第十六話:私の大事な
澄んだ朝の空気は少し冷たくて、火照った体をほどよく包んでくれる。ノーナは両腕を突き上げて、気持ちよさそうに深呼吸をした。それから、晴天に向かってにっこりと笑う。
あの逃避行から、あっという間にふた月近くが過ぎた。早朝にもかかわらず、ノーナとレヴィンは忙しそうに荷物を抱え、家と軒先を往復している。
「ここでの静かな生活は、嫌いじゃなかった。本を読んだり、畑に水をやったり……いろいろあったな」
玄関のそばに木箱を置いたレヴィンが、溜息をついて作業の手を止めた。そのレヴィンの視線の先――自慢の庭だった場所には、もう野菜も花も植えられていなかった。ただ、背の低い雑草がぽつぽつと伸びているだけだ。
同じく大きな荷物を持ったノーナが、そっと隣に寄り添いうなずいた。
「私だってそうだよ。仕事の掛け持ちは大変だったし、レヴィンと交流するのも骨が折れたけど、毎日が楽しかった。……でも、さすがにガタがきてるからね」
手にした荷物を玄関脇に置いて、家のなかに戻ったノーナとレヴィンが、天井を見上げる。
そこは一帯が黒く変色して、材木が柔らかくなっており、雨が降ると水が染み出てくる――雨漏りをしていた箇所だった。
「大抵は僕が家にいて対処していたんだから、別にノーナは気にしなくてもいいんじゃないか」
「そういうわけにはいかないよ。雨漏り以外にも、私の部屋の扉も立て付けが悪くて、大変だったんだから。修理するにもそれなりのお金がかかるし。……それに、もうレヴィンも家にこもりきりっていうワケにもいかないでしょう?」
雨の日でなくとも、風が強い日にはあらゆる窓から隙間風が入ってきて、家中に不気味な音を響かせていた。
なにぶん、安さで決めた住居なのだから文句は言えないと、ノーナはしばらく我慢を続けてきたが……それももうお別れだ。
セリーヌの逮捕に貢献したノーナと、前例のない能力を持つレヴィンは、図らずも捜査機関から一目置かれる存在となっていた。
そこにロレインによる提案が入ったことで、状況は一気に進展した。調査機関のなかで、レヴィンの能力の調査や研究、活用を模索する計画が持ち上がったのだ。
この計画に参加すれば協力金――二人暮らしには十分すぎるほどの額――が出る、という説明を聞いたノーナとレヴィンが、二つ返事で承諾したのがひと月前のことだ。
「結局、また前の街に戻ることになったけど……私はここでの仕事は続けるからね」
当然のことながら、計画に参加するにはレヴィン自身が研究施設に通う必要がある。それに加えて、無視できないほどにこの家のあちこちが傷んでいる。
話し合いの結果、二人は研究施設がある街の近くに、別の住居へと引っ越すことを決めた。そして、退去する今日に至る。
「僕は……今度は、木工を勉強してみよう。いざというときに、家にあるものを修繕できるように」
天井から視線を外して、レヴィンがニヤリと笑った。そんなふうに前向きに未来を語るレヴィンを見ていると、ノーナも自然と頬が緩む。
出会った当初と比べれば、レヴィンは心身ともに見違えるほどに変わった。近いようで遠い「神様」から、ノーナの隣にいることを選んだ「人間」へと、華麗なる変貌を遂げたのだ。
(……お互い、成長したんだねぇ)
ノーナは感慨深そうに、大きく息を吸ってゆっくりと吐いた。
そのあとも、引っ越しの準備は滞りなく進んだ。そして、ノーナが休憩を取ろうかと、すっかり物がなくなった居間へと戻ったときだった。
「――ノーナ、こっちへ」
優しく囁くようなレヴィンの声がして、首をかしげたノーナが振り返る。
「……わっ! ちょっと、レヴィン!?」
突然、ノーナの視界がぐらりと揺れた。絡みつく温もりに、心臓が跳ね上がる。後ろに立っていたレヴィンが、ノーナに抱きついたのだ。
ノーナは驚きながらもどうにか顔を上げて、レヴィンの肩に頭を乗せた。レヴィンはうつむいたまま、拗ねたようにポツリと呟く。
「以前、ノーナが疲労困憊で家に帰ってきて……こうして僕に抱きついたときのこと、覚えている?」
「……ごめん。全然、覚えてない」
「だと思った」
レヴィンは腕に力を込めて、わざとらしいほどの大きな溜息をついた。そして、ノーナの頭に頬をすり寄せた。
「なら、カイルが来たときにノーナが言った、『大事な客人』っていう台詞は?」
「それは……さすがに覚えているよ」
「客人、なんて突き放すような表現を使われて、僕はすごく悲しかった」
