【二創企画】 僕も本当のことしか言わない
人の不幸は蜜の味。
育った苦悩は、俺の糧。
「盛況だなあ」
川連第二高校というところの学校祭に来て、俺は思わずそう口にした。
日曜日の昼間、晴天ということもあってか、学内は人であふれていた。
まわりを見ればこの学校の生徒や見物に来た大人、さらには他の学校の生徒たちなど、老若男女様々な人間が行き交っている。
それと一緒に、「花」もたくさんあった。
俺には人が心に抱えた悩みが、花の形になって見えるのだ。
その花は人によって種類が違う。時には薔薇だったり、名もない花だったりする。悩みが人によって違う以上、花が違うのも当然だった。
その花たちは、外見は違っていても、共通することがひとつある。それは花は、心の闇を糧に成長するということだった。
不幸を嘆き、自分ではどうにもならない苦悩に咽び懊悩するうちに――花は美しく咲き誇る。
俺はそうして開いた花を、摘み取って食べることが大好きだった。人の不幸は蜜の味という言葉があるが、それはまさしく、俺の喉を潤す甘露なのだ。
なので、俺はこうして人の集まるところに出向き、美味しそうな「花」を探していた。人は誰しも心の中に悩みを抱えている。すれ違う人々には確かに、小さな花を胸に備えていた。
ただ、そういったよくあるものには、あまり興味がわかない。
主観的で直感的な好みの問題なのだが、ありふれたものにはそれほど食欲をそそられないのだ。
もっと美味しそうな花はないだろうか。そう思ってあてもなく校内をうろついていると、なにかの楽器の音が聞こえてきた。
プロの演奏というわけではない。学校祭というからには学生の演奏なのだろう。大して上手くもない。しかし、耳障りなわけでもなかった。
「……ふむ」
一考した後、俺は音のする方へ足を向けた。経験則上なのだが、芸術系の人間には育った花を持つ者が多いのだ。
音楽には人の心を癒す効果があるとも言われている。それならその癒しを求め、大きな花を持った者が聞きに来ていてもおかしくない。
奏者か、客の方か。どちらにしてもこのまま歩き回るよりははるかに効率的に目的のものを探すことができるだろう。そうして俺は、会場となっている体育館の前までやってきた。
「吹奏楽部」
立っている看板にはそう書いてある。吹奏楽。最近テレビなどでよく取り上げられているのを聞きはする。
大会の結果に、ぎょっとするほど感情をむき出しにする学生たちの姿が印象的だった。あれほど極端な浮き沈みを多感な年齢で経験すれば、きっと花も育ちやすいだろう。あれでご立派な教育だというのだから、世の中はおかしなものだ。俺の食料を増やすだけというのに。
体育館内に足を踏み入れれば、途端に衝撃的な音量が身体に突き刺さった。生徒たちが演奏をしていて、空気が震えている。腹の底まで音が押し込まれるようだった。
俺は手近なパイプ椅子に座った。そこそこ客は入っていて、曲に耳を傾けている。後ろからなので胸が見えず、どんな花があるのかは見ることができない。
まあこちらは演奏が終わった後でもいいだろう。俺は改めて、演奏をしている生徒たちの方を見た。
やはり予想通り、あの歳にしては育った花を持つ者が多い。扇状に並んでいる学生たちを、ゆっくりと観察していく。そのうち右端の方に、その中にひときわ大きな花を持った少年がいるのが見えた。
小柄のわりに大きな楽器を持っている、白いケープを羽織った少年だ。彼の胸には膨れた蕾があり、それは今にもほころびそうなほどだった。その様子に、自然と口が吊り上る。
ああ。
美味しそう。
あれはもう少しで満開だ。少し世話をしてやれば、とても綺麗な花を咲かせることだろう。
その花は一体どんな味がするのか。想像するだけで心が躍る。曲が終わって周りと同じく拍手をしながら、俺はその少年の花をじっと見つめていた。
そしてふと。
視線を感じて、俺はなんとなくそちらへ目を向けた。
「……!?」
驚いて、拍手する手が止まる。慌てて再開し、今度はそちらの「花」を凝視した。
