第5話 王家の書簡は、だいたいろくでもない知らせを運んでくる
第5話 王家の書簡は、だいたいろくでもない知らせを運んでくる
王家の紋章入りの書簡を前にした瞬間、ケン・サトウは、心の底から理解した。
ああ、これはろくでもない。
宿屋『跳ね馬の亭』の廊下は、夜更けだというのに妙に騒がしかった。階下の酒場ではまだ数人の客が飲んでいるらしく、笑い声と食器の触れ合う音がかすかに響いてくる。だが、そんな日常の音が、今の健にはひどく遠く感じられた。
宿の主人は、両手で大事そうに封書を持っていた。厚手の羊皮紙に、赤い封蝋。そこに刻まれているのは、王冠と剣、そして麦穂を組み合わせたこの国の王家の紋章だ。いかにも「重要です」「逆らえません」「面倒です」と言わんばかりの威圧感がある。
「……本物ですか?」 「早馬の使者が、王都から直々に持ってきたんだよ。宿帳を見て、あんたの部屋を確認していった。返答は明朝で構わないが、必ず目を通してほしいってさ」
主人の声にも緊張が混じっていた。無理もない。王家の使者が地方の宿屋に現れるなど、普通の人生ではまず起きない。
「ありがとうございます」 「ケンさん……何かやらかしたのかい?」 「俺も今、そこを真剣に考えてるところです」
主人は乾いた笑いを漏らしたが、すぐに真顔に戻った。
「……まあ、なんだ。うちの宿としては、あんたがいい客だってことは分かってる。もし何か困ったことがあるなら、できる範囲で力になるよ」 「ありがとうございます。でも、たぶんこれは、宿屋レベルでどうこうできる話じゃないですね」 「だろうねえ……」
主人は肩をすくめ、階下へ戻っていった。
部屋に戻った健は、机の上に封書を置き、しばらくそれを見つめた。開けたくない。ものすごく開けたくない。前世でも、深夜に届く「至急確認お願いします」のメールにろくなものはなかった。王家の書簡など、その異世界版最上位互換に決まっている。
「……でも、見ないわけにもいかないか」
観念して封蝋を割る。中から取り出した羊皮紙には、流麗で無駄のない筆致で、こう記されていた。
ロンドベル冒険者ギルド物流顧問
ケン・サトウ殿
貴殿の近時における物流改善および在庫管理に関する卓越した手腕、ならびに市場安定化への寄与について、王都にて報告を受けた。
ついては、王都における流通・医療・備蓄体制の見直しに関し、貴殿の知見を聴取したく、三日以内に王都へ出頭されたし。
本件は王家直轄の諮問案件であり、正当な理由なき辞退は認められない。
なお、移動に際しては王家の名において必要な便宜を図るものとする。
王国宰相府 特務書記官
アルベルト・シュタイン
「……知見を聴取、ねえ」
健は紙を机に置き、両手で顔を覆った。
文面は丁寧だ。だが、内容は実質的に召喚状である。しかも「正当な理由なき辞退は認められない」ときた。前世で言えば、「任意のヒアリングです」と言いながら、欠席したら人事評価に響くタイプのやつだ。
「王都における流通・医療・備蓄体制の見直し……」
そこだけ切り取れば、健の専門性に合っている。むしろドンピシャだ。だが、だからこそ危険でもある。王都規模の物流改善など、関わったら最後、平穏な地方生活には戻れなくなる可能性が高い。
しかも「市場安定化への寄与」とある。つまり、今日のマジック・リーフと蒼銀鉱石の件は、もう王都まで届いている。市場監督局の監査官が帰ったその日のうちに、だ。
「情報伝達、早すぎるだろ……」
健はため息をついた。だが、嘆いていても仕方がない。まずは状況整理だ。
脳内メニューを開く。
【現在の懸念事項】 ・王都からの召喚 ・市場監督局への運用規程提出 ・ギルドおよび商会への説明 ・新機能[物流結界網]の保留中 ・隔離タブ内『神殺しの黒刃』の安定監視
「うん、仕事が多い」
前世の月曜朝みたいな一覧だ。しかも今は深夜である。理不尽にもほどがある。
