第1話 木片
容赦なく照りつける盛夏の太陽が、私立霞陵学園高等学校の周囲を巡るアスファルトを白く焦がし、蜃気楼のように陽炎を揺らしていた。
午後五時。
空はまだ明るいが、湿気を帯びた熱風がまとわりついてくる。
吹き出す汗が目に入り、視界が塩辛く滲んだ。
霞陵学園運動部の名物とも言える、学校の外周から水郷公園までを走る長距離ランニング。
海老山蒼汰の息は、すでに限界近くまで荒れ狂っていた。
「ハッ、ハッ……くそっ」
一定のペースで前を走る先輩たちの背中が、じりじりと遠ざかっていく。
スニーカーの靴底がアスファルトを擦る摩擦音と、耳障りなほどの大合唱を続ける蛙の声だけが、世界を支配しているようだった。
食らいつこうと右脚を踏み込んだその瞬間。
ふくらはぎの奥底で、古いゴムが限界まで引き伸ばされて千切れる直前のような、ピキッ、という不吉な感覚が響いた。
(……やばい)
脳が危険信号を発するより早く、蒼汰は顔をしかめて脚を引きずった。
筋肉の繊維が悲鳴を上げている。
これ以上無理をして走り続ければ、確実に筋肉が断裂する……いわゆる肉離れだ。
立ち止まり、膝に手をついて荒い息を吐く。肺が焼けるように熱い。
「わりぃ……先に行ってくれ」
絞り出すようにそう言うと、先頭集団を引っ張っていた神谷先輩が、ふと立ち止まって振り返った。
怪我にはひどく敏感なチームだ。
先輩の顔に微かな心配の色が浮かんだ、その時だった。
後方から、ザッ、ザッという規則正しい足音の群れが近づいてきた。
外周コースをハーフコースで回っている女子の集団――女子バドミントン部だ。
それを見た1年A組の矢野拓真が、先輩の背中越しに意地悪くニヤリと笑った。
「先輩、海老は大丈夫ですよ。ほら、あいつの『妻』が来ますから」
「は? お前、何言って……」
「それより、今日の二年一年対抗戦が出来なくなる方がマズいですって。あと一時間しか無いんスよ、行きましょう!」
調子の良い矢野に背中を押されるようにして、先輩たちは仕方なさそうに再び走り出す。
蒼汰は反論する気力もなく、ただ右脚の鈍い痛みに顔をしかめながら、彼らの背中を見送った。
「いて……いててて……」
一人、コースに取り残された蒼汰は、汗を拭いながら痛む脚を引きずり、ゆっくりと歩き出した。
ふと、路肩の剥き出しになった土くれの中に、不自然なものが埋まっているのが視界の端に引っかかった。
「なんだ、これ……」
痛みを堪えてしゃがみ込み、土の中からそれを引っ張り出す。
それは、泥にまみれた古びた小さな木片だった。
大きさは手のひらに収まる程度。
ただの薄汚れたゴミにしか見えない。
だというのに、蒼汰の目はそれに釘付けになった。
泥と土に塗れているのに、不思議と腐敗したような臭いはない。
むしろ、ひどく胸をざわつかせる「何か」がそこにある気がしたのだ。
「ソータ!」
不意に名前を呼ばれ、蒼汰はビクッと肩を震わせた。
木片を無意識に土中に戻す。
顔を上げると、ランニングコースを走ってきた女子バドミントン部の列から、額賀月乃が抜け出して駆け寄ってくるところだった。
日焼けした肌に汗を光らせた彼女の目は、蒼汰が右脚を庇って不自然な立ち方をしていることを、あからさまに見抜いていた。
「あんた、また無理したでしょ。右脚、おかしいじゃない」
ズカズカと遠慮なく踏み込んでくる口調とは裏腹に、その顔には深い心配の色が浮かんでいる。
列の先頭を走っていた女子バドミントン部の先輩が、足を止めずに大声で叫んだ。
「月乃ー!遅れてもいいから、海老山くん助けてあげてー!」
「はいっ! すみません!」
月乃は先輩に向かって元気よく返事をすると、呆れ顔で蒼汰に向き直った。
「ほら、肩貸すから」
「……わりぃ」
幼馴染特有の気安さで、蒼汰は素直に月乃の華奢な肩に腕を回した。
至近距離に顔が近づき、彼女の髪から汗と混じった微かなシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。
