第四話「迷子の白い女の子」1
第一章 哲学者の特等席
東帝都・不死川。 再開発の波に削り残された雑居ビルの3階、『黒狐便』の事務所。 窓の外では、鉛色の空から降り注ぐ酸性雨が、都市の煤を洗い流すように静かに降り続いていた。 その雨音は、外界の喧騒を遮断するカーテンのように、室内の時間を穏やかに包み込んでいる。
かつては殺風景で、男の汗と機械油の臭いしかしなかったこの場所は、今や驚くべき変貌を遂げていた。磨き上げられた窓ガラス、整頓されたデスク、そして部屋の隅で湯気を立てるコーヒーメーカー。 そこには、確かな「生活」の体温があった。
「……できました! どうですか、アトラちゃん?」
ルカ・ノクスが、弾んだ声で一つの鞄を掲げた。それは、彼女が近所の手芸用品店で買ってきた丈夫な帆布とクッション材を使い、昨夜一晩かけて縫い上げた特製の「アトラ専用キャリーポーチ」だった。色は落ち着いた群青色で、表面には下手ながらも愛らしい黒猫の刺繍が施されている。
「これなら、いつでも一緒に移動できますよ。……ちょっと、入ってみてくれますか?」
ルカがポーチの口を広げ、床に置いた。 彼女の足元で、黒い水たまりのように丸まっていた流体――アトラ=ウンブラが、二つの蒼い光点(目)を瞬かせた。彼は興味深そうに触手を伸ばし、ポーチの感触を確かめるように撫でると、ヌルリと中へ滑り込んだ。
『……ふむ』
脳内に直接響く、紳士的な思念。 アトラの不定形の身体が、ポーチのサイズに合わせて圧縮され、密度を増していく。 見た目は少し窮屈そうだ。黒い塊が、弁当箱のようにぎっしりと詰まっている。
「あ、ごめんなさい……。ちょっと小さかったですか? 設計図では余裕を持たせたつもりだったんですけど……」
ルカが慌てて手を伸ばすが、アトラの表面に浮かんだ光が、満足げに明滅した。
『いいえ。……悪くありません』
アトラの声には、深い充足感が滲んでいた。
『この密着感……。まるで、母胎にいるような安心感があります。外の世界は広すぎて、時折、自分が拡散して消えてしまいそうな恐怖を感じることがあるのです。ですが、ここなら……とても、落ち着く』
彼は、狭い空間に身を委ね、自身の輪郭を物理的に規定されることに安らぎを感じているようだった。無限の飢餓を抱える彼にとって、「枠」があることは救いなのだ。
ルカは胸を撫で下ろし、ポーチを肩にかけた。 ずしりとした重みが、腰のあたりに寄り添う。 それは、世界を滅ぼすかもしれない災厄の重みであり、同時に、守るべき家族の重みでもあった。
「よかった……! じゃあこれからは、お出かけの時はいつも一緒ですね」
『ええ。……貴女の体温と、心臓の鼓動を直に感じられる、特等席です』
アトラが、ポーチの隙間から小さな触手を伸ばし、ルカの手に巻き付いた。 甘えるようなその仕草に、ルカは花が咲くように微笑んだ。
「……まったく。過保護なこった」
一段高いガレージスペースで、愛車『黒狐号』のタンクを磨いていたジン(夜刃迅)が、呆れたように、けれど口元を緩めて呟いた。 彼はウェスを置き、満足げに輝くバイクのボディを眺める。
「魔界の怪物に専用の揺り籠まで作ってやるとはな。……ルカ、お前、拾った野良猫を甘やかしすぎてダメにするタイプだろ」
「そ、そんなことないですよ! アトラちゃんは家族ですもん!」
「いいじゃない。猛犬(黒胎)にはリードが必要よ。……愛という名のね」
デスクワークを片付けていたキリコ(九十九霧狐)も顔を上げ、微笑ましげに目を細めた。 銀色のボブカットが揺れ、パーカーのフードの下で狐耳がリラックスしている。
「あら、リードというよりはカンガルーの袋ね。……甘えん坊の子供を育てる若奥様ってところかしら」
ソファを占領し、ファッション誌をめくっていた沈 黒燼が、紫煙をくゆらせて笑う。 彼女の腰には、常に抜き身のような殺気を放つ直刀が置かれているが、今の空気は緩やかだ。
