第3話:敏腕女商人と、インベントリ内の「神共鳴」
ロンドベルの町に、新しい朝が訪れる。 宿屋『跳ね馬の亭』の窓から差し込む柔らかな光を浴びながら、佐藤健――いや、この世界でのケン・サトウは、ゆっくりとベッドから身を起こした。 前世のブラック企業時代には、目覚まし時計の爆音に心臓を跳ね上がらせ、吐き気と戦いながら這い出していた朝。しかし今は、驚くほど体が軽い。「定時睡眠、素晴らしいな……」 健は軽くストレッチをしながら、自分のステータス画面を呼び出した。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【名前】ケン・サトウ【職業】ロンドベル冒険者ギルド・最高物流顧問【固有スキル】『物流管理』・メニュー:[インベントリ(隔離タブ:1)][在庫検索][ロジスティクス・マップ]ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 隔離タブの中にひっそりと格納されている、あの禍々しい『神殺しの黒刃』の文字を確認する。ステータスは「完全隔離・出荷停止」の状態を維持しており、外部への漏洩魔力はゼロだ。世界を揺るがす危険物が、自分の脳内ポケットの中で完全にコントロールされているという事実は、奇妙な全能感と、それ以上の「きっちり仕事をこなしている」というサラリーマン的な満足感を健に与えていた。 宿の一階で、トマトと塩豚のスープ、そして焼き立ての黒パンという最高の朝食を胃に収め、健は意気揚々と冒険者ギルドへと向かった。 ギルドの扉を開けると、朝の空気はすでに熱気に満ちていた。 これから狩りに出かける冒険者たちが装備の確認をし、依頼板の前で大声を上げている。しかし、昨日までとは明らかに違う変化が、ギルドの中に生まれていた。「おい、聞いたか? 地下倉庫の未処理素材が、昨日一晩で全部きれいに査定されたらしいぞ」「冗談だろ? あのゴミ山、鑑定士が三人がかりでも数ヶ月はかかるって言われてただろ」「マジだって。今朝、納品に行った奴が言ってた。受付のミラちゃんが、一瞬で素材を預かって、その場で正確な買い取り額を提示してくれたってよ。待ち時間がゼロだ!」 冒険者たちの間で交わされる噂話に、健は内心で苦笑した。 前世の物流現場でもそうだった。動線が詰まり、検品が滞ると、現場のドライバー(冒険者)たちの不満は爆発する。逆に、荷受けがスムーズになれば、全体の回転率は爆発的に向上するのだ。「あ、ケン顧問! おはようございます!」 カウンターの奥から、健の姿を見つけたミラが嬉しそうに手を振った。今日の彼女は、昨日までの疲弊した顔とは打って変わって、ハツラツとした笑顔を見せている。「おはようございます、ミラさん。朝から活気がありますね」「はい! ケン顧問が作ってくださった『荷受けフォーマット』と『一時保管ルール』、本当に凄いです! 今朝、薬草を持ち込んだ冒険者がいたんですけど、ルール通りに分類して指定の棚に置くだけで、数分で手続きが終わっちゃいました!いつもなら査定官を呼んで、書類を書いて、って一時間以上かかっていたのに……!」「それは良かった。現場の人間が迷わないように、視覚的に分かりやすくするのが『5S』の基本ですからね。ところで、ギルド長は?」「あ、ギルド長なら、奥の応接室でお待ちです。実は……ケン顧問に、どうしても会いたいという『お客様』が来られていまして……」 ミラの表情が、少しだけ曇った。困惑と、少しの警戒が混ざったような顔だ。「お客様? 俺にですか?」「はい。この町で最大の流通網を持つ『レヴィ大商会』の若き副会長、エレノア・レヴィ様です。ギルドの在庫が急に完璧に整理され、素材の流通スピードが変わったことを聞きつけて、日の出と共に乗り込んでこられたんです……」 健の脳内の社畜センサーが、ピピピと警戒音を鳴らした。(なるほど。