1 マブに彼氏ができた
四月の教室は、まだ誰のものにもなりきっていない匂いがする。
新しく貼り替えられた座席表、微妙に位置の変わった机、窓際から入り込むやわらかな風。黒板の隅には担任が書いた「進路希望調査 今週金曜まで」の文字が、朝からやけに存在感を放っていた。
けれど茉白にとって、それは春の花粉と同じくらい、どうでもいいものだった。
窓際の最後列。頬杖をついたまま、茉白は半分だけ開けた目で校庭を眺めている。
桜はもう盛りを過ぎていた。風が吹くたびに薄桃色の花びらがグラウンドの端へ散っていき、体育館へ向かう一年生たちがそれを踏まないよう妙に遠回りしている。真面目だな、とぼんやり思う。
机の上には、配られたばかりの進路希望調査票。
第一希望。
第二希望。
第三希望。
全部、空欄。
「黒瀬」
前方から名前を呼ばれ、茉白はゆっくり視線を戻した。
担任の篠原が、教卓の前でこちらを見ている。
「はい」
「今、“自分には関係ありません”みたいな顔してただろ」
「してないです」
「してた」
「先生、読心術使えるんすか」
「お前の顔は分かりやすい」
「初めて言われた」
淡々と返すと、教室のあちこちから笑いが漏れた。
茉白自身は笑わない。
眠そうな目のまま、指先で進路希望調査票の角を弄ぶ。
「今年は三年だからな」
「知ってます」
「じゃあ少しは危機感を持て」
「持ってます」
「どこに」
「心の奥」
「見えないな」
「奥なんで」
また笑いが起きる。
クラス替え初日からこれだ。
篠原は額を押さえた。
ただ、茉白は教師に反抗したいわけではない。
授業を抜けることも滅多にないし、遅刻も思ったほど多くない。課題も、面倒だと言いながら最低限は出す。派手な髪色と短めのスカートと耳元の小さなピアス、校則が緩いから禁止でなくそれとなく注意はされるが、しばらくすると教師たちはだいたい同じことを言うようになる。
―――黒瀬、お前ほんと見た目より普通だな。
それを言われるたびに、茉白は『失礼じゃない?』と思っている。
「まあいい。金曜までに何か書け」
「何かって」
「大学でも専門でも就職でも」
「未定」
紙の端を持ち上げてひらりと振った。
「それは進路じゃない」
「未定は予定」
「屁理屈を言うな」
篠原が深いため息をついたところで、隣の席から小さな笑い声が聞こえた。
桃井日菜だ。
明るい茶色の髪を巻き、朝からつやつやしたリップを塗っている。春休み中に買ったらしい新しいピンクのペンで、進路希望調査票の端に意味もなく花の落書きをしていた。
茉白が横目を向けると、日菜は口元を手で隠した。
「茉白、先生に愛されすぎじゃない?」
「いらん愛」
「ウチは羨ましいけど」
「欲しい?」
「先生ごと?」
「のしつける」
「いらなーい」
日菜が声を殺して笑う。
その笑い方は相変わらず明るく、茉白はそれを見ると少しだけ肩の力が抜けた。
高校一年の時から、ずっと一緒の日菜。
性格は全然違う。
日菜は思ったことを全部顔に出す。嬉しければ飛び跳ねるし、悲しければ普通に泣く。恋愛映画を観れば開始三十分で号泣し、限定スイーツが売り切れていれば本気で落ち込む。
一方の茉白は、たいていのことに対して感情の起伏が薄い。
楽しい時でも「まあ楽しい」くらいだし、腹が立っても「だる」で済ませる。
なのに、なぜか日菜とは気が合った。
日菜が十喋り、茉白が二返す。
それで成立する。
「ね、今日帰りクレープ食べない?」
「昨日も食べたじゃん」
「昨日はチョコバナナ。今日は苺」
「カテゴリ一緒だろ」