クラス中が知っている「公然の秘密」――『夫婦と揶揄されている幼馴染の間柄』のせいで少しだけ気恥ずかしかったが、今はそんな強がりを言える余裕はなかった。
結局、その日の部活は大事をとって見学することになった。
肉離れ一歩手前。
顧問の堂島にはこってりと絞られたが、「完全にやってしまうよりはマシだ」と氷嚢を渡された。
夕焼けが空を毒々しいほどに赤く染め上げ、遠くでひぐらしの鳴き声が鼓膜を打つ。
蒼汰は自転車通学だったが、ペダルを漕ぐことはできず、月乃と一緒に自転車を押しながら帰路についていた。
自宅までの道のりは約三・五キロ。
普段ならどうということもない距離だが、足を引きずりながら歩く今日は、果てしなく遠く感じられた。
「本当に馬鹿なんだから。対抗戦の前だからって張り切りすぎなのよ。公式戦でもないただの練習なのに……。怪我したら元も子もないじゃない」
「しょうがねえだろ。俺だってレギュラー争いのアピールしてえんだよ」
「アピールは見学席からするわけ?」
「うっ……」
隣を歩く月乃の正論の小言を適当に受け流しながら、蒼汰の頭の片隅には、記憶の中にある「あの木片」の存在がこびりついて離れなかった。
(あれは……なんだったんだろう)
土に塗れたただのゴミ……忘れてしまえばいいのにまるで、それが自分に見つけてもらうのを待っていたかのような、気味の悪い愛着すら感じていた。
深夜、午前二時。
不意に、蒼汰の意識が水面から顔を出すように浮上した。
夢を見ていたわけではない。
まるで冷水を浴びせられたかのように、極限まで澄み切った覚醒だった。
無音――耳鳴りがするほどの静寂の中で、体を起こそうとした瞬間、異常に気がついた。
動かない――。
右腕も、左脚も、指先一本すらピクリとも動かないのだ。
まるで分厚いコンクリートの板の下敷きになっているかのような、圧倒的な重圧。
(金縛り……!?)
焦りが全身の血流を一気に加速させる。
力を込めようとするが、筋肉は一切の命令を受け付けない。
眼球だけが、キョロキョロと無様に動く。
首から下はおろか、顔の筋肉すら硬直している。
寝ぼけているわけでは断じてない。
頭の中は、これ以上ないほどクリアだった。
ミシリ……ミシリ……。
暗闇の中で、部屋が鳴った。
…………家鳴りだろうか。
いや、エアコンの温度差による軋み音か。
蒼汰の理性は必死に論理的な説明を探したが、本能――無意識下の第六感、あるいは第七感が、頭蓋骨の裏側でけたたましい警報を発していた。
ちがう。
何かが、いる――――。
蒼汰のベッドの隣には、二階のテラスへと続く窓がある。
あろうことか、今夜に限って蒼汰はカーテンを閉め忘れていた。
網戸越しに見える、青白い月光に照らされたテラス。
刹那、ソレは現れた。
視界の端、テラスの床の上に「立って」いた。
暗がりの中で目を凝らした蒼汰は、心臓が凍りつくのを感じた。
ソレが穿いているのは、ひどく古びた、泥だらけのモンペだった。
それだけなら、深夜の不審者で済む。
タチの悪い泥棒だと思えばいい。
だが、決定的に……狂っていた。
モンペを穿いたその足は――腰から上が、完全に存在しなかったのだ。
(なんだ……あれ……)
頭が理解を拒絶する。
何をするわけでもなく、ただ下半身だけがそこに直立している。
もう少し体を動かせば、腰の断面すら見えてしまいそうだった。
見たくない。
絶対に見てはいけない。
もしそこに、血塗れの肉の断面や、真っ白な骨が見えてしまったら、自分の正気は完全に崩壊する。
助けを呼ぼうにも、声は出ない。
ヒュウ、ヒュウという浅い呼吸音だけが、静寂の部屋に響く。
動かない……向こうも、動かない。
ただ、圧倒的な「悪意」にも似た視線――目などないはずなのに――が、蒼汰を射抜いている。
一時間経ったのだろうか。
それとも二時間か。
極限の恐怖の中で、時間感覚は完全に狂い、溶けていた。
ただ、蒼汰はソレを見つめることしか許されなかった。
瞬きすらできない眼球が乾き、生理的な涙が頬を伝う。
「ウワァァァァァ!!」