有能な現場を作ると、すぐに目ざとい『取引先(大物)』が嗅ぎつけてくる。前世のBtoBビジネスでもよくあったパターンだ)「分かりました。挨拶に行ってきます。ミラさんはそのままカウンターの管理をお願いしますね」「はい、お気をつけて……。エレノア様、とても綺麗ですけど、交渉ごとに関しては『冷徹な女狐』って噂ですから……」 ミラに見送られ、健はギルドの奥にある重厚な応接室の扉を叩いた。「最高物流顧問のケンです。入ります」「おお、ケン! 待っていたぞ、入れ!」 ガルガギルド長の大声に促され、中に入る。 そこに座っていたのは、ガルガの巨体とは対照的な、息を呑むほどに美しい女性だった。 艶やかな金髪を完璧にまとめ上げ、仕立ての良い真紅の乗馬服に身を包んでいる。知的な青い瞳は、健が入ってきた瞬間、その頭の先からつま先までを鋭く値踏みするように走った。彼女の傍らには、執事風の老人が静かに控えている。「ケン、紹介しよう。こちらはこの町の流通の要、レヴィ大商会のエレノア副会長だ」「はじめまして、ケン・サトウ様」 エレノアは立ち上がり、完璧な貴婦人の礼を見せた。その声は鈴を転がすように美しいが、内に秘めた意志の強さがハッキリと伝わってくる。「はじめまして、レヴィ副会長。ギルドの物流顧問を務めております、ケンです」 健もまた、前世の営業職で数々の大物役員を相手にしてきた時と同じ、完璧な「ビジネスマンの姿勢」で一礼した。背筋を伸ばし、相手の目をまっすぐに見据え、かつ不快感を与えない絶妙な角度の頭の下げ方。 その健の洗練された所作を見て、エレノアの瞳がわずかに見開かれた。(……ただの倉庫番ではないわね。この落ち着き、そしてこの独特の礼儀作法……どこか遠くの大国の、高名な文官の血筋かしら?) エレノアは再び席に座ると、本題を切り出した。「単刀直入に申し上げます、ケン様。私は今朝、このギルドの地下倉庫から運び出されてきた『オークの毛皮』と『ゴブリンの魔石』のロットを見せていただきました。……驚愕いたしましたわ」「はぁ、どのあたりがでしょうか?」「すべてです。毛皮は傷一つないように完璧に分類され、魔石は魔力濃度ごとに寸分の狂いもなく分けられていた。しかも、それが『昨日の一晩』で行われたという。我が商会の熟練の目利きたちが総出でかかっても、あれだけの量を正確に査定し、台帳と突き合わせるには三日はかかります。それを、あなたが一人で成し遂げたと伺いました」 ガルガが隣で、バツが悪そうに頭を掻いた。どうやら、健のスキルそのものは隠したものの、「ケンが一晩でやった」ということ自体は隠しきれなかったらしい。「レヴィ副会長、私はただ、ギルドに伝わる『特別な魔法の道具』を使い、効率的な手順で整理しただけに過ぎません。個人の能力というよりは、システムの勝利です」 健は事前に用意していた言い訳を口にした。「ふふ、道具、ですか」 エレノアは妖艶に微笑んだ。その目は全く騙されていなかった。「仮にそうだとしても、その道具を使いこなし、あの完璧な『在庫管理表』を作成した能力は本物ですわ。ギルド長から見せていただいたあの書類……あれは、既存の商業ギルドのどの帳簿よりも合理的で、美しかった」 エレノアは身を乗り出し、健をじっと見つめた。「ケン様。単刀直入にスカウトをさせていただきます。我がレヴィ大商会へいらっしゃいませんか? 現在のギルドの待遇の『倍』を提示いたします。あなたには、我が商会のすべての倉庫と、物流網を統括する『総支配人』のポストをご用意いたしますわ」(出た、引き抜き交渉。しかもいきなり倍額提示か) 前世の健なら、飛びついていたかもしれない。しかし、今の健は冷静だった。 大商会の総支配人。響きはいいが、それはつまり「より大規模なブラック労働」の始まりを意味している。世界中に広がる倉庫の管理、数千人の部下、利権を巡る貴族たちとのドロドロとした交渉。そんなものに関わったら、今度こそ二度目の過労死を迎えてしまう。