「全然違うし」
「へえ」
「その“興味ないけど一応聞きます”みたいなへえやめて?」
日菜が頬を膨らませる。
茉白は少しだけ口元を緩めた。
「じゃ、行く?」
「行く!」
即答だった。
その時は、今日も明日も、その次の日も、こうやって放課後になれば日菜と一緒に帰るのだと思っていた。
ずっと、とは考えない。
茉白はそういうことを考えない。
ただ、変わる理由がないものは、変わらないものだと思っていた。
*
「茉白ぉぉぉ!」
昼休み。
購買で買った焼きそばパンの袋を開けた瞬間、日菜がものすごい勢いで茉白の机へ突っ込んできた。
「なに」
「できた!」
「何が」
「彼氏!」
茉白は焼きそばパンを持ったまま、数秒止まった。
「……何が?」
「だから彼氏!」
「聞こえてた」
「じゃあなんで聞いたの!?」
聞き間違いかと思ったのだ。
というより日菜は恋愛の話をよくする。
あの人ちょっとかっこいいとか、駅前のカフェの店員が好みとか、文化祭で見た他校の先輩がタイプだったとか。そのたびに二日ほど騒ぎ、三日目には別の話をしている。
だから今回もその延長だと思っていた。
「いつ」
「昨日!」
「急だな」
「急じゃないよ! 一ヶ月くらい連絡取ってたし!」
茉白が僅かに目を見開く。日菜ならそうと気づく程度に、本当に僅かに。
「初耳」
「言ってなかったっけ?」
「聞いてない」
「あれ?」
日菜は本気で首を傾げた。
茉白は焼きそばパンを一口かじる。
「で?」
「でって何!?」
「相手」
「そう! 見て!」
日菜は待ってましたとばかりにスマホを取り出し、画面いっぱいに表示された写真を茉白の鼻先まで突きつけてきた。
「近い」
「見て!」
「見えてるから」
仕方なく画面を見る。
写っていたのは、黒髪の少年だった。
制服は違う。他校か。
清潔感のある短髪に、きっちり締めたネクタイ。カメラに慣れていないのか少し表情が硬いが、普通に顔は整っている。
「……イケメンじゃん」
「でしょ!?」
「声でか」
「しかも超優しいの!」
「へえ」
「勉強できるし! バスケもできるし! 妹いるから女の扱いも上手いし!」
「最後の情報いる?」
「いる! ぜんぶ好き!!」
日菜の勢いは止まらない。
「名前、水城颯真くんっていうの。隣駅の青陵! この前友達とカラオケ行った時に知り合って、そのあと連絡くれて――」
「待って」
「なに?」
「その友達って誰」
「美咲」
「あー」
そこまで聞いて、ようやく話が繋がる。
春休みに日菜が他校の友人たちと遊びに行っていた日があった。その時に出会ったらしい。
「でね! 昨日、駅前の公園で告られたの!」
「公園」
頷く茉白に日菜が首を傾げる。
「なにその反応」
「いや、ちゃんとしてんなと思って」
「でしょ!?」
日菜は嬉しそうに頬を押さえる。
「『前からいいなって思ってた。よかったら付き合ってほしい』って!」
「普通だな」
「普通がいいの!」
「あ、そう」
「それでウチも『お願いします!』って!」
手を差し出すジェスチャー。背後に花が飛んでる気がする。
「面接? 精一杯つとめさせていただきます! みたいな」
「緊張したんだってば! でも気持ちはそれ!!」
茉白は思わず鼻で笑った。ふっと息が洩れる。
日菜が真っ赤になった。
「笑った!」
「ちょっとだけ」
「今の絶対笑った!」
「はいはい」
じたばたする日菜から視線を落とし、茉白はもう一度写真を見る。
確かに悪くなさそう。
日菜がこれだけ浮かれているからというだけではない。
