3−25 約束Ⅱ
「決着がついたようだね」
〈聖域〉が失効した瞬間、極低温の魔力が支配領域を急速に拡大していく。
スサナが両腕を大きく上げた。
「降参!」
ユリアーネは訝しげに、
「まだ、勝負はついていませんが?」
「あれを見てよ」
ユリアーネが指さされた先に目を向ける。
レティシアを抱え込むようにして、そのままシノが倒れ込んだ。
慌てた様子のメルヴィナが駆け寄っていく。
ユリアーネの目元がピクリと動いた。
「見ての通り、あの子は負けてしまったようだからね。ボクが戦う必要もなくなったわけだ」
「それでいいのですか?」
「勝敗なんて、最初から決まっていた。そもそも、あの娘はとても大きな弱みを握られていたんだから。ボクは君が馬に蹴られないようにしてあげただけだよ。見えるかい、あの情けない顔を……。それに、ボクは一号……いや、カーラ・ライヘンバッハの忘れ物には何の興味もないからね。ほら、早く行ってあげなよ」
一礼して、ユリアーネは走り出した。
威厳も何もあったものではない。
置き去りとなったナツィオの魔術師達もそれに続く。
「あの女の弟子にしては、可愛げのある娘だね」
ひとり、黒いローブを纏った魔術師だけが残った。
「結局さ、君は何がしたかったの? レティをあまり虐めないでほしいんだけど。あの子は思い詰めちゃうんだから」
「繋がりを断てればいいと思った、らしい。しかし、あまり上手くはいかないものだ。あの首教とやらには失望した。もう少し追いかけてくれればよかったのだがな」
自嘲を含ませながら笑う黒いローブの魔術師に、スサナは怪訝な顔をする。
「らしい、なんてヘンな言い方するね。ボクが彼を抹殺していたらどうするつもりだったんだい?」
「そんなことはできない」
「それに、メルヴィナ・ウォールズだってシノを助けずに戻ったかもしれないじゃないか」
「そうなったら、私が取り戻したんだろう。国ひとつ滅ぼすくらい、何とも思っていなさそうだぞ」
「君、おかしな話し方するんだね」
「癖、みたいなものだ。気にするな」
「ふぅん。まさかとは思うけど、あの男を助けようだなんて思ってるんじゃないよね?」
「そうだとして、お前に何か関係があるのか?」
「なんとなく、君が誰なのか分かった気がするよ。でもやめておいたほうがいい。彼は、今度こそちゃんと死ぬために生きてるんだろうから。忘れてしまっていたとしても、在り方は変えられない。無理に生かそうとすれば、必ずどこかに歪みが出る。そしてまた間違える」
「召喚体共は揃って同じことを言う。ならば答えは同じ。力が及ばなかった。それだけ」
「……返す言葉もないんだけどさぁ。経験者からの一応の忠告、ということで」
「ありがたく受け取っておこう」
それだけ言って、黒いローブの魔術師はスサナに背を向けた。
レティシアが目を覚ましたのは、その少し後だった。
砕けた石床の冷たさが、最初に意識へ触れた。
次に、血の匂い。
そして最後に、こちらを見下ろしている黒い影。
顔は見えない。
「なんですか、あなたは……」
黒いローブの魔術師は答えず、ただ立っていた。
レティシアはゆっくりと上体を起こしかけ、すぐに顔をしかめた。
身体は重く、頭の奥も鈍く痛む。
それでも無意識に彼を探していた。
自分はもう、彼の腕の中にはいない。
少し離れたところで、ユリアーネとメルヴィナに介抱されていた。
胸の奥に、再びどす黒い感情がゆっくりと湧き上がる。
「……言っておくことがある」
黒いローブの魔術師が言った。
何らかの魔術なのか、声はひどく歪んで聞こえてくる。
「なんですか」
「アレはわたしのモノだ。お前にはやらん」
その言葉は挑戦的で、同時にひどく幼い主張だった。
あの女より先に、こちらを警戒すべきだと直感した。
「私も、貴方にはあの人の傍にいてほしくありませんね」