「大変光栄なお話ですが、レヴィ副会長。そのお話はお断りさせていただきます」「……え?」 エレノアの完璧な笑顔が、初めて崩れた。まさか、一介の新人倉庫番に、大商会の幹部ポストを蹴られるとは思っていなかったのだろう。「なぜですの? 金貨二十枚でも不満だと言うのですか? それなら、二十五枚でも……」「お金の問題ではありません。私は、このロンドベルギルドの、このサイズ感の現場が気に入っているのです。あまりに大きすぎる組織の管理は、私の望む『平穏な生活』を脅かしますので」 健の迷いのない言葉に、エレノアは言葉を失った。世の商人は誰もが富と名声を求める。しかし、目の前の青年は、明らかな「天才的な能力」を持ちながら、それを誇るでもなく、ただ平穏を求めている。その底知れなさに、エレノアは恐怖すら感じ始めていた。「……分かりましたわ。無理に引き抜こうとすれば、ギルド長と戦争になりますしね」 エレノアはチラリとガルガを見た。ガルガは「おうよ、ケンは渡さねえぞ」と言わんばかりに腕を組んでフンスと鼻を鳴らしている。「ですが、ケン様。引き抜きがダメなら、共同事業の提案をさせてください」「共同事業、ですか?」「ええ。我がレヴィ大商会がギルドから買い取る素材の『納品方法』および『在庫の共有』についてです。ケン様が作られたあの管理システムを、我が商会の受け入れ窓口にも導入させていただけないでしょうか? そうすれば、ギルドからの引き取りスピードはさらに倍加し、お互いに無駄な待ち時間を削減できるはずです」 健の目が、きらりと光った。(……この女、やるな。ただの引き抜きが失敗したと見るや、すぐに『全体のサプライチェーンの最適化』に舵を切ってきたか。これなら、俺の仕事もむしろ楽になる)「なるほど。ギルドと商会の間の『物流の標準化(プロトコル統一)』ですね。それであれば、私としても大歓迎です。ギルド全体の業務効率化に繋がりますから」「標準化……プロトコル……? また面白い言葉を使いますのね。ええ、まさにそれですわ!」 エレノアは嬉しそうに手を叩いた。「では、具体的なシステム構築について、早速打ち合わせを始めましょう。ケン様、今日の午後は空いていらっしゃいますか?」「ええ、私の仕事は午前中に大体終わらせてありますので、構いませんよ」「素晴らしいわ。では、我が商会の本邸へご案内します――」 こうして、健は異世界の敏腕女商人エレノアと、物流の合理化を巡る本格的なビジネス交渉に臨むことになった。 * 午後。健はエレノアの馬車に同乗し、町の中心部にあるレヴィ大商会の本部へと向かっていた。 馬車の中で、エレノアは熱心に健に質問を浴びせかけてきた。「ケン様、先ほどおっしゃっていた『動線の確保』についてですが、我が商会の第一倉庫は荷物の搬入時にどうしても馬車が渋滞してしまうのです。これを解消する良いアイデアはございませんか?」「それは、入り口と出口が同じだからですよ。一方向通行の構造に改修し、手前から『荷受け』『検品』『保管』、そして奥から『出庫』という一本のラインを作れば、馬車が鉢合わせることはなくなります」「一方向通行……! なるほど、なぜそんな簡単なことに気づかなかったのかしら……!」 エレノアは夢中でメモを取っている。健にとっては前世の「物流センターの基本中の基本」を語っているだけなのだが、この世界の住人にとっては、国家レベルのパラダイムシフトに近い革新的なアイデアのようだった。(ふぅ、やっぱりこの世界の流通は、まだまだ改善の余地(伸びしろ)だらけだな……) そんなことを考えていた、その時だった。 健の脳内に、突如として激しいアラート音が鳴り響いた。『――警告。隔離タブ内にて、異常エネルギーの増幅を確認。対象:『神殺しの黒刃』――』『――警告。対象が『物流管理』のインベントリシステムと予期せぬ共鳴を開始しました――』(な、なんだって!?) 