健はベッドに腰掛け、しばらく考えた。王都へ行くべきか。答えは、実質的に「行くしかない」だろう。ここで拒否しても、もっと面倒な形で圧力が来るだけだ。ならば、こちらから条件を整えて臨むしかない。
「……明日、まずはギルド長とエレノアに相談だな」
そう決めると、少しだけ頭が整理された。前世でもそうだった。厄介な案件ほど、一人で抱え込むとろくなことにならない。関係者を巻き込み、役割を分担し、ルールを決める。それが唯一の生存戦略だ。
健は書簡を丁寧に畳み、枕元に置いた。
「寝よう。判断力が落ちた状態で考えても、ろくな結論にならない」
そう呟いて横になる。だが、目を閉じても、王都、宰相府、監督局、王家直轄、という単語が頭の中をぐるぐる回り続けた。
結局、健が眠りにつけたのは、空が白み始める少し前のことだった。
翌朝。
いつもなら「定時睡眠、素晴らしいな」と感動しているはずの健は、寝不足気味の頭を抱えながら、宿の朝食を機械的に胃へ流し込んでいた。トマトと塩豚のスープは相変わらずうまい。黒パンも香ばしい。だが、今日は味わう余裕がない。
「顔色悪いよ、ケンさん」 「ええ、ちょっと王家に呼ばれまして」 「それは顔色も悪くなるねえ」
宿の女将が妙に納得した顔でうなずいた。王家に呼ばれて顔色が良くなる人間は、たぶん相当な野心家だけだろう。
朝食を終えた健は、そのまま冒険者ギルドへ向かった。
ギルドは朝から活気に満ちていた。依頼板の前では冒険者たちが騒ぎ、カウンターではミラがてきぱきと受付をこなしている。昨日までの混乱が嘘のように、荷受けも査定も流れるように進んでいた。
「おはようございます、ケン顧問!」
ミラが健に気づき、ぱっと顔を明るくした。だが、すぐにその表情が曇る。
「あれ……? どうかされました? なんだかお疲れのような……」 「少し寝不足で」 「もしかして、昨日レヴィ大商会で何か大変なことが?」 「ええ、まあ、いろいろと」
ミラはじっと健を見た。勘のいい彼女は、それだけで何かを察したらしい。
「……ギルド長、奥にいらっしゃいます。あと、今朝早くからエレノア様も来られてます」 「早いですね」 「ものすごく真剣なお顔でした。『ケン様が来たらすぐ通して』って」
嫌な予感しかしない。
健は奥の応接室へ向かった。扉を開けると、案の定、ガルガギルド長とエレノアがすでに待っていた。テーブルの上には地図、書類、そして見覚えのある王家の封書が置かれている。
「おう、来たかケン」 「おはようございます、ケン様」 「……お二人とも、もう書簡を?」 「ええ。私のところにも来ましたわ」 「俺んとこにもだ」
ガルガは腕を組み、露骨に不機嫌そうな顔をしていた。
「王都の連中め、仕事が早すぎる。昨日の今日で地方ギルドの顧問を呼びつけるたぁ、よっぽど切羽詰まってるか、よっぽど欲しがってるかのどっちかだ」 「たぶん両方ですね」
健がそう言うと、エレノアが静かにうなずいた。
「私も同意見ですわ。しかも、これは単なる事情聴取ではありません。王都側は、ケン様を『一時的な助言者』としてではなく、継続的に関与させる可能性を探っているはずです」 「やっぱりそう見えます?」 「ええ。文面が丁寧すぎますもの。丁寧な召喚状ほど危険ですわ」
その表現、すごく分かる。
ガルガが机を拳で軽く叩いた。
「だが、無視はできねえ。王家直轄って書いてある以上、断ればこのギルドにも商会にも火の粉が飛ぶ」 「ですよね」 「だから行くしかねえ。ただし、丸腰で行くな」
ガルガの目が鋭くなる。
「ケン、お前はもうただの倉庫番じゃねえ。少なくとも、向こうはそう見てねえ。なら、こっちも『地方の便利屋』として差し出すんじゃなく、『ロンドベルギルドとレヴィ大商会が共同で抱える重要顧問』として送り出す」 「共同で?」 「ええ」
エレノアが言葉を継いだ。