「しかし、今までも、今も、そしてこれからも、近くにいるのは……。いや、敗者に鞭を打つのはやめておこう」
「……貴方とは、いずれしっかりとした形で決着をつけなければならないようです」
「いつでも相手をしよう」
黒いローブの魔術師が踵を返しかける。
その背へ、レティシアは言葉を投げかけた。
「少し、よろしいでしょうか」
「答えるかは分からないが」
「お名前を教えてください」
わずかに沈黙が落ちた。
「……アシミだ」
「アシミ」
レティシアはその名を記憶に刻み込む。
そして、もうひとつ、訊いておかなければならないことがあった。
「あなたは女性ですか?」
既に歩き出していたアシミの足が止まる。
「……他に訊くことはないのか。男であろうと女であろうと、それが何の関係がある」
「私が女だと知っている貴方はそうかも知れません。しかし、私は違います。貴方の性別によって抱く感情も、今後の対応も大きく変わります」
アシミが、半ば呆れたように小さく笑った。
「では答えよう。女ではない。安心したか?」
「本当ですか」
「アイン・スソーラの魔術師には偽りが許されない。知っているだろう? 我が魔力に誓って、私は女ではない。誰も彼も下らないことに拘る。お前は自覚がある分、救いがあるのかもしれないが」
レティシアの唇から、半ば無意識に名が漏れた。
「カーラ……じゃないの……?」
アシミは答えない。
ただ一度だけ肩を揺らし、そのまま大聖堂を出ていった。
アシミの姿が見えなくなってから、レティシアはようやくユリアーネたちの方へと歩み寄った。
視線の先では、シノがメルヴィナとユリアーネに支えられている。
血の気を失った顔色、力なく垂れた腕、かろうじて続いている浅い呼吸。
彼はまだ、こちらの声に反応できる状態ではなかった。
「正直に言って、シノをそちらに返したくはありません」
レティシアの言葉に、ユリアーネが目を細める。
「それはお前の感情か、それとも首教としての判断か」
「両方です。強い力があれば、それを使いたくなってしまうのが人間です。そして、シノも求められれば応えてしまうでしょう」
言いながら、レティシアはシノを見た。
シノはメルヴィナに支えられたまま、目を閉じていた。
胸だけがかすかに上下している 。
「それはお前も同じだろう?」
「いいえ、違います。私は彼を戦わせたりはしません。誰の願いも耳に入らないように、静かに過ごしてもらいます」
「シノの意志に反してもか?」
レティシアはわずかに顔を曇らせた。
「意志に添えるように最大限努力します」
ユリアーネは何も言わなかった。
否定する言葉はいくらでも浮かんでくる。
──そもそも、私のモノをこんなにしたのはお前だろう。
だが、レティシアの願いに根ざすものが、単なる独占欲だけではないことも感じ取ってしまった。
横から、スサナが軽い口調で割って入る。
「今回はこっちの負けでいいよ。全部許してあげる。報復もしない。もともとそんな気もなかったし。でも忘れないでよ。それはシノ・グウェンが生きていてこそ果たされる約束だ。アイン・スソーラの王女、意味は分かるよね?」
「はい」
「もし、彼に何らかの危害が加えられ、生死が確認できないようなことになれば、きっと我々は全力をもって貴国へ侵攻を開始する」
「承知しています」
「マリアンネには、よくよく言い聞かせておいてね」
「それは……約束致しかねます」
スサナがくすりと笑った。
「正直だね。まぁでも、頼んだよ」
そのやりとりを聞きながら、レティシアは静かに息を吐いた。
スサナが改めてレティシアを見た。
「これで当面の間、アイン・スソーラでのシノの安全は確保された。不戦の約束が、彼を護る盾となる。これでいいかい、レティ?」
「……分かりました」
「不満そうだね。君が本気で望むなら考え直すけど?」