健は思わず、馬車の座席で身を固くした。 隣のエレノアが「ケン様、どうかなさいましたか?」と怪訝そうな顔をしたが、「あ、いえ、少し考え事をしておりまして」と営業スマイルで誤魔化す。 意識をインベントリの奥深くへと集中させる。 そこでは、厳重にロックされていたはずの漆黒の短剣『神殺しの黒刃』が、激しく紫色の光を放ちながら震えていた。しかし、それは隔離を破って暴走しているというよりは、何かを貪欲に「吸収」しているような動きだった。『――共鳴プロセスが進行中。神話級アイテムの持つ『概念干渉能力』が、固有スキル『物流管理』のシステムを再構築しています――』(再構築!? おいおい、俺の地味なスキルに何をしてくれてんだ!)『――統合完了。固有スキル『物流管理』がバージョン2.0へとアップデートされました。新機能[神の棚卸し(ゴッズ・アソート)]および[概念分解・再構成]が解放されました――』(ゴッズ・アソート……? 概念分解……?) 健は慌てて、脳内で新機能の詳細を確認した。 すると、とんでもない説明文が表示された。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【新機能:神の棚卸し(ゴッズ・アソート)】・空間内の物品だけでなく、その物質が持つ「呪い」「毒」「破損」「劣化」といった『不要な概念(在庫)』だけを個別に認識し、引き抜いて(棚卸しして)消去することが可能。【新機能:概念分解・再構成】・インベントリ内の素材を分子・魔力レベルで分解し、別の完璧な状態へと「再構成(加工)」して出庫できる。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(……おいおいおい、これ、地味なスキルどころか……完全なチート能力に化けちまったぞ!?) 健は冷や汗が止まらなかった。 どうやら、あの短剣が持つ「神の結界や概念を切り裂く能力」が、健の「空間内の物品を管理・整理する能力」と混ざり合ってしまったらしい。 結果として、「物質の悪い部分(呪いや汚れ)だけを『ゴミ在庫』として認識してゴミ箱にポイする」という、文字通りの神業が可能になってしまったのだ。「ケン様? 本当に顔色が優れませんわよ? お疲れでしたら、一度商会の休憩室で……」「あ、いえ! 大丈夫です、ちょっと素晴らしいアイデアが閃いただけですので!」 健は慌ててエレノアに笑顔を返した。 馬車が商会の本邸に到着した時、健は自分の新しい能力を試してみたくてウズウズしていた。同時に、この能力のヤバさを隠し通さなければならないという緊張感で、胸がバクバクといっていた。 レヴィ大商会の本部は、城壁の近くにある広大な敷地を誇っていた。 いくつもの巨大な倉庫が立ち並び、多くの従業員が忙しそうに荷物を運んでいる。エレノアに案内されて第一倉庫に入ると、確かにそこは、健のアドバイス通り「馬車の渋滞」が発生していたが、それ以上に深刻な現場の悩みが健の目に飛び込んできた。「ハァ……これもダメか。今月は本当に不作だな」 倉庫の一角で、初老の鑑定士が、山積みにされた薬草を見てため息をついていた。「どうされたのですか?」 エレノアが尋ねると、鑑定士は沈痛な面持ちで首を振った。「副会長。今期、西の森から仕入れた『マジック・リーフ(魔力草)』なのですが、長雨のせいで全体の八割に『黒カビ(魔変異)』が発生しております。カビの毒性を完全に取り除くには高度な浄化魔法が必要ですが、魔導師を雇うコストを考えると、このまま全廃棄にするしかありません。商会としては、金貨五十枚以上の損失になります……」「そんな……。マジック・リーフは、回復薬の原材料として、今一番市場で求められているのに……」 エレノアが美貌を歪め、悔しそうに拳を握りしめた。 その光景を見た健の頭の中で、新しいスキルが自動的に発動した。