写真の端に写り込んだ二人分の飲み物のうち、日菜の好みそうな甘いフラペチーノの横に、相手は地味なブラックコーヒーを置いている。それだけでなんとなく性格が見える気がした。
「よかったじゃん」
何気なく言った。
すると日菜が一瞬、きょとんとした。
「……うん!」
それから、くしゃっと笑った。
「ありがと!」
その笑顔は、普段よりずっと嬉しそうだった。
茉白はそれを見て、少しだけ驚く。
日菜はいつもよく笑う。
でも、今日のそれは少し違った。
大事にされている人の顔、というものが本当にあるのかもしれない。
そんなことを思う。
「今度会ってよ」
「なんで」
「親友紹介したい!」
「いらん」
「なんで!」
即答に即答で返事が飛ぶ。
「カップルに混ざって何するん」
「颯真くんも友達連れてくるって!」
「もっといらん」
日菜が身を乗り出して茉白の手を握る。
「お願い!」
「やだ」
「クレープ奢る!」
その言葉に茉白の眉がピクリと動く。
「苺?」
「苺!」
「……考えとく」
「やった!」
「考えるだけ」
日菜はもう了承されたつもりでいる。
茉白は呆れながら、焼きそばパンの残りを口に入れた。
その日の放課後も、二人でクレープを食べた。
日菜は苺で茉白は結局チョコバナナ。
日菜は颯真の話をずっとしている。その顔がきらきらしている。
茉白は半分聞いて、半分スマホを見ていた。
特に何も思わない。
親友に彼氏ができた。
ただそれだけ。
*
変化は意外なくらい静かに始まった。意外でもないかもしれない。考えもしなかっただけ。
「ごめん茉白! 今日、颯真くんと帰る!」
「ん」
翌週の火曜日。
「今日も?」
「うん! 駅まで来てくれるって」
「仲いいね」
「えへへ」
日菜は嬉しそうに鞄を持つ。
茉白は自分の席でスマホを弄りながら、適当に手を振った。
「じゃね」
「うん! またLINEする!」
「はいはい」
別に何とも思わず一人で帰る。
イヤホンをして、コンビニに寄って、新発売のアイスを買って。
一人でも普通に楽しい。むしろ静かでいい。
木曜日。
「茉白ごめん!」
「また?」
「颯真くんと図書館行く!」
「付き合いたてってすご」
「ごめーん!」
日菜が大げさに両手の前で手を合わせる。茉白は首をわずかに傾げた。
「謝んなくていいし」
次の月曜日。
「今日、颯真くんが――」
「もう聞く前に分かった」
「え?」
「彼氏と一緒に帰るんでしょ」
「うん!」
笑う日菜に、茉白も小さく笑った。
「行ってきな」
もちろん、嫌ではない。
日菜が幸せそうなのは嬉しい。
むしろいい彼氏ができてよかったと思っている。
なのに。
放課後の教室を一人で出る時、妙に音が少なく感じるようになった。
「待って茉白! 鏡どこいった!?」
以前なら日菜が帰る直前に騒いでいた。
「鞄」
「ない!」
「右のポケット」
「あった!」
そんなどうでもいい会話があった。
階段を降りれば日菜が歩いている誰かに手を振り短い言葉を交わす。茉白にも声がかかるので頷いてすれ違う。
昇降口では靴を履きながら今日の夕飯を予想する。
校門を通りながらまた笑う。
「コンビニ寄ろ!」
「昨日も寄った」
「今日も寄る!」
騒がしいと思うことさえあるその声がない。
ただそれだけ。
茉白は校門を出てから、なんとなくスマホを取り出した。
通知はない。
別に何かを待っていたわけではない。
画面を消す。
少し歩いて、また見る。
自分でも意味が分からなかった。
「……暇」
小さく呟いた。
イヤホンをつける。