「王都に対して、あなた個人をむき出しで渡してはいけません。必ず『組織に属する専門家』として位置づける必要があります。そうすれば、王都側も勝手な引き抜きや拘束はしにくくなる」 「なるほど……」 「さらに、私とギルド長で連名の紹介状を用意します。あなたの役割、権限範囲、そしてロンドベルにおける継続業務の必要性を明記する。要するに、『この人は借り物であって、持っていかれると困る』と公式に示すのです」
健は思わず感心した。完全に人材流出防止策である。前世の会社でも、優秀な人材が本社に引き抜かれそうになると、現場が必死に「この人がいないと回りません」と根回ししていた。異世界でもやることは同じらしい。
「ありがたいです」 「礼には及びませんわ。あなたを失うと、こちらも困りますもの」 「副会長、正直ですね」 「商人ですから」
エレノアは涼しい顔で言った。
ガルガは鼻を鳴らす。
「それと、王都へは一人で行かせねえ」 「え?」 「護衛兼監視役をつける」 「監視役」 「おう。お前、妙なところで無茶しそうだからな」
健は少しだけ心外だった。いや、少しではない。かなり心外だ。
「俺、そんなに無茶します?」 「する」 「しますわね」 「即答だ」
二人に揃って断言され、健は反論を飲み込んだ。昨日だけで腐った薬草を最高級品に変え、崩れた鉱石を修復し、監査官に内部統制を提案した男に「無茶しない」と言われても説得力は薄いのかもしれない。
「で、誰が?」 「ミラです」
健は思わずミラの方を振り返りそうになった。いないけど。
「ミラさん?」 「はい」
エレノアがうなずく。
「彼女はギルドの受付として現場理解があり、対人調整能力も高い。何より、あなたの仕事の流れをある程度理解している。王都での窓口役としても適任ですわ」 「でも、ギルドの仕事は?」 「そこは俺が何とかする」
ガルガが胸を叩いた。
「数日なら回せる。むしろ、王都の連中に『ケン一人を自由にさせると危険だ』って印象を与える意味でも、現場を知ってる補佐役がいた方がいい」 「危険って、俺が?」 「お前の能力が、だ」
それは否定できない。
健は少し考えた。ミラが同行するのは、正直ありがたい。王都での事務連絡や現場調整を一人でやるのはしんどいし、何より信頼できる相手が近くにいるのは精神的に大きい。
「……分かりました。ただ、本人の意思確認は必要ですよ」 「もちろんですわ」 「今から呼びましょう」
ガルガが大声でミラを呼ぶと、ほどなくして彼女が応接室に入ってきた。いつもの受付制服姿だが、呼ばれた理由が分からないのか、少し緊張している。
「し、失礼します。ギルド長、お呼びでしょうか?」 「おう。座れ」 「は、はい」
ミラは健とエレノアの顔を見比べ、ますます不安そうになった。
「えっと……何か問題が?」 「問題というか、相談だ」
ガルガは王家の書簡を彼女の前に置いた。
「ケンが王都に呼ばれた」 「……え?」 「しかも三日以内に出頭しろときた」 「えええっ!?」
ミラの声が裏返った。無理もない。
「お、王都って、あの王都ですか!? 王城があって、貴族様がいっぱいいて、物価が高くて、パン一個がこの町の三倍するっていう!?」 「たぶんその王都だな」 「そこにケン顧問が!? な、なんで!?」 「俺も知りたい」
健が真顔で答えると、ミラは一瞬だけ「ですよね」と納得した顔になった。
エレノアが穏やかに説明する。
「王都側は、ケン様の物流改善能力に注目しています。ですが、こちらとしては、ケン様を無防備に送り出すわけにはいきません。そこで、ミラさん。あなたに同行をお願いしたいのです」 「わ、私がですか!?」 「ええ。ギルド側の正式な補佐役として」 「で、でも、私なんかで……!」
ミラは慌てて両手を振った。だが、ガルガはきっぱりと言う。
「お前だからだ。受付で現場を回し、冒険者の相手をし、ケンの作った仕組みも理解してる。王都の連中に対しても、ギルドの実情を説明できる」 「そ、それは……」 「もちろん、無理強いはしねえ。危険だと思うなら断っていい」
ミラは唇をきゅっと結び、しばらく考え込んだ。やがて、ちらりと健を見る。