【在庫検索:マジック・リーフ(黒カビ汚染品)×500束を認識。新機能[神の棚卸し]を実行可能。対象の『黒カビ(有害概念)』を在庫から除外しますか?】(……よし、やってみるか。エレノアへの『デモンストレーション』としても、ちょうどいい)「レヴィ副会長。もしよろしければ、私がその薬草の『在庫処理』をさせていただいてもよろしいでしょうか?」「え? ケン様がですか? ですが、これは魔法の道具で片付けるだけでは……」「私の『物流管理』の手法を使えば、不良品を良品に変えることができるかもしれません。少し、その薬草に触れさせてください」 エレノアと鑑定士が不審そうな顔をする中、健は山積みにされた、黒ずんで異臭を放つ薬草の山へと近づいた。 そして、そっと手を触れる。(スキル『物流管理』――[神の棚卸し]。……黒カビの概念だけを、すべて消去(廃棄処分)!) その瞬間、健の指先から、ほんのわずかに目立たないほどの「透明な波動」が広がった。 直後、信じられないことが起きた。 薬草の表面を覆っていたどす黒いカビが、まるで幻だったかのように、サーッと一瞬で消え去ったのだ。それだけではない。長雨で萎びていた葉が、みるみるうちに瑞々しい緑色を取り戻し、倉庫の中に爽やかな、濃厚な魔力の香りが満ち溢れていく。「……なっ!?」 老鑑定士が、目玉が飛び出んばかりに驚いて絶叫した。「ば、馬鹿な! カビが消えた!? それどころか、この魔力の密度……これは『最上級』の品質のマジック・リーフだぞ! 一瞬で浄化されたというのか!?」
老鑑定士の絶叫は、第一倉庫の喧騒を一瞬で切り裂いた。
荷運びの手を止めた従業員たちが、一斉にこちらを振り向く。ざわめきが波のように広がり、やがて倉庫全体が異様な静寂に包まれた。
その中心で、健は内心の冷や汗を必死に押し隠しながら、あくまで平然とした顔を保っていた。
(や、やりすぎたか……!? いやでも、最上級品質にまでなるとは聞いてないぞ! ただカビだけを除去したつもりだったんだが!?)
脳内では、例の無機質なシステム音声が淡々と報告を続けている。
『――対象物に付随していた「劣化」「腐敗」「魔力減衰」の不要概念も同時に除去されました。品質は理論上の最適状態へ補正されています』
(補正ってなんだ補正って! 勝手に高品質化するな! 現場で説明がつかないだろうが!)
しかし現実は待ってくれない。
エレノアは、先ほどまでの冷静沈着な副会長の仮面を完全に失っていた。青い瞳を大きく見開き、信じられないものを見るように薬草の山と健の顔を交互に見つめている。
「……ケン、様」
その声は、かすかに震えていた。
「はい」
「今、何をなさいましたの?」
来た。
健の社畜時代に鍛え上げられた危機管理能力が、全力で回転を始める。ここで「実は神殺しの短剣とスキルが融合して概念を棚卸ししました」などと言えるはずがない。そんなことを口にした瞬間、平穏な生活は完全に終わる。
健は一拍だけ間を置き、いかにも「企業秘密です」と言わんばかりの営業スマイルを浮かべた。
「少々特殊な在庫処理技術です。傷みや不純物を選別し、不要部分だけを除去する――そういう手法だとお考えください」
「不要部分だけを……除去?」
老鑑定士が、ふらふらと薬草の山に歩み寄る。震える手で一束を持ち上げ、葉脈を確認し、匂いを嗅ぎ、魔力の流れを探るように目を閉じた。
数秒後、彼は顔面蒼白のまま振り返った。
「副会長……間違いありません。毒性反応、ゼロ。魔変異、完全消失。しかも葉の繊維組織に損傷がないどころか、採取直後以上に活性化している……。こんなこと、王都の宮廷魔導師でも不可能です」
その言葉に、周囲の従業員たちがどよめいた。
「王都の宮廷魔導師級……?」 「いや、それ以上じゃないのか?」 「ギルドの顧問って聞いてたけど、何者なんだあの人……」
(やめて。そういう噂、ほんとやめて)
健は心の中で頭を抱えた。