こっちに反応しない、音量の調節ができる、ただ流れてくる音。音楽を流せば世界は静かではなくなる。
それで済む話。
*
数日後。
「見て見て!」
朝一番で日菜がスマホを差し出してきた。
画面には、颯真と日菜のツーショット。
駅前の小さなカフェだ。前に日菜と行った窓際の席。
日菜は満面の笑顔でピースをしている。その隣で颯真は少し照れたように笑っていた。
「昨日撮ったの!」
「へえ」
「いいでしょ!」
「お似合いじゃん」
「ほんと!?」
「うん」
日菜は嬉しそうに画面を見つめている。
茉白はその横顔を見ながら、少しだけ胸の奥がざらついた。
嫌な感じではない。
怒っているわけでもない。
ただ、知らない時間が増えたな、と思った。
今までは日菜の一日の大半を知っていた。
何を食べた、誰に怒られた、放課後どこに寄った。
でも今は、毎日のように自分の知らないところで日菜が笑っている。
そのことが少し不思議だった。
「ねえ茉白」
「ん」
「今度さ、ほんとに四人で遊ばない?」
「四人?」
「ウチと茉白と颯真くんと、颯真くんの友達!」
「……まだその話生きてたの」
「生きてるよ!」
日菜は机に身を乗り出し、猛然と押し始める。
「颯真くんの友達、めっちゃイケメンらしいよ」
「興味ない」
「背高いって」
「だから?」
「優しいって」
「へえ」
「モテるって」
「なおさらいらん」
食い下がる日菜に茉白がため息をつく。
「なんで!?」
「めんどそうだから」
茉白がそう言うと、日菜は不満げに唇を尖らせた。
「茉白ってほんっと恋愛興味ないよね」
「別に」
膨らんだ日菜の頬をつつく。日菜は気にもせずにひときわ迫ってくる。
「彼氏ほしくないの?」
「いらん」
「なんで?」
「彼氏って何すんの」
日菜は驚いたように口元に手を当てた。
「え?」
「何する人なの」
「……デート?」
「疑問形?」
「手繋いだり!」
「日菜とも繋ぐじゃん」
ぐっと息を飲んだ日菜は名案を思いついたかのように両手を上げる。
「……キスとか!」
「それはしない」
「ほら!」
日菜が勝ち誇ったように指を差す。
茉白は真顔でその指を押し返した。
「だから何」
「恋人にしかできないことあるでしょ!」
「キスしたい人いないし」
「いつかできるよ」
断言されても。そもそもキスしたい気持ちって何だ。
「そう」
「絶対!」
「根拠」
「勘!」
「一番信用ないやつ」
「ひどい!」
日菜が明るく笑う。
茉白も少しだけ笑う。
いつもの空気、いつものやり取り、でも内容だけがちょっと違った。そのまま会話は終わる。
けれど昼休み、日菜が颯真から来たメッセージを見て嬉しそうに笑っているのを見た時、何かがずれていると感じた。
茉白はふと、自分のスマホを手に取った。
画面には何もない。シンプルな青一色の待ち受け画面。
写真フォルダを開く。
日菜の写真がたくさんあった。二人の自撮りもある。
一年生の文化祭。
屋台の焼きそばを頬張っている顔。
二年生の体育祭。
応援団の衣装で変なポーズをしている写真。
放課後の教室のちょっと真面目な横顔。
机に突っ伏して寝ている。
コンビニの前で笑顔で大口開けてアイスを食べている瞬間。
どれも、茉白がなんとなく撮ったものだった。
写真が好きだと思ったことはない。
ただ、いいと思った時に撮る、それだけ。
指をスワイプさせて開いた一枚。
去年の夏。
夕焼けの中で日菜が笑っている。
どうして撮ったのかは覚えていない。
でも、その時の日菜の声はなんとなく覚えている。
―――茉白、早く! アイス溶ける!