コーヒーの香り。 雨の音。 他愛のない会話。 穏やかな午後。 このまま、雨音を聞きながらまどろんでいたいような、幸福な停滞。
だが。
コン、コン。
控えめな、しかしひどく異質なノックの音が、その平穏な空気にひびを入れた。 足音はなかった。気配もなかった。 まるで、音そのものが突然そこで発生したかのような、唐突な訪問。
「……客か?」
ジンが顔を上げ、瞬時に眼光を鋭くする。 筋肉が収縮し、背中の翼が臨戦態勢に入る。
「珍しいわね。こんな雨の日に」
キリコが立ち上がり、ドアへと向かう。彼女の狐耳がピクリと動き、警戒色に変わる。ドアの向こうにいる「何か」が、普通の人間ではないことを本能が告げている。
キリコがドアノブを回し、重い鉄扉を開けた。 湿った風と共に、廊下の暗がりの中に立っていたのは――予想外の訪問者だった。
10歳くらいの少女。
真っ白なワンピースに、大きな白い鍔広帽子。足元は白い革靴。 雨の中を歩いてきたはずなのに、その服も、透き通るような銀髪も、一滴も濡れていない。 まるで、雨粒の方が彼女を避けて通っているかのように、完全な「白」がそこにあった。胸には、古びたウサギのぬいぐるみを抱きかかえている。
「……いらっしゃいませ。迷子かしら?」
キリコが、警戒心を隠して優しく声をかける。 少女は、ゆっくりと顔を上げた。 帽子のつばの下から覗く瞳は、空の色を映したように透明で、そして底が見えなかった。 感情も、意思も、生気さえも希薄な、人形のような美しさ。
キリコの『千里眼』が、無意識に警鐘を鳴らす。この子は、普通じゃない。 人間の形をしているが、その中身が「空っぽ」で、同時に「満ちすぎている」。 器としての容量が、人間という規格を遥かに超えている。
少女は、キリコたちをじっと見つめ、鈴のような声で言った。
「……探してほしいの」
「何を?」
キリコが問う。
「私のお母さん。……そして、私を、お母さんのところへ渡して」
少女は、マシロと名乗った。
その時だった。 ルカの腰にかけられたポーチが、内側から爆発したように激しく震えた。
『……ひッ!?』
ポーチの中から、アトラの悲鳴に近い思念が弾けた。 普段の冷静で紳士的な彼からは想像もできない、パニックを起こした獣の叫び。 ポーチの厚い生地越しに、中の黒い泥が棘のように逆立ち、暴れまわっているのがわかる。
「きゃっ!? ……ア、アトラちゃん? どうしたの?」
ルカが驚いてポーチを撫でようとするが、アトラはさらに奥へと縮こまり、ガタガタと震え出した。 それは、絶対的な捕食者を前にした小動物の、生存本能からの拒絶反応。
『……光だ。強すぎる光が、来る』
アトラの思念が、恐怖に染まっている。彼はポーチのわずかな隙間から、入り口に立つマシロを凝視していた。いや、マシロという少女の形をした器から溢れ出す、目に見えない「何か」に、根源的な恐怖を感じているのだ。
『近づけないでください……! あれは、僕たち(闇)を焼き尽くす、絶対的な……裁きの光だ!』
「裁きの……光?」
ルカがマシロを見る。 ただの、迷子の女の子にしか見えない。だが、アトラの反応は異常だ。 彼がこれほど取り乱したのは、初めて会った時、ルカの《黎明の恩寵》に触れる前――「消滅」を予感した時以来だ。
マシロは、きょとんとしてルカの腰元を見た。彼女の透明な瞳が、ポーチの中の震える闇を映す。
「……わんちゃん、どうしたの?」
無邪気な問いかけ。悪意など欠片もない、純粋な疑問。 だが、その一歩が、アトラにとっては死刑執行人の足音のように響いていた。 光が強ければ強いほど、影は濃く、そして消滅する運命にあるのだから。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