エレノアはしばらく沈黙していたが、やがてすうっと深く息を吸い、商人としての顔を取り戻した。驚愕を無理やり理性で押さえ込み、状況を利益と機会に変換する、まさに一流の経営者の目だった。
「……皆、持ち場に戻りなさい。この件は副会長権限で一時的に機密扱いとします。ここで見たこと、聞いたことを、みだりに外で口にすることは許しません」
静かな声だったが、逆らえない迫力があった。
従業員たちは慌てて頭を下げ、蜘蛛の子を散らすように持ち場へ戻っていく。老鑑定士もなお未練がましく薬草を見つめていたが、エレノアの視線を受けて咳払いし、深々と一礼した。
「……承知いたしました、副会長」
人払いが済むと、エレノアは健に向き直った。
「ケン様。少し、場所を変えましょう」
その声音には、先ほどまでの軽やかさはなかった。商談の延長ではない。もっと重大な、腹を割った話をする時の声だ。
通されたのは、本邸の最上階にある私室兼執務室だった。
重厚な木の机、壁一面の本棚、都市近郊の街道と物流拠点が描かれた巨大な地図。窓からはロンドベルの町並みと、その外へ伸びる街道が一望できる。いかにも「この町の物流を支配する者の部屋」という空間だった。
執事風の老人が無言で紅茶を置き、エレノアの合図で退室する。部屋には、健とエレノアの二人きりになった。
エレノアは机を挟まず、あえて応接用のソファに健を案内した。対等な交渉相手として扱う意思表示だろう。
「まず申し上げますわ、ケン様。先ほどの奇跡について、私は無理に詮索するつもりはありません」
「……助かります」
「ですが、詮索しないことと、価値を理解しないことは別です」
エレノアはまっすぐに健を見た。
「あなたの力は、この町の商業地図を塗り替えます。いえ、下手をすれば王国全体の流通、医療、軍需、そして権力構造すら変えてしまう」
健は黙って紅茶に口をつけた。うまい。だが味わっている余裕はない。
「例えば先ほどの薬草。あれが安定して再生できるなら、ポーション価格は暴落します。庶民でも高品質な治療薬を買えるようになる一方、既存の薬師ギルドや浄化魔導師たちは職を脅かされるでしょう」
「……でしょうね」
「呪われた装備の浄化、劣化した食料の再生、破損した希少素材の修復。もしそれらが可能なら、戦争の形すら変わります。兵站の損耗が激減し、負傷兵の生存率が跳ね上がる。国家が放っておくはずがありません」
健は思わず、ため息をついた。
「副会長、やっぱりあなた、すごく頭が切れますね」
「商人ですもの。価値の匂いには敏感ですわ」
エレノアはそう言って微笑んだが、その笑みはどこか苦かった。
「だからこそ、理解できます。あなたがなぜ『平穏な生活』を望むのかも」
その一言に、健は少しだけ目を見開いた。
エレノアは続ける。
「大きすぎる力は、持つ者を幸福にしません。周囲が放っておかないからです。富、名声、権力、嫉妬、恐怖、利用、監視……。あなたほどの方なら、きっとそれを本能的に理解しているのでしょう」
健は苦笑した。
「ええ、まあ。前の人生で、少しばかり『仕事に追われる恐ろしさ』は学びましたので」
「前の……?」
「あ、いえ、こっちの話です」
危ない危ない、と健は心の中で額を押さえた。
エレノアは深追いせず、代わりに背筋を伸ばした。
「では、提案を改めます。引き抜きではありません。共同事業でも、単なる業務提携でもない。もっと限定的で、もっと秘匿性の高い契約です」
「秘匿性の高い契約?」
「ええ。ケン様には、表向きはこれまで通りギルドの物流顧問でいていただく。その上で、我がレヴィ大商会に対してのみ、月に数回、限定的な『特別在庫監査』を行っていただきたいのです」
「……言い換えると?」
「あなたの力が本当に必要な案件だけを、私の責任で選別し、極秘裏に持ち込む。対象は、商会の損失を左右する重大案件に限定。報酬は一件ごとの成功報酬制。さらに、あなたの身元と技術については、私が商会の名誉と全財産を賭けて秘匿します」