唐突に、全身を縛り付けていた見えない鎖が解けた。
跳ね起きた勢いで振り回した右手が、ベッドの木製フレームに激突する。
バキーンという派手な音とともに拳の皮が破れ、鮮血が滲んだ。
ジンジンと脈打つ痛みが、ここが現実であることを蒼汰に強烈に教えてくれる。
荒い息を吐きながら、血走った目でテラスを睨みつける。
消えていた――。
モンペの下半身は、幻のように姿を消している。
そこにあるのは、月明かりに照らされた無機質なテラスの床だけだ。
「どうしたの!? ソウクン!」
ドタバタと廊下を走る足音が聞こえ、勢いよく部屋のドアが開かれた。
飛び込んできたのは、高三の姉、蒼翠だった。
整った顔立ちをした美人だが、この姉は少し――いや、かなりブラコン気味だ。
高校生になった弟を未だに「ソウクン」と呼び、「かわいい」と本気で思っている節がある。
そしてすぐ体……胸や腕をペタペタと触るのだ。
蒼翠はパジャマ姿のままベッドに駆け寄り、蒼汰の顔を覗き込んだ。
「すごい悲鳴出したけど……タイヘン、手、血が出てるじゃない!」
蒼汰は震える唇を噛み締めながら、今起きた異常な出来事を姉に説明した。
金縛りに遭ったこと、テラスに下半身だけの女が立っていたこと。
だが、蒼翠は目を丸くしたあと、ケタケタと甲高い声で笑い出した。
「やだもう、ソウクンったら!ホラーゲームのやりすぎじゃないの?ゾンビクライムだっけ?あれやりながら寝落ちしたんでしょ」
「ちがう!本当に出たんだよ!ゲームはリビングだろ?つーか、女の子の……腰から上がなくて……」
「はいはい、怖い夢を見たのね。かわいそうに」
蒼翠は全く信じていない様子で、からかうように言った。
「そんなに怖いなら……お姉ちゃんが一緒に寝てあげる?」
普段なら「ふざけるな、バカにしてんのか」と怒鳴り散らして部屋から追い出すところだ。
だが、今の蒼汰には笑い事ではなかった。
体の芯から湧き上がる震えが止まらない。
目を閉じれば、あの不気味な泥だらけのモンペ姿が脳裏に焼き付いて離れないのだ。
このまま一人で夜を明かすことなど、絶対に不可能だった。
一睡もできなければ、今日の部活に見学すら行けなくなる。
蒼汰は無言のまま、おっとりとした姉の細い腕を力一杯掴み、強引にベッドの中へと引きずり込んだ。
「きゃっ!? ちょっと、ソウクン!?」
驚いて声を上げる蒼翠を無視して、蒼汰は布団を頭までスッポリと被り、ガタガタと小刻みに震え続けた。
「……もう、しょうがないなぁ」
諦めたようにため息をついた姉の、背中に感じる温もりだけが、狂いそうな世界における唯一の現実の繋ぎ止めだった。
翌朝。
案の定、ほとんどまともに眠れなかった蒼汰は、鉛のように重い体を引きずって朝練に向かっていた。
部活の最初に行われる「虫ロード」と呼ばれる裏山のランニングコース。
肉離れの手前である蒼汰は、ランニングを免除されたにもかかわらず、そこに居た。
昨日、足の痛みに顔をしかめた場所。
蒼汰は立ち止まり、周囲の土に目を凝らした。
あった。
昨日と同じように、土に半分埋もれたソレ。
蒼汰はしゃがみ込み、躊躇うことなくその木片を拾い上げると、ジャージのポケットにねじ込んだ。
直感していた。
昨夜の怪異。
あの腰から上のないモンペの女。
あの恐怖の原因は、間違いなくこの木片にある。
これを放置したままでは、きっと今夜も、明日の夜も……あの女はテラスに現れる。
毎晩あんな正体不明の恐怖を味わい続けるくらいなら、自らの手で正体を暴いてやる。
(これはなんだろう?帰って、綺麗にしてみないと……)
土混じりの木片は泥に塗れていたが、ポケットの中で指先が触れた感触は、ただの朽ちた木ではなかった。
表面には、滑らかで冷たい漆が塗られているのがわかった。
プロの作品には見えない……どこか……温かみがあって想いが込められたような漆の質感は、不思議と恐怖を感じるものでは無かった。
蒼汰はポケットの上から木片を強く握りしめ、自分自身を鼓舞するように前を向いて歩き出した。