長考した後、レティシアは首を横に振った。
「必ず戻ると、約束をしたそうですから」
「いいんだね?」
「約束は守られなければいけませんから」
「酷い男だねぇ」
「えぇ、まったくです」
──大丈夫そう、かな。
密かにスサナは安堵した。
そのとき、不意にシノの喉がかすかに鳴った。
メルヴィナとユリアーネが同時にそちらを見る。
閉じていた瞼が重たげに持ち上がり、焦点の定まりきらない目がゆっくりと前を向いた。
ついさっきまでの会話を聞いていた様子はない。
ただ、目の前にレティシアがいることだけは分かったようだった。
「もう泣いてねぇのか?」
なぜそんな言葉が出てきたのか、シノ自身にもよく分からなかった。
ついさっき、泣き顔を見たからか、それとも見覚えがあったからか。
「泣かせるのはいつも貴方でしょう」
シノは何か言い返すでもなく、ただ小さく息を吐いた。
それから視線をわずかに横へずらす。
「……帰るか」
その言葉は、メルヴィナへ向けられていた。
「はい、そうしましょう」
ごく短いやりとりだった。
シノにとっては、それで済んだのだろう。
だが、レティシアには到底足りない。
目が合うと、衝動がこみ上げてくる。
──このままここにいませんか?
そんな言葉を吐き出そうとしたとき、
「またな、首教」
その一言で、レティシアの心は高鳴った。
「卑怯です」
「あー、すまん」
「何が卑怯なのかもわかっていないのに、そんなこと言わないでくださいっ」
「……すまん」
もう一度、小さく謝る。
それが余計に腹立たしくて、どうしようもなく嬉しくて、レティシアは唇を噛んだ。
シノはそれ以上何も言わず、メルヴィナとユリアーネに支えられながら背を向ける。
「……こんどはちゃんとやくそく、まもってもらうからね、おとーさん」
聞き取ることなどできないほどの声で言ったつもりだった。
しかし、シノの背中がほんのわずかに揺れた。
「……ああ」
返答は確かにレティシアの耳に届いた。
振り返りはしない。
それでも今度は、一方的に離れていくわけではなかった。
ユリアーネが静かに歩き出し、メルヴィナもそれに続く。
体勢を崩しかけたシノを、二人が何も言わずに支え直した。
ナツィオの魔術師たちもまた無言のまま動き、三人を囲むように位置を変える。
閉ざされていた大扉が重い音を立てて開く。
外の光が差し込み、白い床に長く影を引いた。
シノたちはその中へ出ていく。
先に出ていたナツィオの魔術師たちが馬車を寄せ、負傷したシノを乗せる支度を整えていた。
シノが馬車へ乗せられる。
ひとりでは足も上がらないらしく、メルヴィナが肩を貸し、ユリアーネが反対側を支える。
ナツィオの魔術師たちは周囲へ散り、聖都の道へ続く動線を確保していた。
メルヴィナが続き、ユリアーネは最後に一度だけ振り返る。
視線がレティシアとぶつかった。どちらも何も言わなかった。
やがて御者が手綱を引き、車輪が石畳を噛む音が響く。
馬車はゆっくりと動き出し、その前後をナツィオの魔術師たちが護るようについていった。
レティシアは扉の内側から、それを見送った。
前庭を抜け、門を越え、やがて赤褐色の荒野へ続く道の先へ消えていくまで。
しばらくのあいだ、誰も動かなかった。
やがて、シノたちの姿が完全に見えなくなってから、レティシアはぽつりと零した。
「最初は少し思い出してもらえればよかったんです。ほんの少し罪悪感でも持ってくれれば、それで」
「言えばいいじゃないか。言ったら、何か思い出すかもしれないよ?」
レティシアは答えるまでに少し時間を要した。
人間の欲には、本当に底がない。
人間を辞めた気になっても、結局のところ自分の心は人間のままだ。
しかも、浅ましい部類の人間だ。