健は腕を組んだ。
悪くない条件だ。むしろかなり良い。常勤ではない。案件限定。成功報酬。何より、エレノアほど頭の回る相手が「秘匿の重要性」を理解しているのは大きい。
だが、問題は別にある。
「副会長。ひとつ確認したいんですが」
「何でしょう?」
「その契約、仕事が雪だるま式に増えたりしません?」
「……」
「『今月は三件だけ』と言っていたのに、気づいたら毎日呼び出されて、王都支店だの港湾倉庫だの地方領主との折衝だの、そういう話になったりしません?」
「……」
「俺、そういうの、すごく嫌なんです」
エレノアは数秒、ぽかんとした顔をしたあと、ふっと吹き出した。
それは、健が初めて見る、打算のない笑いだった。
「ふふっ……あはは……! 本当に、変わった方ですのね、ケン様は」
「よく言われます」
「分かりました。契約条項に明記しましょう。月の依頼件数は最大三件。追加依頼には必ず事前同意を必要とする。王都や他領への同行義務なし。人事権・常勤義務・部下管理義務なし。いかが?」
「素晴らしいです。できれば休日出勤禁止も」
「休日の概念があるのですね、あなたの仕事観には……」
「あります。絶対に必要です」
エレノアは再び笑い、やがて真剣な顔に戻った。
「ですが、その代わり条件があります」
「聞きましょう」
「あなたの力を、少なくとも人を救う方向に使ってください」
その言葉は、意外なほど真っ直ぐだった。
「商人として言えば、利益になるからです。ですが、それだけではありません。先ほどの薬草を見て確信しました。あなたの力は、ただ金を生むだけのものではない。病に苦しむ者、呪いに蝕まれた者、事故で失われた資材や生活を取り戻せるかもしれない。ならば、せめて私は、それを浪費や独占ではなく、価値ある形で流通させたい」
健はしばらく黙っていた。
この女は、強欲だ。だが同時に、ただの守銭奴ではない。利益と公益を両立させようとする、厄介なくらい優秀な経営者だ。
「……分かりました」
健はゆっくりとうなずいた。
「俺にも条件があります。危険物、兵器、戦争を長引かせる用途には使わない。少なくとも、俺が納得できない案件は断ります」
「承知しました」
「あと、俺の昼寝時間は守ってください」
「そこは本当に譲れませんのね……」
「命に関わるので」
エレノアは真顔でうなずいた。
「では、それも契約に入れましょう」
その後、二人は本格的な契約内容のすり合わせに入った。
健は前世の経験を活かし、守秘義務、依頼範囲、成果物の定義、責任分界点、例外条項、契約解除条件まで細かく詰めていく。エレノアもまた驚異的な理解力でそれに応じ、時に健以上に厳密な文言修正を提案してきた。
気づけば、窓の外は夕焼けに染まり始めていた。
「……これでひとまず、仮契約としては十分でしょう」
エレノアが羊皮紙から顔を上げる。
「ええ。まさか異世界で契約書レビューをする日が来るとは思いませんでした」
「いせかい?」
「あ、いえ、こちらの話です」
また危ない単語が出た。健は咳払いでごまかす。
その時、扉がノックされた。
「副会長、失礼いたします!」
入ってきたのは、若い商会員だった。顔色が悪い。
「どうしたのです?」
「第二倉庫で保管していた『蒼銀鉱石』の一部に、原因不明の脆化が発生しています! 触れただけで崩れるほどで、このままでは明日の鍛冶ギルドへの納品に間に合いません!」
エレノアの表情が険しくなる。
「損失見込みは?」
「現時点で金貨三十枚以上、さらに違約金が発生すれば……」
そこで商会員は、はっと健の存在に気づき、口をつぐんだ。
エレノアは一瞬だけ健を見た。
その視線は、問いかけだった。――契約前だが、頼れるか、と。
健は天井を仰いだ。
(いやいやいや、初日から二件目!? 月三件の上限、もう三分の二消化しそうなんだけど!?)
