4-1 残滓Ⅰ
机上に置かれた紙束を、ユリアーネはもう一度、最初からめくり直した。
紙の擦れる音だけが、執務室に落ちる。
夜は深い。
窓の外に広がる王城の中庭は、月明かりに照らされて白く沈んでいた。
燭台の火が揺れるたび、紙面に落ちた文字の影がわずかに歪む。
調査対象者、シノ・グウェン。
その名には、今なら覚えがある。
年齢不詳、シュミート魔術学院編入生。
魔力を操る力を喪った、喪失者だと推定される。
出生、過去の経歴、不明。
報告書に並ぶ文言は体裁だけが整えられ、淡々と少ない情報を提示してくる。
情報を集めた者の苦心が伝わってくるようだ。
だが、問題はそこではなかった。
ユリアーネは紙束の下から、一枚の命令書を抜き取った。
調査の開始を命じた書面。
そこには、命令者として自分の名が記されている。
間違いなく自分の署名だった。
筆跡も見慣れたものだった。
印も押されている。
偽造の痕跡はない。
魔術的な検証も済ませた。
結果は同じ。
これは、間違いなく自分が出した命令だった。
けれど、覚えがない。
ユリアーネは命令書を指先で押さえたまま、しばらく黙っていた。
誰かが記録を改竄したというのなら、理解できる。
だが、この命令書は自分が下したものだった。
それなのに、命じた記憶がない。
「……どういうことだ」
記憶の他にも不可解なことがある。
シノ・グウェン。
その名を目で追った時、落ち着かない気持ちになる。
「……これは、何だ」
言葉にしてみたものの、考えは纏まらない。
〈竜狩り〉を打倒し、妹を守り抜いた後からか。
「いいや、違うな」
思い返せば、初めてあの男の姿を目にした時から感じていたのかもしれない。
興味では足りない。
警戒しているわけでもない。
好意と呼ぶにはどうにも曖昧だ。
けれど、確かに自分のモノにしたいと思っている。
だからこそ、〈教国〉へ行ってまでも追ったのだ。
ユリアーネは眉を寄せた。
理解できない。
自分が誰かに興味を持つことはある。
利用価値のある者、排除すべき者、手元に置いておきたい者。
だが、それらには必ず理由がある。
自分の感情は、客観的な判断の後ろに置くべきものだ。
怒りも、好意も、嫌悪も、必要なら利用する。
不要なら切り捨てる。
王族として生まれ、第一王女として育ち、魔術師として立つ以上、自分の内側にあるものを制御できないなど、あってはならない。
少なくとも、ユリアーネ・ローゼンベルクという人間はそうしてきた。
なのに、この男に関してだけは順番が逆になっている。
理由を思い出せない。
けれど感情だけが、薄く残っている。
まるで自分の知らない自分が、先に手を伸ばしていたようだった。
ユリアーネは報告書へ視線を戻す。
シノ・グウェンは、現在、もといた特別牢に収容されている。
〈教国〉より帰還した直後、王城内での情報漏洩と不用意な接触を避けるため、当面の措置としてそう決めた。
強い力があれば、人はそれを使いたくなる。
〈教国〉の首教が残した言葉が、ふと脳裏をよぎった。
その首教を相手取り、なお生きて戻った男だ。
詳細が広まれば、利用しようとする者が必ず出る。
王城の内にも、外にも。
だから閉じ込めておくことにした。
安全のため。
管理のため。
国のため。
いくらでも理由は並べられる。
だが、紙面の上に書かれた名を見下ろしながら、ユリアーネは思う。
本当に、それだけだったのか。
誰にも触らせたくなかったのではないか。
誰にも奪わせたくなかったのではないか。
自分の許可なく、どこかへ行かれることが不快だったのではないか。
そこまで考えて、ユリアーネは小さく息を吐いた。
くだらない。
そう切り捨てようとしたが、できなかった。
分からないということが、何より気に入らない。
ユリアーネは命令書を机に戻し、指先で端を揃えた。
紙の角が、静かに重なる。
分からないものを、そのままにしておくのは性に合わない。
自分の内側にあるものなら、なおさらだ。
あの男を見れば分かるのか。
言葉を交わせば、この感情の正体に触れられるのか。
その時、扉の外から控えめな声がした。
「コーマックか。入れ」
許可を出すと、盾を背負った巨漢が一礼して入ってきた。
「どうだった?」
答えは分かっていたが、一応質問の形をとった。
コーマックが首を横に振る。
「シノ・グウェンが学院にいた痕跡は一切、確認できませんでした。全教職員にも確認しましたが……」
ユリアーネが報告書を一枚摘まみ上げる。
「これが事実なら、私も含めて全員がシノに関する記憶を失っていることになる」
「はい。しかしそれは── 」
「分かっている。記憶に干渉できる魔術などあり得ない。であれば、こちらを疑うべきだ」
摘まみ上げていた紙片を机の上に放り出した。
そんなユリアーネの様子を、コーマックは何か言いたげな表情で眺めていた。
「言いたいことがありそうだな」
「彼に直接、お確かめにはならないのですか?」
ユリアーネは再び報告書に目を落とし、視線を逸らした。
まったくらしくない所作だった。
「……いや、今はいい」
コーマックは違和感を胸にしまい込み、ただ黙って頭を下げた。
「あとは明日の評議について、追加の報告がございます」
「何だ」
「第二王女殿下が、評議への出席を希望されています」
ユリアーネが視線を上げた。
「オリアが?」
「はい。議題がシノ・グウェンの処遇に関わるものであれば、同席したいと」
紙を押さえていた指先に、わずかに力が入った。
オリアが政治の場に出る。
喜ばしいことだ。
だが、シノ・グウェンの件で、というのが釈然としない。
「誰から聞いた」
「第二王女殿下付きの者より、正式な申し出として届いております。また、王城の者が数名、シノ・グウェンの身柄と処遇について、すでに探りを入れているようです」
「早いな……」
ユリアーネは、舌打ちでもしたい気持ちをこらえる。
── 既成事実にするには、少し時間が足りなかったか。
「〈教国〉との同盟に関わる人物であり、リアン様自らがマリアンネ様に背き、空間制御術式のスクロールを使ってまで奪還した相手です。関心を持たれるのは、避けられないかと」
コーマックの言葉に、ユリアーネは返事をしなかった。
関心。
そう呼べば聞こえはいい。
だが、彼らが見ているのはシノ・グウェンという男ではない。
教国との同盟に使える駒。
私の判断を追及するための材料。
オリアが関心を示したという事実。
そういうものだ。
そして、それを不快だと思う自分もまた、あの男をどう見ているのか分からない。
「ご苦労だった。もう休め」
「はっ」
コーマックが一礼し、静かに退室する。
扉が閉じると、執務室には再び紙の匂いと燭台の火だけが残った。
ユリアーネは報告書を閉じた。
覚えのない自分の命令。
消えずに残った、根っこの分からない感情。
そして、あの男を巡って動き始めた者たち。
ユリアーネは椅子から立ち上がった。
燭台の火が揺れ、机上の報告書に落ちた影が動く。
「気に入らないな……」
記録の中にいる男ではなく、今のシノ・グウェンと、自分の気持ちを見定める。
その前にまず、彼を巡って動き始めた者たちの顔を見ておく必要があった。