「……ケン顧問は、どう思われますか?」 「正直に言うと、来てもらえると助かります」
健はまっすぐ答えた。
「王都で何が起きるか分かりませんし、俺一人だと事務処理も対外調整も手が回らないと思うので。ミラさんがいてくれたら、かなり心強いです」 「……!」
ミラの頬が少し赤くなった。だが、すぐに表情を引き締める。
「分かりました。私でよければ、同行します」 「よし、決まりだな」
ガルガが満足げにうなずいた。
こうして、王都行きのメンバーは、健とミラの二人に決まった。
その後の打ち合わせは、驚くほど実務的だった。
移動手段は、王家が用意した馬車を使う。ただし、レヴィ大商会の護衛を一部同行させる。王都での宿泊先は、商会の王都支店が管理する来客用宿舎を利用。監督局への運用規程草案は、エレノアが先に使者便で送る。ギルド側では、健不在中の荷受け運用をミラの副担当が引き継ぐ。
まるで出張準備だな、と健は思った。いや、実際出張なのだが、行き先が王都で、相手が王家というだけで胃への負担が段違いである。
「出発は明日の早朝ですわ」 「早いですね」 「三日以内ですもの。余裕を持って動くべきです」 「ですよね……」
エレノアはさらに一枚の紙を差し出した。
「こちら、王都で想定される相手先一覧です」 「もう作ったんですか」 「昨夜のうちに」
仕事が早い。
紙には、王都中央市場監督局、宰相府、王立医療院、備蓄管理局、商業ギルド本部、そして聖教会の名前まで並んでいた。健は見ただけで頭が痛くなった。
「多いなあ……」 「ええ。ですが、逆に言えば、王都側も利害が割れているということです」 「利害が割れている?」 「市場の安定を重視する者、医療供給を優先する者、備蓄を増やしたい者、技術を独占したい者。立場が違えば、欲しいものも違います。つまり、全員が一枚岩ではありません」 「なるほど」 「だからこそ、こちらも『誰に何を見せ、何を見せないか』を管理する必要があります」
完全に政治案件だ。健は心の中で泣きたくなった。
だが、エレノアの分析は的確だった。王都側が一枚岩でないなら、こちらにも交渉の余地がある。少なくとも、ただ一方的に飲み込まれるだけでは済まないかもしれない。
「ケン様」
エレノアが少しだけ声を和らげた。
「怖いですか?」 「……正直に言うと、かなり」 「それでいいと思いますわ」 「え?」 「怖さを知っている人ほど、慎重に動けます。自分を無敵だと思っている人間の方が、よほど危険ですもの」
その言葉に、健は少しだけ肩の力が抜けた。
「ありがとうございます」 「ただし」
エレノアはにっこり笑った。
「必要な時は、きっちり働いていただきますけれど」 「やっぱりそうなるんだ」 「当然ですわ」 「知ってた」
昼前には、王都行きの準備が本格化した。
ミラは受付業務の引き継ぎに走り回り、ガルガはギルド内の根回しを進め、エレノアは商会側の護衛と宿舎手配を整える。健もまた、自分の荷物をまとめるため一度宿へ戻った。
荷物といっても、大したものはない。着替え、筆記具、簡単な洗面道具、そして仕事用のメモ帳。前世の出張と違ってノートPCも充電器もないが、その代わり脳内にインベントリがある。便利なようでいて、危険物まで入っているのが問題だ。
健は部屋で一人になると、改めてステータス画面を開いた。
【名前】ケン・サトウ
【職業】ロンドベル冒険者ギルド・最高物流顧問
【固有スキル】『物流管理 Ver.2.0』
・メニュー:[インベントリ(隔離タブ:1)][在庫検索][ロジスティクス・マップ][神の棚卸し][概念分解・再構成][物流結界網(保留解除可能)]
隔離タブを確認する。
そこには相変わらず、『神殺しの黒刃』が不気味な静けさを保っていた。昨日の共鳴以降、暴走の兆候はない。だが、だからといって安心できる相手ではない。
「王都なんて行ったら、絶対ろくでもない反応しそうなんだよな……」