「……言えば、娘にしかなれませんから。せっかく忘れてしまっているのですから、上手くすれば彼の過去も現在も未来も、全部手に入れられます。それに、あの方たちはシノと同じ時間を生きられません。それができるのは、私だけです」
「君、欲が深かったんだねぇ」
「ええ、ですからずっとそう言っているではありませんか」
スサナは苦笑し、
「ま、それはそれとして。君さ、ずいぶんとあっさりやられたよね?」
「……そうでしょうか」
レティシアの様子からは、動揺は見受けられない。
だが、首筋が少し紅潮していた。
スサナはそれを見逃さない。
「そうだよ。全然抵抗しなかったでしょ。近くにはいなかったけど、すぐに分かったよ。幾らシノが生命の流れに干渉できるからって、あの決着は早すぎた。レティ、まさか──」
「少し見くびっていたようです。次はこうはいきません」
少し早口になってしまった。
スサナは納得していない。
だが、それ以上は追及しなかった。
触れられた瞬間、何も考えられなくなった、などとは言えるはずがない。
「そこまで拗らせているとは思わなかった……」
スサナは苦笑いを浮かべながら、思索を巡らせた。
アイン・スソーラは、レティシア・グレスロードに対して強力すぎる切り札を手にしたことになる。あちらはそれに気づいただろうか。
「困ったなぁ」
レティシアは答えなかった。
残される者と行く者。
約束を守っている者と忘れてしまった者。
状況は、あの時と同じだった。
だが、確かに違うこともある。
道はまた交わるということだ。
そして、自分の意志でまた交わらせることができるということだ。
静まり返った大聖堂の中央で、レティシア・グレスロードはゆっくりと踵を返した。
赤褐色の荒野を行く馬車の中は、しばらく揺れと車輪の音だけに満たされていた。
シノは背もたれに体を預けたまま、浅い呼吸を繰り返している。
応急の止血は済んでいたが、顔色は悪い。
やがて、シノが薄く目を開ける。
「帰りの足まであるとは、準備がいいな」
「全て母の思惑通りということだ」
隣に座るユリアーネは外を眺めながら、不機嫌そうに言葉を返した。
シノの向かいで、メルヴィナが何か言いたげな視線をむけている。
「なんだよ、金髪」
「貴方という人がほんの少しわかった気がします」
死闘を演じたのは、私のためでも何でもない。
ただ、自分の目的を果たしたかっただけ。
私が死ねば、目的を果たせない。
だから死線の下で戦った。
「俺はお前のことが分からなくなったけどな」
軽口にも、メルヴィナはにこりとも笑わない。
「貴方にとって、命とはとてつもなく軽いものなのですね」
シノは目を丸くした。
「そんなことはない、と思うけど。お前の命が大事だからこそ、俺は戦ったんじゃないのか?」
「この人は本当に……」
大事なのは自分の目的だけ。
それをおそらく無自覚に、私の命が大事だった、などと言っているのだ。
そこになぜだか、少し憎らしさを覚えてしまう。
「私、怒っているんです」
「まだ怒ってるのかよ。お前の役割を邪魔して悪かったよ。謝る。な?」
──何を言っているのでしょうか。
歪みに歪み、ねじくれ曲がってしまったこの男を矯正するのは、きっと私の役目なのでしょう。
なぜかは分かりませんが、以前にも似たようなことを思った気がします。
「……違います」
「え?」
本人に自覚がないのに、怒っているのも馬鹿らしい。
メルヴィナは小さなため息をつく。
「もういいです。疲れました。貴方も怪我をしているのですから、休んでください」
「おい、分かるように説明してくれ」
「メルヴィ……?」
主も不思議そうにこちらを見ていた。
「言葉が過ぎました。申し訳ありません」
──まぁ、ゆっくりやっていきましょう。
とりあえず今は感謝しておきます、心の中で。
私は、もう一度死なせるために貴方を助けたのではありませんからね。
3章終了です。