演奏が終わって振り返った指揮者。
彼の胸には――紫色のジャーマンアイリスが、既に大きく花を開いていた。
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ジャーマンアイリス。
日本では、アヤメと言ったほうが通りがいいかもしれない。ヨーロッパ原産のアヤメ科の花。しかしアヤメよりも、もっと花弁がふくよかである。
その芳醇な膨らみは、それと同じくらいの期待を俺に与えた。あの花はきっと他にない不幸を――苦悩を得て咲いているはずだ。
それは果たして、どんな味がするのだろうか。学校祭が終わった後で、俺はあの指揮者の後をつけていた。
駅前まで来て、やつは居酒屋に入った。ひとり打ち上げといったところだろうか。生徒を連れてくるわけにもいかないし、はたから見れば寂しい光景だろうがしょうがないのだろう。
そして、俺にとっては都合がいい。少し間をおいて、こちらも入店する。
いらっしゃいませ、という声を受けながら、目当ての人物を探す。いた。やつはカウンターに肘をつきながら、ひとりでビールを飲んでいた。
「隣、よろしいですか?」
あくまで朗らかな調子で、俺はやつに声をかけた。やつは一瞬驚いたようだったが、すぐに「どうぞ」と返してきた。
花を摘むには、実際に相手に近づく必要がある。
油断させ、近づき――そっと、手にかけるのだ。
俺は相手と同じくビールを頼んで、どこから話を切り出すか頭を巡らせた。さしあたって、今日の演奏の話から入ろうか。「今日の演奏聞いていました。よかったですね」など言えば――
「ああ。あなた、今日うちの演奏を聞いてくれていた人ですね」
「――……」
先にそう言われて、俺は一瞬固まった。確かになんとなく見られていたような気はしていたが、そこまでこちらのことを認識していたとは思わなかったのだ。
警戒されているか? しかし、俺の懸念は杞憂だったようで、やつはなんの不信感も見せず言ってきた。
「ありがとうございました。嬉しいですね、こうしてお客さんとお話できるなんて。どうでした? 今日の演奏」
「……よかったですよ」
俺は体勢を立て直した。話の流れ自体は、想定していたものと同じだ。ただ、相手の予想外さに意表を突かれただけで。
特に問題はない。俺はいつもの調子で、やつと世間話をした。
やつの名前は城山というらしい。ここから遠く離れた地方の出身で、上京して音大に入り、今では指揮者や演奏者として仕事をしているということだった。
専攻はトロンボーン。吹奏楽に限らず、ジャズ、クラシック、ラテン、ブラジル音楽、ケルト民謡、その他諸々――とにかく幅広いジャンルにわたって活動しているということだ。
というかこいつ、酔っぱらっているせいか、かなりベラベラしゃべる。たまにわけのわからないことも言ってくるし、この短時間でどれだけ飲んだのか、相当酔いが回っているのだろう。
しかしそれにしてはあまり隙がなくて、やりにくい。今まであまり見たことないタイプの人間だ。会話の主導権を思ったように握れない。そして楽しそうにしゃべる雰囲気からは、悩みを抱えているという感じがあまりしなかった。
確かに、心の闇というのは本人が気づかないところを蝕んでいることが多いものだが……それにしたって、この年でこの天真爛漫さはなんだ。俺より絶対年上のはずなのだが、そんな感じがあまりしない。
変なやつだ。思ったより苦戦しそうな予感がして、俺はビールを一口飲んだ。
「――そういえば」
城山が、俺の顔を見て何かを思い出したようだった。
「あなたはどうして今日、胸のあたりをじっと見ていたんですか?」
「……」
「まるでそこに、なにかが見えてでもいるみたいでした」
――こんな風に、捉えどころがないくせに、いきなり鋭いところをついてくるのが怖い。
拍手をしていたときに視線を感じたのだが、やはりこいつには、見られていたか。
さて、どうする? と俺は自問自答した。
本当のことを言ってみようか?