だが同時に、脳内では新スキルがうずいていた。蒼銀鉱石。脆化。原因不明。いかにも「概念分解・再構成」の出番ですと言わんばかりだ。
そして何より、納品が止まれば現場が混乱する。現場の混乱は、健にとって精神衛生上よろしくない。
「……副会長」
「はい」
「これは、仮契約前のサービス残業扱いですか?」
エレノアは一瞬きょとんとしたあと、口元を押さえて笑った。
「いいえ。正式に、一件目の依頼として計上しますわ」
「なら、行きましょう」
健は立ち上がった。
商会員が目を丸くする。エレノアはすぐに立ち上がり、真紅の乗馬服の裾を翻した。
「第二倉庫へ。急ぎます」
夕暮れの倉庫街を、三人は足早に進む。
第二倉庫の前には、すでに数人の職人と商会員が集まり、不安げな顔で中を覗いていた。中に入ると、木箱に詰められた青白い鉱石の一部が、まるで乾いた砂のようにぼろぼろと崩れている。
「これが蒼銀鉱石か……」
健はしゃがみ込み、そっと一片を手に取った。
脳内表示が即座に走る。
【在庫検索:蒼銀鉱石×240個を認識】 【うち87個に『脆化』『魔力流出』『微細呪詛汚染』を確認】 【対処候補:[神の棚卸し][概念分解・再構成]】
(微細呪詛汚染? なんで鉱石に呪いが混ざってるんだよ、この世界の物流は)
健は内心でツッコミを入れつつ、状況を整理する。
単純な除去だけでは足りない。すでに構造が崩れ始めているなら、再構成まで必要だろう。
「副会長。このロット、最近どこを経由しました?」
「北方鉱山から街道を通って直接ですわ。ただ、途中で一度だけ、旧街道沿いの中継倉庫に寄っています」
「その中継倉庫、何か出ませんでした?」
「……以前、盗賊団が根城にしていた廃砦の近くです」
「はい、原因それっぽいですね」
健は立ち上がり、木箱に手を置いた。
「少し下がってください。たぶん、直せます」
周囲が息を呑む。
健は目を閉じ、意識をインベントリの深層へ沈めた。
(『物流管理』――[神の棚卸し]。対象ロットから『呪詛汚染』『脆化』『魔力流出』を不良在庫として除外。続けて[概念分解・再構成]。蒼銀鉱石として最適状態へ再出庫)
透明な波動が、今度は木箱全体へ静かに広がった。
崩れかけていた鉱石の表面に淡い青銀の光が宿る。砂のように崩れていた断面が、逆再生のように滑らかに結晶化し、ひび割れが埋まり、失われていた輝きが戻っていく。
やがて倉庫の中に、澄んだ金属音のような共鳴が響いた。
「……終わりました」
健が手を離す。
沈黙。
最初に動いたのは、鍛冶職人風の男だった。恐る恐る鉱石を持ち上げ、ハンマーの柄で軽く叩く。
キィン――と、澄み切った高音が鳴った。
「……嘘だろ」
男の声が震える。
「最高級品だ。いや、鉱山から掘り出した直後より純度が高い……!」
またしても、倉庫内が騒然となった。
エレノアは額に手を当て、小さく息を吐いた。
「本当に……本当に、規格外ですのね、あなたは」
「できれば、その評価は内輪だけに留めてください」
「努力しますわ」
そう言いながらも、彼女の目は獲物を見つけた猛禽のように鋭く輝いていた。
健はその視線を見て、確信した。
(ああ……これ、絶対に忙しくなるやつだ)
平穏な生活を守るためには、力を隠すだけでは足りない。使い方を管理し、案件を絞り、信頼できる相手を選び、自分自身の労働環境を守らなければならない。
つまり――。
(異世界でも結局、必要なのは『マネジメント』かよ……!)
その事実に軽くめまいを覚えながらも、健は再生された蒼銀鉱石の山を見つめた。
物流は、流れだ。
物が流れ、人が助かり、町が回る。その流れを整えること自体は、嫌いではない。
ただし、過労死しない範囲で。
そう心に固く誓った、その時だった。
再び、脳内にシステム音声が響く。
『――新規クエストを検知』 『――レヴィ大商会、王都中央市場、聖教会医療院より、広域物流ネットワーク接続要請が発生』 『――ユニークスキル『物流管理』は次段階へ移行可能です』 『――条件を満たしたため、新機能[物流結界網]の解放準備を開始します――』
(……は?)
健の笑顔が引きつった。
隣でエレノアが首をかしげる。
「ケン様? 今度はどんな素晴らしいアイデアが閃きましたの?」
健は遠い目をした。
「……いえ。たぶん、俺の平穏が、また一歩遠ざかっただけです」
夕暮れの倉庫街に、商会員たちの歓声が響く。
その中心で、異世界最強の物流顧問は、今日もまた誰にも理解されない種類の危機感を抱えながら、静かに胃痛を覚えるのだった。




