Ep1.『平穏な日常は、一瞬にして崩れる。』
人付き合いは、面倒だ。
誰かに気を遣い、相手の顔色をうかがい、自分の時間を削ってまで関係を築く。
そんな生活を避け、平穏な毎日を送ること。それが俺、瑆の望みだった。
――そう、"彼女"と関わるまでは
俺の朝は、早朝に始まる。
目覚ましが鳴る前に起き、朝食を済ませる。六時半から七時までは、海外のプレイヤーと遊べるオンラインゲーム。遊びながら英語に触れられるのだから、なかなか合理的だ。
七時になると勉強を始め、八時には学校へ到着する。
目的はただ一つ。
誰もいない教室で、静かに読書をするためだ。
俺は窓際の席に座り、鞄から推理小説を取り出した。
登場人物の何気ない一言。意味がないように見える行動。そうした細かな手掛かりが、物語の終盤で一つにつながる瞬間がたまらない。
「……なるほど。そういうことか」
読み終えた俺は、思わず呟いた。
犯人の行動を振り返り、ほかにもっと合理的な選択肢がなかったか考える。物語が終わっても、楽しみは終わらない。
こうして一人で考えている時間が、俺は好きだった。
誰かに合わせる必要もない。無理に会話をする必要もない。
ただ、自分の世界に浸っていられる。
最高じゃないか。
学校生活において、俺には信念がある。
面倒なことには、極力関わらない。
一度誰かと親しくなれば、次も話しかけられる。そのうち一緒に行動するようになり、気づけば自分の時間まで他人の都合に左右される。
もちろん、友達を作ることが悪いとは思わない。
ただ、俺には必要ない。
俺はこの考えを、勝手に「絶対保身術」と呼んでいる。
教室の後方、窓際の席。
ここを拠点に、俺はボッチの独立国家を築いていた。国民は俺一人。外交問題もなければ、面倒な会議もない。
実に平和な国である。
昼休みも、当然一人だ。
弁当を食べていると、クラスメイトがプリントを手に話しかけてきた。
「なあ、これって次の授業で使うやつ?」
「たぶんそうだと思う。さっき先生が配っていたやつじゃないかな」
「お、ありがと」
「うん」
会話終了。
よし。
俺は心の中で安堵した。
話しかけられたら普通に答える。必要な会話を避けるつもりはない。
ただ、用事が済んだなら、それ以上話す必要もないだろう。
このまま何事もなく一日が終わればいい。
――そう思っていた。思っていたのに………
午後の授業。
担任の先生が、先月のテストを返却し始めた。
俺は答案を受け取り、点数を確認する。
100点……よし、問題ない。
答案をしまおうとした、そのとき。
「えっ、うそでしょ!? ちょっと待って、これ本当に私の点数!?」
教室に、よく通る明るい声が響いた。
甘城灯乃。
明るくて、誰にでも気さくに話しかける、クラスの人気者だ。彼女が笑えば、周囲にも自然と笑顔が広がる。
「甘城、今回はもう少し頑張らないとな」
先生の言葉に、灯乃は答案を見つめたまま固まった。
「うわぁ……これはガーンって感じだよぉ!」
大げさに肩を落とす彼女に、周囲から笑い声が上がる。
「灯乃ちゃん、そんなに悪かったの?」
「もー! 今日は答案の話は禁止!」
灯乃は頬を膨らませ、それからいつもの明るい笑顔を浮かべた。
「次は絶対に巻き返すから! 見てなさいよー!」
「その自信はどこから来るんだよ!」
クラスメイトの突っ込みに、灯乃は楽しそうに笑った。
……いつもどおりだ。
そう思って視線を戻しかけたとき、ふと気づいた。
席に座った灯乃の笑顔が、消えていた。
彼女は答案を机の下へ隠すように伏せ、じっと見つめている。
今にも泣き出しそうに見えたのは、気のせいだろうか。