王都には、強力な魔道具も、古い結界も、神殿も、権力者もいるだろう。そういう場所で神話級アイテムが何も起こさない保証はない。
健は慎重に隔離状態を再確認した。
【状態】完全隔離・出荷停止
【漏洩魔力】ゼロ
【概念干渉】低活動
【警告】高位神聖領域・王家結界・古代遺物との接触時、再共鳴の可能性あり
「ほら見ろ」
やっぱり危ない。
健は深く息を吐いた。王都では、できる限り余計な場所に近づかない方がいい。王城の宝物庫とか、大神殿の地下とか、いかにもイベントが起きそうな場所には絶対に行きたくない。
「……フラグっぽいこと考えるのやめよう」
自分で自分に言い聞かせ、荷造りを終える。
その時、扉がノックされた。
「ケン顧問、いらっしゃいますか?」 「ミラさん?」
扉を開けると、ミラが小さな包みを抱えて立っていた。少し息が上がっている。引き継ぎの合間に来たのだろう。
「すみません、お忙しいところ」 「いえ。どうしました?」 「あの……これ、旅の間に必要かと思って」
差し出された包みの中には、乾燥肉、硬焼きパン、干し果物、そして小さな薬草茶の袋が入っていた。
「保存食?」 「はい。王家の馬車が出るとはいえ、道中で何があるか分かりませんし……。あと、このお茶、眠れない時に少し楽になるので」 「……ありがとうございます」
健は素直に受け取った。こういう気遣いは、本当にありがたい。
ミラは少し照れたように笑う。
「その……ケン顧問、昨日からずっと大変そうでしたから」 「まあ、そうですね」 「でも、無理しすぎないでくださいね。ケン顧問って、普段は『平穏が一番』って言ってるのに、いざ現場が困ってると放っておけないじゃないですか」 「うっ」 「図星ですよね?」 「……否定はしません」
ミラはくすっと笑った。
「だから、せめて道中くらいは、ちゃんと休んでください。王都に着いたら、きっともっと大変ですから」 「そうします」 「本当ですか?」 「努力目標として」 「それ、守らない人の言い方です」 「厳しいなあ」
だが、そのやり取りだけで、少し気持ちが軽くなった。
ミラは包みを渡し終えると、ふと真面目な顔になった。
「……ケン顧問」 「はい」 「私、王都なんて初めてで、正直すごく不安です。でも、ケン顧問が一緒なら、たぶん大丈夫だと思ってます」 「それは、買いかぶりかもしれませんよ」 「いいえ。だって、ケン顧問はいつも、めちゃくちゃな状況でも『まず整理しましょう』って言うじゃないですか」 「言ってますね」 「私、その言葉、結構好きなんです。混乱してても、ちゃんと順番に考えれば何とかなるって思えるから」
健は少しだけ目を見開いた。
前世では、そういう言葉を口にしても、誰かに感謝されることはあまりなかった。むしろ「理屈っぽい」「悠長だ」と言われることの方が多かった気がする。
だが、この世界では、その言葉が誰かの支えになっているらしい。
「……ありがとうございます」 「はい」
ミラは嬉しそうにうなずき、軽く一礼して去っていった。
扉が閉まった後、健はしばらくその場に立ち尽くしていた。
「……まず整理しましょう、か」
自分で言っていた言葉を、他人に返されるのは妙にくすぐったい。
だが、悪くない気分だった。
その日の午後、健はギルドと商会を行き来しながら、王都行き前の最終調整に追われた。
ギルドでは、ミラ不在中の受付フローを再確認し、荷受けフォーマットの運用を副担当へ引き継ぐ。商会では、エレノアと共に監督局向け規程草案の最終文言を詰め、王都支店への紹介状を確認する。
その合間にも、冒険者や商会員たちが健に声をかけてきた。
「ケン顧問、王都に行くって本当ですか?」 「すぐ戻ってきますよね?」 「うちの倉庫の棚番号、まだ完全に覚えてないんで、いなくなると困るんですが……」
そのたびに健は、「数日で戻る予定です」「運用ルールは残してあります」「困ったらまずフォーマットを見てください」と答えた。
不思議なものだ、と健は思う。