相手は酔っ払いだ。なら多少妙な話をしても、変な感じはするまい。
こちらのペースに持っていく狙いもある。そう思って俺は「花」のことを城山に話すことにした。
花は、人の悩みが形をとって胸に咲くものだということ。それは持ち主の心の闇を糧に、成長するということ。
もちろん、俺がそれを刈って「食べ」ることまでは言わないが。おたくの生徒に、何人かそういうものが見えた、という話をした。
さて、こいつはどう出るか。たいていの人間は信じないか気味悪がるものだが――
「へえ、それはおもしろいですね!」
城山は引かなかった。
「なんとなく、わかりますよそれ! 僕は音でなんですけどね!」
むしろ食いついてきた。あまつさえ同類扱いされた。
なんだこれ。一緒にしてほしくないのだが。そう思う俺の横で、城山は「いやー、嬉しいなあ、久しぶりに話が合いそうな人に会えました」などと言っている。やめてくれ。俺はおまえとは絶対違う。
「音って、人によって全然違うんですよ! 体調や気分でも変わるし――悩みがあってこそ、深くなるものです」
悩みがあってこそ、美しく咲くものだ――そこは確かに、俺の考えていることと一緒ではある。
……これは音楽の一般論と俺の理論が重なっただけであって、俺とこいつが似ているなんてことでは、決してない。
巻き返すつもりが逆に巻かれて、どうしたものかと首をひねる。ええと。なんだ。そう、おまえにもその花があるんだぞ、と言ってやろうか。
悩みを抱えている人間には不安がある。そこをうまくつけば、相手は自然とこちらの話に耳を傾けることになる。カウンセリングのようなものだ。いつしか先生と患者のように、立場の上下が決まってくる。
まあこいつは、元より先生という職業ではあるが――
「あなたの胸にも見えるんですよ。花が」
苦労していつもの調子に戻しつつ、俺は言った。
「よければ、話してくれませんか。なにかお力になれるかもしれません」
「僕の……」
悩み。城山はそれまでの勢いをなくし、少しうつむいた。
先生という頼られる立場の人間は、人に頼ることに無意識に飢えている。
だからこんな風に水を向けられると、コロリと転ぶことがある。今までの何人かもそうだったため、試しにやってみたが……当たりだったようだな。
「恥ずかしいことではありませんよ。人は誰しも、悩みを持つものです」
口をつぐんだ城山を促すため、俺は牧師のような笑みを浮かべてそう言った。そうそう。この感じだ。これでようやく、俺のペースを取り戻せる。
さんざん手をかけさせてくれた城山は、ぽつりぽつりと話し始めた。
「僕は……人に『おまえはよくわからない』って、さんざん言われるんです」
「……」
それは今、俺もさんざん思ってきた。
「それがなんでだかわからなくて……思っていることを伝えたくて、心を尽くして本当のことだけを言っているのに、全然伝わらないんです」
「……寂しいですね」
「そうなんです」
相手の言ってほしいことを言ってやる。これが相手に気に入られるコツだ。俺の相槌に背中を押されて、城山は続きをしゃべりだした。
「音楽だってそうなんです。いつだって全身全霊をかけてやっているつもりなのに……伝わらない人がいる。僕はそれがひどく悔しくて情けなくて……もっとがんばらなきゃ、って思うんです。それで今度こそってやるんですけど、またダメで……どんどんどんどん、それがひどくなってきているんです。それが……たまに、ひどく苦しくなります」
「……なるほど」
俺は納得した。なんとなく天才肌だと思っていたが、こいつの「花」はこれを栄養にしていたのか。
城山の抱えている悩みは、言うなれば「天才の孤独」というものだろうか。
イマジネーションが強烈過ぎて元からが理解しがたいのに、伝えようと言葉を磨けば磨くほど、どんどん常人の認識から乖離していくのだ。
本人はそれがなぜだか理解できなくて、理解されるよう努力する。そして努力すればするほど、高次になりすぎてさらに理解されなくなっていく。
こいつの言葉は圧縮しすぎて意味が分からない。
こいつの音楽は濃縮させすぎて食べられもしない。
誰もこいつを理解できない。そしてそれを認められない。理解されないことを理解したくない。
永劫の孤独。
それがこいつの、「心の闇」だ。