レヴィンがわずかに身じろいだ際、かすかに汗と土の匂いがノーナの鼻をかすめた。密着した互いの心臓が、バクバクと響き合う。
「私としては、そんなつもりじゃなかったんだけど……」
ノーナが言い訳を口にしようとして、思いとどまった。なぜ、レヴィンがこんな衝動的な行動を取ったのか、一瞬のうちに気がついたから。
きっと、レヴィンは不安なのだ。今の彼が求めているのは、当時の説明や弁明の言葉ではない。
「ふふっ……大丈夫、安心して? レヴィンは私の大事な『恋人』、だよ」
そう言って、ノーナはレヴィンの背中を慈しむようにさすった。レヴィンはノーナを抱きしめたまま、消え入りそうな声で「よかった」とだけ答えた。
懸命にノーナを包み込むレヴィンの体は、少しだけ震えていた。
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青々とした地面から熱が浮き上がる、昼下がり。すべての家財道具を外に運び終えて、ノーナは手にしたハンカチで額ににじんだ汗を拭いた。あとは、ロレインが手配してくれた業者――荷馬車が来るのを待つだけだ。
ノーナは木箱に寄りかかり、荷物の山を見つめて満足げに言った。
「うんうん、予定よりも早く終わったね」
「まぁ……ほとんどがノーナの荷物だろう」
レヴィンの言うとおり、大半の本や雑貨、衣類などはノーナの私物であり、レヴィンの荷物は庭仕事用の道具や少しの服ぐらいだ。
実は、下見もないままに引っ越しを決行したので、次の住居でも庭仕事ができるかどうかはわからない。しかし、ロレインの話によれば、「店舗兼住宅だった、小さな庭付きの一軒家」とのことなので、レヴィンの家庭菜園は継続できるだろう。
片手で首もとをあおいでいるレヴィンがノーナの隣に立ち、「そういえば」と脈絡もなく話を切り出す。
「ずっと気になっていたことがある。……教団にいた頃、ノーナの魔力を利用して儀式をしたときのことだ。ノーナはいったい、どんな力を使ったんだ?」
不意打ちのような質問に、ノーナは目を丸くした。それは、レヴィンとノーナが初めて会ったときの話で……なんだか、はるか昔のことのように思えてくる。
困惑して眉を寄せるノーナをよそに、レヴィンは言葉を続けた。
「たしかに僕は、周辺から君と似た魔力を引き寄せた。だが、それは一時の活力にしかならない、微弱なものだったはずだ。あのときの……ひどく衰弱していた君にとっては、到底足りない。――だというのに、君は起き上がったんだ」
もしや、前もって質問内容を考えていたのだろうか。そんなふうに思ってしまうほど、なめらかなレヴィンの指摘にノーナはうなった。
どんなにレヴィンに問われたところで、今のノーナは彼が納得するような答えを持ち合わせていない。正確には、答えと呼べるほど裏付けのある情報がなく、答えようにも答えられないのだ。
(似た魔力どころか、異世界の自分を引き寄せてきた……なんて、言っても信じてもらえないよねぇ)
前任ノーナの意図については、もはや知るすべもない。とはいえ、魂だけで世界を跳躍するために、特別な能力を用いたことは間違いないだろう。
しかし、このタイミングで異世界が云々という説明をするのも面倒だ。ノーナはもったいぶるように思案しながら、
「以前のノーナは、実はすごい魔力を秘めていたのかもねー」
と、燦々と光が降り注ぐ空を見上げて、どこか他人事のように語った。案の定、レヴィンは首をかしげて「以前の……?」と、うろんな目でノーナを見つめる。
ここはもう、現在のノーナが好きに答えていいだろう。そう判断したノーナは腕を組み、ふてぶてしく胸を反らした。
「レヴィンの能力でも見分けがつかないような、すごく特別な能力……とかね」
「よくわからない。そんなものが存在するのか? 君は魔力が少ないと言っていたのに」
たしかに、ノーナの言葉は要領を得ない曖昧な説明だ。レヴィンが肩をすくめるのも、無理からぬことだ。それでも、ノーナは照れくさそうに、けれど嬉しそうに言った。
「うーん……あえて言葉にするなら――『愛の力』ってヤツかな!」
そして、いまだに困惑しているレヴィンに、思い切り抱きついて笑った。
二人のもとへ向かう荷馬車の車輪が、ガタゴトと遠くで陽気に鳴り響いている。
〈終〉
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