つい数日前まで、自分はこの世界でただの新人倉庫番だった。それが今では、ギルドでも商会でも「いないと困る人」になりつつある。
それは嬉しくもあり、同時に少し怖くもあった。
必要とされることは、時に鎖になる。
前世でそれを嫌というほど知っているからこそ、健は今の立場を慎重に扱わなければならないと思っていた。
夕方、すべての準備が一段落した頃、エレノアが最後の確認に来た。
「明朝、日の出前に商会前へ。王家の馬車と、こちらの護衛が待機しています」 「分かりました」 「王都では、まず商会支店に入り、その後、宰相府からの呼び出しに応じる流れになります」 「いきなり王城直行じゃないだけマシですね」 「ええ。ですが、油断は禁物ですわ」
エレノアは少しだけ声を落とした。
「ケン様。王都では、あなたの『できること』を全部見せる必要はありません」 「……はい」 「むしろ、見せない方がいい。特に、薬草の完全再生や鉱石の再構成のような、分かりやすすぎる奇跡は」 「分かってます」 「必要なのは、『有能な物流顧問』としての価値を示すことです。『国家が独占したくなる超常の技術者』としてではなく」 「その線引き、難しいですね」 「ええ。ですが、そこを誤ると、本当に帰れなくなりますわ」
冗談ではない。エレノアは本気で言っている。
健も真剣にうなずいた。
「気をつけます」 「それと」
エレノアは一瞬だけ言い淀み、やがて静かに続けた。
「もし、王都側があなたを無理に囲い込もうとした場合。遠慮なく、私とギルド長の名を使ってください。必要なら、商会として正式に抗議します」 「……そこまでしてくれるんですか」 「当然ですわ。あなたは、もうこちらの重要な協力者ですもの」
その言葉は、商人としての打算も含んでいるのだろう。だが、それだけではない気がした。
健は軽く頭を下げた。
「ありがとうございます」 「無事に戻ってきてくださいまし、ケン様」 「努力します」 「今度は努力目標ではなく、必達で」 「厳しいなあ」 「当然ですわ」
エレノアは微笑み、去っていった。
そして、王都行き前夜。
健は再び宿の部屋で荷物を確認し、早めに床についた。今夜こそ寝なければならない。明日からは長旅だし、その先には王都という巨大な面倒が待っている。
だが、やはり簡単には眠れなかった。
王都で何が待っているのか。 宰相府は何を求めているのか。 市場監督局はどこまで踏み込んでくるのか。 そして、自分のスキルは、王都という巨大なシステムの中で何を引き起こすのか。
考えれば考えるほど、不安は増える。
だからこそ、健は意識的に思考を切り替えた。
「まず整理しましょう」
小さく呟く。
「目的は、王都の要求を見極めること。こちらの立場を守ること。必要以上の能力を見せないこと。ロンドベルにちゃんと帰ってくること」
四つだ。多いようで、実際にはそれだけだ。
目的が定まれば、少しだけ心が落ち着く。
健は目を閉じた。
その直前、脳内でシステムが静かに通知を出した。
『――ロジスティクス・マップ更新』 『――王都方面に高密度物流ノードを検知』 『――複数の異常在庫反応、および高位結界反応を確認』 『――注意:未確認の神性干渉領域が存在します』
「……最後の一文、ほんとやめてほしい」
健は枕に顔を埋めた。
王家の書簡は、やはりろくでもない知らせを運んでくる。
だが、それでも行くしかないのだ。
平穏を守るために。 今の居場所を守るために。 そして、たぶん――この世界でようやく手に入れかけている「ちゃんと働いて、ちゃんと休める生活」を、誰にも壊させないために。
そうして、異世界最強の物流顧問は、王都への不安と、少しばかりの覚悟を胸に、ようやく浅い眠りへと落ちていった。
翌朝、彼を待つのは、王家の馬車と、初めての王都への道である。
そしてその先には、地方の一ギルド顧問では到底済まされない、王国規模の物流問題が待ち受けていることを――この時の健は、まだ知らなかった。
――続く。