花は意外と本人が気付いていない、考えてもしょうがないと思っている事を養分に育っていく。こいつの場合はこれが土壌になっていたわけだ。
哀れと言えばそうなのかもしれない。
まあ、俺には関係ないがな。
俺が興味があるのは、美味しい蜜を口にできるかどうかだけだ。それを育ててくれた土に対して、特筆すべきことはなにもない。
そう思って俺は、最後の仕上げにかかることにした。
「……それは、お辛いでしょう。そこで、私からひとつご提案があるのですが」
「提案……?」
城山はノロノロと顔をこちらに向けてきた。よし。だいぶこちらの意図通りに動いてくれるようになってきた。これなら――
「私はその花を、摘んでしまうことができるんです。どうでしょう? その『花』、私に預けてもらえませんか――?」
「僕の……花を」
城山は胸を押さえた。やつには見えないだろうが、そこはちょうど、花の根本の部分だった。
ここで言っておくが、俺は決して、悩みを解決するために人の花を摘んでいるのではない。
そんなこと、俺は一言も言っていない。嘘はついていない。俺は本当のことしか言わないのだ。
花を摘んだ後で、土壌となった人間がどうなるかなんて知ったことではない。生きていけるかどうかもわからないし、興味もない。
興味があるのは蜜のことだけ。
さて、このジャーマンアイリス、果たしてどれほどの美味しさなのか――心中で舌なめずりしていると、城山がふっと顔をあげた。
決心がついたのか。やつは胸に手を当てたまま、俺を真っ直ぐ見つめて口を開いた。
「やめておきます」
……。
やめ……え?
「は……?」
「やめておきます。だってこの悩みがなくなったら僕、音楽できなくなりそうですもん」
「え……あの、ちょっと」
「悩みがあるから音が深くなるんですよ」
さきほども言ったそのセリフを繰り返して、城山はにっこりと笑った。
「今日、教え子の一人に言われたんです。『先生は音楽と結婚したようなものだ』って。ほんと、その通りだと思いました。これがなくなったら、僕、生きていけませんから」
そう言って城山は胸から手をどけた。そこには先ほどまではなかった――『根』が、城山と花を結び付けているのが見えた。
心の闇を自分の味方に付けた人間には、この『根』が現れる。芸術系の人間には大きい花を持つ者も多いが、同時にこの『根』を持った人間も多くいる。
闇の部分すら自分の一部として、常人には理解できない領域まで踏み込んでいく表現者――城山は、俺の予想に反してそこまで行ってしまったのだ。
こうなると、収穫は難しい。俺は苦い顔で、差し出しかけた手を引っ込めた。手間をかけたのに、この様だ。これではまったく、割に合わないではないか。
「いやあ、すみません。せっかく僕の悩みを解決してくれようとしてくれていたのに」
「……いいえ」
元の調子に戻った城山に、適当に返事をする。そうだな、せっかく美味しい蜜が食べられると思ったのに。俺の目の前には、泡の消えたビールしかない。
そう思っていたら、城山がまた変なことを言ってきた。
「おわびに、僕があなたの悩みを聞いてあげますよ!」
「いや、私のことはいいんで……」
ほっといてくれないだろうか。正直もう、こいつとはあんまり関わりたくない。
しかし俺の心中など知ったこっちゃないらしく、城山は「まあ、そう言わずに」と押し通してきた。空気を読んでくれないだろうか。そんなんだから人から敬遠されるんだろうと言ってやりたくなる。
俺はビールを口にした。なんだか今日はもう、疲れた。これを飲み干して退散しよう。
グラスを傾ける。温い。不味い。なんでこんなやつに目をつけてしまったんだ。ああもう、とっとと飲んで、次だ次――
「あなたの『花』はなんですか?」
城山の言葉に、グラスを傾ける手がぴたりと止まった。
俺の――『花』?
なんだそれは。
こいつは――なにを、言っている?
「僕流に言うなら『音』なんですけど――今回はあなたの言葉を借りることにしました。そのほうが伝わりやすいでしょうし――はい、僕でよければ力になりますよ。こんなんでも教師です。今日も教え子の悩み相談に付き合ってきたんですよ」
「悩み……?」
「はい」
まったく下心はないといった様子で、城山がうなずく。待て。なんだこれは。俺の花だと?
