それに勉強中って、教科書でも参考書でもないじゃん」
「…固定観念と主観で判断してそれを押し付けるのはやめてくれる? 邪魔」
一部のクラスメイトは、咲智の厳しい物言いに不快げだが、大半はしょうがないと言う空気だ。はっきり言って、公樹は鬱陶しい。
「行きたい大学があるの。留学もしたいの。その為に、語学勉強中なの。邪魔しないで」
言った、と大半のクラスメイトから感心の声が上がる。
咲智が表紙を見せるように掲げた本は、タイトルが筆記体で書かれており、苦手な者なら英語かどうかすら判別できなかっただろう。ちなみに、中はブロック体である。
「ちなみにこれ、公美先輩からのオススメ」
気づくだろうか、とわずかな期待を抱いた咲智は、次の瞬間、自分自身の甘さを呪いたくなった。
「誰だよ、クミ先輩って」
「は?」
思わずと言ったような声をあげたのは、咲智ではなく、大多数のクラスメイトの誰かだった。しかも、一人ではなく、複数人だ。
自分の知らない人間と咲智が親しいのが気にくわない、と言わんばかりの苦々しい表情の公樹は、声の方を一睨みするが、すぐに咲智に視線を戻した。
盛大なため息が聞こえたからだ。
「あんた、自分の姉の名前も覚えてないの?」
数秒、キョトンとした公樹は納得したように一つ頷いた。
「篠原、サボることしか考えてない怠惰な奴の言うことなんて聞いてたら、後悔する。やめとけ。何より、木之下先輩に付きまとって、先輩達の邪魔をしてた奴だ」
何も知らない友人に教え諭すような言い方に、少数のクラスメイトは同意するように頷くが、多数のクラスメイトはドン引きした視線を公樹に向けるか同情の視線を咲智に向ける。
当然、咲智の眼差しも雰囲気も氷点下だ。公樹は気づかない。
そこに、入っていく勇者が二人。
「咲智、おはよう。そして、数学見て」
「おはよう、咲智。あたしは古文〜」
「…おはよう、賢、唯。朝からそれか」
登校してきた少年・賢が数学をねだり、少女・唯が古文をねだる。
呆れつつも、咲智は空気を和らげる。一触即発、のような危うい均衡だったものがなくなり、多数のクラスメイトは賢と唯を褒め称えた。心の中で。
「おい、話してるんだ邪魔すんな」
公樹が不機嫌そうに、賢の肩をつかんで文句を言うが、それを横目で見た唯が手刀を振り下ろす。公樹に肘に向けて。
「電波脳が感染するから、無暗に触らないでね。学年末42位」
「そうそう、空気読めないやつはちょっと黙ってろ。学年末42位」
痛みに腕を抱える公樹を、テスト順位で呼び、ぞんざいに扱う二人に、咲智はこらえきれずに吹き出す。
さっきまでの荒れ狂うような怒りは、ある程度治まった。
「はいはい、学年末8位さん、学年末10位さん。見てあげるからとっととノートだして」
「「ありがとうございます、学年首席様」」
学年10位以内の秀才達の中に、早々割り込めない。
悔しそうに見てくる公樹に、咲智は、まず賢のノートを見つつ声だけを向ける。
「公美先輩の最終順位は3位。1年の最初は、39位だったらしいよ。あいにく、30以上も順位をあげた人を、サボることしか考えてない、なんてあたしは口が裂けても言えないわ。まして、一度も順位を下げたことがないんだから、尚更ね。しかも、現代文と英語は木之下先輩おさえて1位だったし」
情報源は公美ではなく、美秀である。公美が自分の自慢話を口にするわけがない。
聞こえていた少数派が驚いたようにしているが、多数派は素直に感嘆の声を上げている。
公樹は嘘だと言いたげだが、咲智の冷徹な空気が口を開くことを許さなかった。
「それで、あんたはどうなの、1学期期末40位だった学年末42位。人の事馬鹿にするんだったら、その人以上って誇れる何かがあるんでしょうね」
教師に聞けば一発でわかる事実なだけに、公樹は何も言えない。
公美は部活に入っていなかった。正確には、入ることが出来なかった。そんな暇があるなら勉強しろ、が両親の言い分だったからだ。
その点でなら上回ることはできたかもしれないが、公樹も帰宅部だ。
学業では何を言っても負け犬の遠吠えになる。公美は運動能力は平均やや下だったが、公樹も平均ど真ん中なので偉そうに言えるわけもない。
勝てる要素も、貶せる要素も何もないことが、理解できたのか公樹は顔を真っ赤にさせる。
そこで、咲智は再び公樹に視線を向ける。
瞳は冷ややかで、口元に浮かべるのは失笑だ。
「無様」
一言、放たれた言葉に多数派のクラスメイトの誰かが噴出した。
それを機に、少しずつ笑いが増える。少数派のクラスメイトは居心地悪そうだ。
しばらくして、耐え切れなくなった公樹が教室から飛び出していったが、誰も追いかけない。人望のなさがうかがえる。
「言うねぇ、咲智」
「いい加減にしてほしかったから」
「確かに、常軌を逸してたよねぇ」
「だな。バイト先のコンビニに通いつめんのはまだしも、偶然装って通学路に現れるのはやりすぎだわ。最寄駅から高校のルート、あいつの家からだとかすりもしねぇじゃん」
え、ストーカー? という声がどこかからか上がったが、咲智達はスルーした。最早わかりきったことだ。
ちなみに、咲智のバイト先のコンビニは咲智の地元にあるので、電車を乗って通い詰めていたことになる。…行動力があると感心すればいいのか、粘着質と引けばいいのか。
「自分で見て聞いて、接したわけでもない人の事を悪しざまに言って笑うような人間、こっちからお断りだ。一生関わりたくない」
「「心から同意~」」
軽い口調ながら、咲智達の視線は冷ややかに少数派のクラスメイトに向けられる。
向けられる視線の意味に気付いたのか、全員が視線を逸らしたり顔を俯けたりして咲智達の視線から逃げる。
賢と結は鼻で笑ってそれぞれのノートにとりかかり、咲智は興味を失ったように視線を外して窓の外を見る。
始まりには、そこに至るまでの序章がある。
咲智にとっては、今が序章。
始めよう、と決めた時期までは自分の力を溜め、覚悟を固める猶予期間。
始めたばかりの慕わしい先輩の前に、再び立てる日が咲智にとっての始まり。
それまでは、友人と共に、時間をかけて自分を磨く。
まだ始まってすらいないから。
影すら見えない終わりを意識することなく。
まずは、始まりへと歩いていく。
賢と唯も市外出身。