2-2 ②
「――この間のことを気に病んでるんですよ、その人は」
「?」
聞き覚えのある声が横から届く。沈着としつつ佳く通る響き。フランツの部下である、フォン・デュッケのものだ。
「どうもこんにちは、アンリエッタさん。ルウィヒさんも、隣国で別れて以来ですね」
「う」
挨拶に一声応じたルウィヒのことを、フォンはしげしげと見つめる。
「ふむ。お顔が赤い――こちら、お使い下さい」
そう言って手渡したのは、一本の扇子だった。「前と後ろをずらして広げて……」との指示にルウィヒが拙く従えば、細かな煌めきをそこに載せた扇面が現れる。黒字の面一杯に砂粒めいた飾りを散らし、緑や赤といった色合いの刺繍を施したその装飾は、一目見て上等な代物だとわかる。「ふお……」と、軽く圧倒されたルウィヒはしばらく見つめて、促されて仰ぎ始める。
「ふいー」
と、心地良さげに息をつく少女。涼を得たのを見届けたアンリエッタが顔を上げれば、フォンと目が合った。
「どうも、ありがとうございます」
「いえいえ」
礼を言ってそう返されて、貼り付けた笑顔の彼女と、また見つめ合う。
黒髪を畳んで煌びやかな髪留めでまとめたフォンは、その顔立ちに相応しく、ほっそりとした東洋趣味のドレスを纏っている。深い緑と黒の生地で織られたらしいそれは品が良く、いかにも「上流階級」といった風貌だった。佇まいこそ堂々としたものだが、まさか彼女が、大の男数人をまとめて相手取れるほど腕っぷしに秀でた女性なのだということは、周囲の誰にも想像のつかない事実だろう。
そんな底知れないフォンであるが、男性に近いくらいのその上背でじっと、こちらの方を眺めてくるのだった。服装に乱れでもできていたかと、きょろきょろと自身のあちこちを見下ろすアンリエッタ。他所行きと言えどフォンと比ぶべくもなく庶民的な衣装には、けれども正すべき問題は見られない。
ふふ、と笑う声が落ちた。
「本日は、お仕事で来られたんですね」
「え?」
訊ねられるでもなく言い当てられて、アンリエッタは声に疑問符を載せた。
変わらず眦で笑みを表わすフォンが、言う。
「落ち着いた格好をされているから」
「ああまあ……半々というか。顧客との面談がありまして。今は一応、私用の範疇です」
「なるほど。お疲れ様です」
労いを寄越したフォンは、寄り添うようにフランツの隣へ並ぶ。
「我々もね、そうなんですよ。夫婦として方々へ挨拶を」
「はあ。夫婦」
「いや、いや……」
別に否定することでもなかろうに、フランツは繰り返し首を振り、声をそばだてる。
「表向きはって話だ」
「はあ。表向きは」
「まあっ」
とフォンが、心外そうに両手で口元を覆う。
「过分。ひどいですわフランツ。そんな薄情なこと……」
「お前も悪ふざけをしてんじゃ――」
忌々しそうに嗜めたフランツに被さる形で、ガランガラン! と、ベルの音が響いた。劇場の入り口ではそろそろ開演時間である旨が叫ばれて、ぞろぞろと、場外で屯していた人々がそちらへと向かう。
「ちょっと、待ってよっか」
ルウィヒに言って、頷かれる。押し合いへし合いということもないだろうが、人が捌けてから入る方が小柄な自分たちには良さそうに思うのだった。
「では、我々はお先に」
フォンが言って歩み出して、フランツも遅れて踏み出す。
「おい、待てって――じゃあな、嬢ちゃん」
「はい。また」
背中を見送って、それから「あっ」と声を上げた。
「フランツさん!」
「んん?」
呼び掛けると、肩越しに振り向かれる。
「実は、ご相談がありまして。後日時間を取れたらと」
「あ、ああ。わかった。――こら、引っ張んじゃない」
肘を引かれるのに気を取られつつも、フランツはまたこちらへ目を向けた。
「また行く!」
「はい、よろしくお願いします」
礼を言って、今度こそ人波に入っていくフランツたちを見送る。
「……」
なんとなく、人垣の向こうへ行ってしまった彼の頭を見つめていると、脇から声が掛かった。
もう大丈夫そう。
「あ、うん」
促して来たルウィヒに応えて、二人並んで歩き始める。人の流れのやや後ろを辿る格好で、入口の大扉をくぐった。短い通路を進む。途端、わっと上下左右から、人々のざわめきが耳に押し寄せた。
「ふおお……っ」
と、続いて広がった光景に横の少女から感嘆が漏れる。
フロア三階層分を費やして作られたらしい劇場ホールだが、その全貌よりも先に見えたのは、十数台に上るシャンデリアだった。吊るされた金色の木々の隙間から覗いた先に、幕を下ろした舞台が見えている。
左右に分かれる通路の奥側、正面の手すりに指をかけ、アンリエッタとルウィヒは階下を見下ろした。
「誰が、誰だか……」
わからない。
二人して、そのように述べる。一般の客席は、場内両脇の階段を下りた下に広がっていた。ちょうど今しがた入った客で入り乱れている最中で、遠目なのもあってロラン達を、すぐには見付けられない。
とはいえ下りてしまえば、それこそわからなくなるだろう。
その場で目をきょろきょろとさせながら探し人を求めていると、思いがけなく声が掛かった。
「おや、公書士さんじゃないか」
上から聞こえて、背後を見上げる。
ホールの壁に敷き詰められた賓客席の一つに、知った顔があった。
商業組合の役員、その古株。
「マドモアゼル・アンリエッタ……だったね? 座る席を探しているのならここなど、どうだろうか。妻によその集まりの方で見てくると言われてね、一人になってしまったのさ」
そう持ち掛けてきた、浅黒い肌に深い皺を刻んだ老爺は、クーポン騒動の折の一芝居に協力してくれた人物でもある。
「ええ……っと」
ふいな申し出には言葉を濁す。勝手に応じて良いものかという葛藤が頭を巡ったが、ちらりと目をやった隣で浮かんでいる表情を見て、手遅れを悟った。
いかにも興味を惹かれ、眩そうに豪奢なバルコニー席へと瞳を釘付けにする、ルウィヒの眼差しを見てしまえば。
断り切れなくなったアンリエッタは、相席の招待に応じるしかない。