今まで俺は花を摘むことはあっても、その逆なんてなったことはなかった。なんでこうなるのか。意味が分からない。
そして城山が次に言ってきたことも、それ以上に意味が分からなかった。
「これは僕の経験上で、今日教え子にも言ったことなんですけど――人が無意識に目をそらしていることって、まわりが『鏡』になって教えてくれるんですよね」
「『鏡』、だと……?」
「ええ。周囲の人間がその人自身の『鏡』になって、無意識に拒んでいるその世界を見せようとしてくるんです」
なんだ、こいつは。
なにを言っている?
無意識に目をそらしている――心の闇。
それは、『花』の栄養で、誰にでもあるもので――
「――っ!?」
はっと気づいて、俺は自分の胸を見下ろした。
そこに、『花』はない。
誰にでもあるはずの『花』は、俺の胸にはない。
今まで不思議に思ったことはなかった。俺は他人の花にしか興味はなかったし、その法則を自分に当てはめようなんて思いもしなかった。
――なぜ?
「無意識に、『閉じている』その世界を――こじ開ける手助けをするのが、僕の役目です」
つまりそれは、俺が。
花がない、んじゃなくて。
無意識に目をそらして。
見ようとしていない、そういう、ことだと、こいつは言いたいのか……?
俺自身が、自分の心の闇から目をそらしている?
「だからあなたの『花』もきっと、まわりの人が教えてくれてるんじゃないかなって思います」
まわりの人間。
『花』を備えた――人間。
もしそうだというなら、俺の『花』は。
今まで俺が『食べて』きた、花の持ち主たちだとでも言うのか?
いや、さらに言うなら、今目の前にいる――
「きっと僕も、あなたの『鏡』になれてると思いますよ! どうでしょう、大船に乗ったつもりで、僕に――」
「結構です……っ!」
だん、とグラスをカウンターの上に置いて、俺は城山の言葉を遮った。
それは俺が自分の心の闇から目をそらしたからだというわけでは、ない。断じて、ない。
こいつのペースにはまっていくのが気に入らなかった。それだけだ。
俺に断られて城山は残念そうだったが、強硬に断ったおかげで、それ以上突っ込んではこなかった。
二人で泡の消えたビールを飲んで、城山は追加を頼み、俺は頼まなかった。もう帰りたい。そう切に思った。
席を立つ。カウンター席に腰掛けたまま、城山は俺に言ってきた。
「いやあ、残念だなあ。せっかく話の合いそうな人と出会えたのに」
「私としては、正直もう二度とあなたに会いたくありません」
「あれー……? なんでだろう。いつもみたいに、その人のためになりそうなことを心から言っただけなのに……」
「それでは」
独り言のようなその言葉を背に、俺はやつの前から立ち去った。
居酒屋から出て、帰路につく。まったく、ひどい目にあった。今日はもう疲れたから、「花」を探すのはまた明日からにしておこう。
今度は美しい花だと思っても気を付けなければ――と思ったとき、ふとやつの花のことが脳裏によぎった。
ジャーマンアイリス。豊潤に波打つ花弁と、華やかな色、強い香り。
「……」
足が止まる。なんとなく気になって、携帯であの花の言葉を調べた。あの美しい花の持つ、それが示す意味は――
「……『使者』……あとは『よろしくお伝えください』……?」
わけがわからない。それこそ、あいつそのものじゃないか。
なにを伝え、なにをもたらす使者だというのか。あいつがなにを言っていた? 記憶が巡る。『鏡』の理論。無意識に『閉じている』世界。それをこじ開ける手助け。
そして――「僕は本当のことしか言わない」。
「……そんなわけがあるか」
吐き捨てた。なにが「本当のこと」だ。そんなわけがあるか。
あんなわけのわからないことが、本当であってたまるか。俺にとってそれは、人の不幸であり、そこから食べられる蜜だけだ。
あいつの言葉が俺に伝わったなんてこと、絶対に認めない。
俺はあいつと同類なんかじゃない。永劫の孤独なんて、俺はそんなもの持っていない。
だって、俺に『花』はないのだから――
携帯を閉じ、自らの胸を見てそこに何もないのを確認する。そんなものは見えない。そう、それでいい。
そのことに満足して笑って……俺はひとり、その場を後にした。