「……何見てんの?」
「うわ」
急に顔を覗き込まれ、茉白は反射的にスマホを伏せた。記憶の声と変わらない。
日菜がにやにやしている。
「何その反応」
「別に」
「見せて」
「やだ」
「絶対なんか見てた!」
「日菜の変顔。彼氏に見せる?」
絶望的に崩れ落ちてすがる日菜。芝居がかってる。
「消して!」
「嘘」
「もう!」
立ち上がって拳をぐりぐりと茉白の頭に当てながら日菜が笑う。
茉白は少し安心した。
何に安心したのかは、自分でも分からない。
*
その週の金曜日が進路希望調査の提出期限日だった。呼び出された茉白が職員室へ向かうと、中で待っていた篠原が手招きした。
「黒瀬」
「はい」
「これは何だ」
「進路希望調査です」
「そこは分かってる」
放課後の職員室前は人通りが少なく静かだった。放課後にわざわざ職員室に向かう生徒などほとんどいない。
篠原は茉白の提出した紙を見ながら、眉間に皺を寄せた。
第一希望【未定】
第二希望【未定】
第三希望【未定】
「三つとも未定じゃないか」
「ちゃんと書いた」
「ふざけるな」
「真面目」
「黒瀬」
いつもより少しだけ低い声で呼ばれ、茉白は口を閉じた。軽く舐めてるけれども逆らってはいけないポイントは押さえる。
篠原は声は荒げなかった。
紙を机の上に置き、むしろ少しだけ表情を和らげる。
「何も決まってないこと自体を怒ってるんじゃない」
「……はい」
「でも、考えることまで放棄するな」
茉白は黙る。なんとなく膝に置いた手でスカートを握る。
「大学に行けとも言わない。就職しろとも言わない。ただ、この一年で一回くらい、自分がこの先どうしたいか考えろ」
「どうしたいって言われても」
「分からないか」
「うん」
素直に答える。
本当に分からない。
やりたいことがない。なりたいものもない。
大学に行って何を学ぶのかも分からないし、働きたい仕事もない。
将来を考えろと言われるたびに、白い霧の中を見ろと言われているような気持ちになる。
「みんな、そんな決めてんの」
「決めてるやつもいれば、迷ってるやつもいる」
「じゃあウチも迷ってる」
「お前は迷ってるんじゃなくて、まだ地図を開いてない」
その言葉に、茉白は少しだけ目を上げた。地図。地理は嫌い。でも旅行はまあまあ好き。
目を丸くした茉白に篠原は苦笑した。
「まあいい。今すぐ決めろとは言わない。ただ、ちゃんと考えろ」
「……はい」
「珍しく素直だな」
困ったように緩んだ口元が少し優しくなる。茉白は小さく息を吐いた。
「早く帰りたいんで」
「台無しだよ」
篠原は天井を仰いだ。
職員室を出る。
廊下の窓から夕陽が差し込んでいた。
スマホを見ると日菜からメッセージ。
『ごめん! 今日も颯真くんと帰るね!』
その下にハートが散りばめられた文字。
『明日は絶対遊ぼ!』
日菜らしい文字使い。茉白は画面を見つめた。
少しだけ考えてから返信する。
『りょ』
メッセージを送ってから一人で昇降口へ向かった。
校舎は放課後特有のざわめきに満ちている。
部活へ向かう生徒。
誰かを待つ生徒。
友達と笑いながら帰る生徒。
その間を、茉白はゆっくり歩く。
去年までは、三年生になれば何か変わるのだと思っていた気もする。
進路が自然に決まって。
卒業が近づけば自然に寂しくなって。
大人になる実感みたいなものが、どこかから勝手に湧いてくるのだと。
でも実際には何も変わらない。
自分は自分のままだ。
眠いし、だるいし、将来のことなんて分からない。
変わっていくのは、自分以外の人ばかりに見えた。
校門の外へ出る。
駅へ向かう道の向こうで、見覚えのある茶色い髪が揺れた。
「あ」
日菜だった。
隣に男がいる。
写真で見た顔。
日菜が何かを話し、颯真が笑う。
信号待ちの間、日菜がふざけて彼の腕を引っ張る。
颯真は困ったような顔をしながらも、振りほどかない。
信号が青になる。
車道側へ自然に颯真が移動した。
日菜は気づいていない。
茉白だけが、それを見ていた。
「……ちゃんと好きなんだ」
誰に聞かせるでもなく小さく呟いた。
少しだけ安心する。
同時にちょっとだけ、ほんのちょっと、寂しい。
そんな気がしなくもない。
スマホを取り出す。
信号の向こう、夕陽の中を並んで歩く二人をなんとなく一枚撮る。
シャッター音。
画面の中で、日菜が笑っている。
その笑顔はいつもの写真に納められた笑顔より綺麗な気がした。
茉白はその写真をしばらく見つめてから、スマホをポケットへ戻した。
「まあ、いっか」
呟いて一人で駅へ向かう。
どこからか桜の花びらが舞ってくる。柔らかい陽射しを浴びてふわふわと漂う。
茉白はただ、去年の春より少しだけ静かな帰り道を歩いていく。