次の瞬間、誰かに話しかけられた灯乃は、再び明るい笑顔を浮かべた。
俺はそれ以上、考えるのをやめた。
他人の事情に首を突っ込むのは、絶対保身ロジックに反する。
俺には関係ない。
……関係ない………はずだ。
放課後。
帰ろうとした俺は、担任の先生に呼び止められた。
「少し話がある。職員室に来てくれ」
嫌な予感がした。
職員室に入ると、先生は書類を机に置き、俺に向き直った。
「甘城のことは知っているな?」
「同じクラスですから、もちろん」
「最近、あいつの成績が落ちてきていてな。勉強を教えてやってくれないか?」
……なるほど。
面倒事の匂いがする。
「申し訳ありませんが、俺は自分の勉強に専念したいので、ほかの人を当たっていただけると助かります」
できるだけ丁寧に、そして明確に断った。
俺には俺の予定がある。
放課後は図書室の個別利用枠を使い、静かに勉強する。それが俺の大切な日課だった。
だが、先生は簡単には引き下がらなかった。
「そう言うと思ったよ。だが、お前にしか頼めないんだ」
「ほかにも成績のいい人はいると思いますが……」
「お前が使っている図書室の個別利用枠。あれの鍵だが、協力してもらえないなら、今後は渡せないかもしれないな」
「っ!」
それは困る。
俺の平穏な学校生活を支える、重要な拠点なのだ。
失うわけにはいかない。
「……先生。それは少々、話が違うのでは?」
「頼む。甘城を助けてやってくれ」
先生は真剣な表情で頭を下げた。
俺はしばらく黙り込んだ。
断れば、図書室の個別利用枠を失うかもしれない。
引き受ければ、放課後の時間が削られる。
どちらも嫌だ。
だが、失うものを考えれば、答えは一つしかなかった。
「……はぁ。わかりました。引き受けます」
「おぉ!やってくれるか!ありがとな、助かる!」
先生の顔がぱっと明るくなる。
俺の心は、反対に沈んでいった。
職員室を出ると、廊下で灯乃が待っていた。
「あっ、瑆くん!」
彼女は小走りで近づいてくる。
「先生から聞いたよ。勉強、教えてくれるんだって?」
「……そういうことになった」
「よ、よろしくね! ごめんね? 付き合わせちゃって」
いつもの明るい笑顔。
けれど、さっき答案を見つめていた彼女の表情が、ほんの一瞬だけ頭をよぎった。
「別に、交わした約束だし」
俺は視線をそらした。
「それに、これからの学校生活を思うと先が思いやられるし……」
「えっ?」
「いや、こっちの話。気にしないで」
余計なことを言った。
俺は咳払いをして、話を続けた。
「大丈夫。ちゃんと教えるつもりだから。それに、俺に他意はない。安心してくれ」」
「た、他意?」
灯乃がきょとんとした。
……しまった。
なぜ俺は、聞かれてもいないことをわざわざ説明したのだろう。
これもすべて、絶対保身術の一環である。
たぶん。
「それで、いつから始める?」
「えっと、明日の放課後はどうかな?」
「わかった。教室でいい?」
「うん! よろしくお願いします!」
灯乃は、今度こそ心から嬉しそうに笑った。
「こちらこそ……」
俺は小さく頷いた。
こうして、俺の平穏な日常は、あっけなく崩れ始めた。
――ただし、このときの俺はまだ知らない。
この少女との関わりが、俺のせっかく築き上げたボッチの独立国家を、少しずつ変えていくことになるなんて。
第1話を読んでくれて、ありがとうございます!
一人の時間を愛する瑆と、いつも笑顔の人気者・灯乃。
正反対に見える二人の関係は、家庭教師という思いがけないきっかけから始まります。
瑆の平穏な日常は、これからどう変わっていくのか。
次回も楽しんでもらえたら嬉しいです!




